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小説『キリンの首』を読む (付)私と生物学

2022-12-15 15:52:19 | 書評

 『キリンの首』 ユーディット・シャランスキー 
     細井直子:訳  河出書房新社

 邦訳のタイトルでは省略されているが、原書ではその書名に「Bildungsroman」というサブタイトルがついている。その意味は、著者がドイツ人の女性であることから、ドイツ文学伝統の「教養小説」とも受け止められるが、訳者解説によればこの言葉は「進化小説」とも読み取れるということなので、そのほうが適切かとも思われる。

              

 なぜなら、この小説の主人公、インゲ・ローマルクはギムナジウムで生物学を教えるベテランの女性教師であり、その世界観や人生観、そして教育方針も自然科学の法則によって貫かれているからである。
 ようするに、この教師は、自分が教える生物学とほとんど同一の価値観でもって生活し、かつ、教えているのである。そこには、生徒個々人への情をもった私的介入の余地はほとんど見いだせない。そればかりか、家族や職場の同僚に対してもそうなのである。ダーウィン流の適者生存こそが彼女の論理であり倫理なのだ。

 そうした彼女の姿勢が、現実とゴツゴツした関係の中で展開されてゆく。大半の場面がギムナジウムの教育現場でのそれだが、そこでの彼女の揺るがぬ姿勢と周辺との関係、そこに差し込まれる彼女の独白との奇妙な関係は、思わずクスッと笑いを誘ったり、あるいは先行きへの不安を感じさせたりする。
 その文体もまた、そっけないほど凛としたもので、乾いた情況を際立たせている。

           
            ユーディット・シャランスキー

 淡々と進む叙述に反し、一転して彼女が危機に立たされるのも、彼女のそうした姿勢ゆえである。それが終盤、集約された形で噴出する。
 それはまさに、キリンの首はなぜあんなに長くなったのかを説く進化の過程の授業の中で現れる。しかし、彼女は、授業が中断され、その危機を告げられた後もまた、そのキリンの首の講義を淡々と語り続ける。

 そこでは、今や不仲というか音信すらあまりないわが娘、クラウディアがかつては彼女の生徒であった頃の過去の出来事が明らかになり、彼女の陥っている現実の危機の姿が二重に浮き彫りにされ、明らかになる。
 キリンは進化の過程で、首を長くしたために他の生物には届かない食物を得たのだが、今やその首のギリギリのところまで水が迫ってきているようなものだ。

 こうした彼女に対する批判はある意味で容易である。しかし、本当に彼女を責めることができるのか。「適者生存」は、弱者を生み出しながらそれへの対応を自己責任による自助として突き放す現実のなかではまさにリアルではないのか。
 彼女についての最終の評価は、それぞれの読み手に託される。

 この小説のバックグランドとしてもうひとつ述べておく必要がある。それは、この小説の舞台がドイツ東部で、これが書かれた2011年の約20年前まではいわゆる「東独」としてソ連を始めとする東側陣営にあったということである。そしてまた、著者のシャランスキーも東独出身で、ベルリンの壁崩壊は9歳の折であったという。
 その影響が、みてとれる部分がしばしばある。生物学に関していえば、レーニン時代から評価されてきたミチューリン農法、さらにはスターリン時代に評価されたルイセンコ学説などの存在がそれである。

         
     パブロフ(左)にマルクス主義的ではないと噛み付いたルイセンコ(右)

 それらはソ連時代の集団農場などで生産性を上げるために動員されたものだが、西欧のメンデル遺伝学やダーウィンの進化論の流れとは別の方法を精密な検証なしに採用したため、生産性の向上どころか、農業に壊滅的な打撃を与え、何百万単位の餓死者を出したと指摘する向きもある。
 例えばルイセンコ学説は、ダーウィンなどが否定した「後天的な獲得形質の遺伝」をあえて肯定し、生物を変革できるとした。シベリアなど寒冷地でも小麦が生産できるよう、その種を予め冷凍保存して置いてから撒くなどがその実践で、公式の「成功」の報告とは真逆で、惨憺たる結果に終わっていたのが実情だという。まさにスターリン的行政の一つの結果がそこにある。
 この小説の主人公、インゲ・ローマルクはそれに与するものではないが、(むしろ厳密なダーウィン主義者である)職員室での雑談で、なおそれを評価している同僚教師がいることも描かれている。
         
 それから、この作家・シャランスキーは生物学を愛する作家であるとともに、ブックデザイナーであり、この書の装丁も自ら行っている。ドイツ語版は、古い生物学の教科書をイメージしたといわれ、文中にも動植物や細胞分裂、遺伝子、生物系統樹などの面白いイラストがまるまる1ページ、ときとして見開き2ページにわたって描かれ、活字に追われた目を楽しませ、リセットしてくれる。

      

 邦訳版は出来うる限りそれに近づけようとしたようで、表紙の首のないキリンのレントゲン写真であるかのような絵をどんと据えたデザインや、文中のイラストなどをほとんど忠実に再現しているようだ。

 ここで私自身の告白であるが、どちらかというと文系人間で、自然科学は苦手だったが、しかし、そのなかでも生物学は好きだった。そこには、やはりこの自分へと連なる歴史があり、進化の節々にはそれぞれの「物語」や「出来事」があり、また「突然変異」などの「偶然性」を排除しないリアリズムがあったように思ったからだ。

 しかし、いま思い起こすと、そうした興味をもたせてくれたのは高校時代のやはり女性の生物学の教師であった。この書の教師像とはまったく違ったが、最初の授業が教科書を捨てた野外の自然観察のフィールディングであったりして、興味深い授業であった。
 この事実をこの読書レポートを書く最終段階で思い出したのは、もちろんこの書のせいともいえるが、反面、この書を手にとった潜在的要因があの頃の生物学の授業の余韻であったのかもしれない。

 ここで自慢を一つ。商業高校から公立大を目指した私の受験は、当初からハンディずくめで、高校では習わなかった科目の独学を迫られたりしたのだが、この生物学についてはほとんど満点を取れたと思う。曲がりなりにも、進学できたのはそのおかげだった。

      

 そうそう、その折の生物学の教師は後藤宮子さんといって、退職後も長良川の中流域で「登り落ち漁」という漁法を駆使して魚類や水生昆虫類の定点観測を行い、この川での生態系の変化を克明に記録した。自身、京都大学に研究員として席を置き、彼女の観測結果の全データは、今や京大に保管されているという。

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