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オダギリジョー監督『ある船頭の話』を観る

2019-10-06 01:43:45 | 映画評論
 これを観たのは、オダギリジョーが自ら脚本を書き、長編初監督に挑んだ映画だからである。
 彼はこれまで数々の映画に出演し、私が観た範囲では、そのどれもいい映画であり、彼の演技も良かった。それだけに、今度はメガホンをとる立場でどんな映画を作り上げたかに興味があった。

             
 作品に込められたメッセージは明らかで、近代化、合理化が人間に何をもたらし、何を奪ったかという古くて新しい問題である。
 そして、それはよく分かる。いや、分かりすぎてしまうのだ。そこが問題だと思う。

          
 古くからの渡船場、その渡し船の船頭を演じるのは柄本明、彼がこの役を演じたらこうだろうなという期待通りの持ち味を発揮していて、その意味でははまり役と言える。
 この渡守の小屋と、その上流に築かれつつある橋、というだけで、伝統的なものと近代的なものとの二項対立はガッチリと設定されている。

          
 そこへ、さまざまな乗船客や寓意的なアイテムが差し込まれ、それだけでもう、「伝統vs近代化」の図式は十分に示し尽くされている。にもかかわらず、それらが、つまり映画がはらむメッセージ性が、随所でセリフとして語られるなど過剰に表現されている感がある。

          
 そうなると、観ている方は、この料理はこのようにして食べなさいと重ね重ね念を押されているようで、それらの料理を自主的に味わう余地を奪われてしまうのだ。

          
 オダギリ君は生真面目でやや小心に、自分の意図が観客に伝わらないのではないかと頑張りすぎてしまったのだと思う。
 誤解を恐れずにいえば、君の意図が伝わるかどうかなどは問題ではなくて、大切なのは、君の提示した映像が、誤解や曲解を含みながらどこまで私たちの想像力を刺激し、開放し、膨らませてくれるかにあるのだと思う。

          
 初監督の映画に、いささか辛辣すぎるかもしれないが、上に描いたような問題をはらみながらも、やはり楽しめる映画であった。随所で繰り出されるオダギリ監督の想像力による映像アイテムは、けっこう刺激的であったし、ラストシーンに至る畳み掛けはそれまでの静謐さを裏切るように迫力があり、それまで受け身を貫いてきた主人公の船頭が決断し、行為する様はまさにクライマックスにふさわしいものであった。
 その後のクレジットに続くラストシーンの美しさも含めて。

          
 映像は、滔々と流れる山あいの清流を挟んだ地域に限定されるが、それらは自然の呼気のようなものを余すところなく捉えていて、カメラワークも抜群である。それだけでも一見の価値がある。
 調べてみたら、撮影監督は、かつて、私も感動した香港映画『花様年華』(ウォン・カーウァイ監督 トニー・レオン、マギー・チャンが主演男優、主演女優)を撮ったクリストファー・ドイルという人だとか。

          
 オダギリジョーが今後も監督を続けるかどうかはわからないが、もし続けるようならば、映画の文法、つまり映画においてはそのシニフィアン(語り)は映像そのものであることを是非学んでほしい。

 

 













コメント (4)
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