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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を観て

2019-07-23 17:51:56 | 映画評論
 図書館といえば、主として文字を中心とした(最近は音楽媒体、映像媒体も取り扱うが)情報を収集し、管理保管し、それを必要とするものに貸与する場所であると考えられる。かくいう私も、その機能には大変お世話になった。文字を経由しての私の知のようなものの大半はこうした図書館のお世話で得たものといえる。 

 映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』は、92の分館を持つというこの巨大図書館の物語である。ただし、その図書館の舞台裏や裏話のようなものを見せる記録映画ではない。もちろん、そうした映像も挿入されるが、それが主体ではなく、むしろこの図書館が、そのバックの共同体においてどのような機能を果たしているのか、あるいは果たそうとしているのか、それについての強い志向性がビンビン伝わてくるスケールの大きな記録映画といえる。

           
 だから冒頭に述べた情報を収集し、管理保管し、貸与供給するといった基本的な機能を超えたところでの話題が多くなる。もちろん、日本の図書館でも講演や展示など各種文化事業を行っているところはかなりある。
 しかし、この図書館はその領域をも超えて更に広く深く問題を追求してゆく。

        
 例えば、PCの操作などに不案内で、ともすれば情報弱者になりがちな市民に対し、PCの貸与供給やその取り扱いの講習などの企画が進められている。
 あるいは、これは日本の図書館でも問題になっているようだが、ホームレスの来館に付いての協議が行われる。ここで感心するのは、彼らの来館をどう規制するかしないかといった「対策」の設定にとどまらず、ホームレスの存在そのものについて行政との連携のうちで考えてゆこうとする視点だ。
 要するに規制対策ではなく、共同体が抱える貧困やその解消の問題としての捉え返しである。

        
 その他児童教育の問題、障がいをもった人への情報提供のあり方などが、スタッフの、あるいは時として利用者や地域住民を交えての熟議によって検討されてゆく。
 その熟議の場は何度も登場する。

        
 後半に至るとさらに問題は大きくなる。
 黒人を始めとする人種差別の問題への切込み、そしてさらには教科書をめぐる歴史修正の問題へと至る。
 ここで興味を引くのは、南部を中心に使われている教科書には、「黒人たちは、仕事を求めてアフリカからやってきました」と述べられているということだ。もちろんここで抜け落ちているのは、奴隷としてつれてこられた彼らの歴史である。

        
 あまりにもひどい改ざん、と笑っていられる場合ではない。私たちの国でも、朝鮮半島からの徴用工や慰安婦をまるで自ら希望した自己責任とする記述がまかり通り、それへの補償を認めないばかりか、それら要求への執拗な嫌がらせのような外交を継続しているではないか。

        
 図書館の問題に戻ろう。この映画に描かれたそれは、冒頭に述べたように図書の貸し借りといったお決まりの守備範囲から、社会問題一般に迫る内容をもっている。
 というか、図書館に関わる問題を対処療法的に考えるのみではなく、その問題の根幹そのものに迫ろうとするとき、図書館はあたかも共同体全体が抱える問題の縮図といった様相を呈し、それら諸問題のネットワークの中枢に位置せざるを得ないかのようである。

        
 ここには確かに、アメリカ社会の抱える諸問題が反映されていてそれ自身が問題であることはいうまでもない。
 しかしだ、あのトランプを抱えるアメリカにありながら、問題可決のための成員の熟議という建国以来の伝統が随所に垣間見られ、その意味では開けへの可能性が確実にあるように思った。
 反面、看板のみの民主主義で、息の詰まるような陰湿な状況のうちにある日本という国の現状は、あまりにも姑息で閉塞感に満ちているといわざるを得ない。

        
 映画を観た日は、参院選の投開票日だった。
 結果は、その陰湿な閉塞感の象徴であるような宰相が率いる与党が、相変わらず重しのようにのしかかる体制が継続するとのこと。ウンザリしている。



 
コメント (1)
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