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パンドラの箱と女性のコンミューン 映画『肉体の門』を観る

2020-03-02 15:23:25 | 映画評論

 この国は、1945年の敗戦からから51年の西側のみとの単独講和まで、主権はなく連合国の、実質的には米国の占領下にあった。近代日本が成立して以来、最も国家権力が希薄な時期であったといっていい。
 したがってそこにはカオスが支配する混沌があった。とりわけ、敗戦までの大日本帝国が、蟻一匹も見逃さない軍国主義的統制によってがんじがらめであっただけに、その落差は大きかった。

              

 ほとんどのものを失った廃墟のなかから、小集団の小さな秩序、ささやかな倫理、かすかな希望のようなものが複数の事情に伴って生まれ、それらが並列して混在していたような時代、そんな時期を描いた映画である。
 原作は、戦後最初のベストセラーと言われた田村泰次郎の小説、『肉体の門』(1947年)。映画も同じタイトルである。

 この小説、これまで4回映画化されている。
 1948年の小崎政房によるもの。
 64年、鈴木清順によるもの。
 77年、西村昭五郎によるもの。
 そして、88年、五社英雄によるものである。

         

 これでみると、48年はまだ私が10歳だったから無理としても、64年の鈴木清順のものは観たかったと思う。ただしその頃は映画どころではない生活を送っている時期でもあった。
 77年のものは日活ロマンポルノの一環として作られたものである。
 結局私が観たのは、88年のもので、それもアマゾンのプレミアム会員は無料というもので観たのだからさほど、観た、観たと自慢できるような話ではない。

        

 全体的には群像劇の様相を帯びるが、中心はかたせ梨乃演じる通称「関東小政」こと、浅田せんが率いいる数人からなる娼婦のグループであり、彼女らは不発の一トン爆弾がそのまま残るビルの廃墟をヤサとして、一定の縄張りをもち体を売っている。
 ただしこのグループは、その戦争の体験から、米兵には体を売らぬことを掟としている。さらには将来の目的のための基金を稼ぎのなかから蓄えている。

           

 同様に、娼婦のグループがあり、廃車のバスをアジトにしていて、通称「ラク町のお澄」こときたがわ澄子(名取裕子)率いるラク町一家もそのひとつ。関東小政のグループとラク町一家は、しばしばその縄張り争いからタイマンを繰り広げることとなり、そんなシーンが二度ほどでてくる。文字通り体を張った演技でどちらも凄まじいが、ヤクザのそれに比べ遥かに公正な決闘といえる。

 他には、戦後成り上がりのヤクザグループ、袴田義男率いる袴田一家が一帯の闇市を仕切り、なおかつ、関東小政のアジトである廃墟ビルの将来性を見越し、それを奪い取ろうと虎視眈々と狙っている。彼らはいわゆる経済ヤクザへと至る萌芽をすでに持っているが、そのやり口は残忍である。

        
 
 これらすべての登場人物に、戦争はそれぞれ深い爪痕を残している。ただし、この時代の制約として、アメリカに敗けた、やられたという被疑者意識とそれへのルサンチマンに満ちていて、その戦争の加害者性には全く触れられていない。

 それはさておき、全体はまさにカオスのパンドラの箱である。
 ここでパンドラを持ち出したのには意味がある。パンドーラはギリシャ神話においては人類最初の女性とされ、カオスが詰まった箱を開けるのはまさに彼女なのだ。
 この映画の最終章で、女性が開け、カオスの秩序を破壊し尽くすパンドラの箱は、廃墟の一トン爆弾を炸裂させる行為にほかならない。

              

 そしてその箱の底に張り付いた最後の希望、それは彼女たちが体を張って稼いだ金によって実現されるはずだったパラダイスにしてコンミューンとしてのダンスホールであった。
 彼女たちはそこで、客引きのための原色のサイケデリックな衣装を脱ぎ捨て、純白のドレスで踊るはずだった。

 彼女たちの夢は、小政の純白のドレス姿での華麗な舞として私たちの目に焼き付けられる。かくて、女性の共和国、そして実現されたかもしれない協議会方式の戦後日本の再出発をも吹き飛ばして映画は終わる。

          

 その頃、一〇歳であった私は、一世代あとの五八年前後から、戦後日本の現実と対峙することとなる。
 それ以前に、関東小政の生き方やその夢を知っていたら、私はもっと真摯に事態に対応できたかもしれない、などと思ってしまう。
 
 ノイズが主流であった戦後、そして、きれいにそうしたノイズが片付けられてゆく現在、私のノスタルジアは、大きく戦後へとブレるのであった。
 なんにもなかったが、なんでもあった戦後、なんでもあるがなんにもない現在。
 純白のドレスを纏った関東小政が、私の迷妄をなかば笑い、なかば容認するように優雅に裾を翻してターンする。


なお、この映画では、「コルトの新」伊吹新太郎 (渡瀬恒彦)が登場し、重要な役割を果たすのだがあえて割愛した。彼と、関東小政との関係に嫉妬したせいかもしれない。

 

 

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