いちいちうちから出るのは億劫だから、別にその日に済まさなくてもいいものはほっといて、ある程度用件が溜まったら出かけることにしている。
そんなわけで、行くべきところが四箇所ほど溜まり、ではっと重い腰をあげることとした。家を出る前に、どの順で回ったらロスが少ないか、あるいは先方との時間的折り合いがつきやすいかを計算して順路を決め、車を走らす。
用件は全部岐阜市内だが、それぞれ別々の方角である。それらをうまくつなぎ合わせて巡回し、最後のところを出てさあ帰路ということになって、はからずも懐かしい地域を通ることになった。しかも、その懐かしさは二重である。
なぜ二重かというと、この地域には、大垣郊外に疎開する前、私が六歳の1944年の終りまで住んでいたところであり、また、5年間の疎開ぐらしから岐阜へ戻った1950年初めに住み始めたところだからだ。
両方共に借家であったから、同じところではないが、その隔たりは数百メートルぐらいであった。だからこの地域は、戦前最後と戦後最初の岐阜での生活の場だあったわけだ。
戦前、私が住んでいた家は、まだ10年ぐらい前まではその風貌を留めたまま残っていたが、流石にいまはない。
戦後、帰ってきて住んだのは、当時、岐阜市会議員の重鎮といわれた人がお妾さんのために建てた家で、ちょっと小粋な庭があり、歌の文句のように黒板塀越しに見越しの松が覗くような、いま思うとずいぶん風情のある家だった。そこに私たちが住めたということは、何らかの理由でその市会議員とお妾さんが別れたからだろうか。住んでいる当時は、そんな事は考えもしなかった。
これもいまは建て替えられている。
この地域で、間に疎開生活を挟んだ幼年時代と少年時代を過ごしたわけだから、この辺りを通りかかると、日頃は忘却の淵に沈んでいる記憶たちが、むくむくと頭をもたげてくる。
こうして書いていると、ますますそれらの思い出が増殖してきて、何を書いていいのかわからなくなる。
だから、下に掲げた二枚の写真からの思い出に留めよう。
この写真は、冒頭に述べたいろんな用件を済ませ、むかし住んでいた地域のある交差点で信号待ちをしている車中から撮ったものである。
場所は、中山道と並行して作られた道路と、加納城の大手町筋が交差するところであり、私の車の前方(南)の突き当りが加納城である。
では、中山道はどこにあるかというと、一枚目の写真で前方の車と私の車の間、明るい色に舗装されているところがそれなのである。
私が前の車との間隔を空けて止まっているのは、この中山道を走ってくるかもしれない車の邪魔をしないためなのだ。
ちなみに、私の疎開前の住まいは左手後方であり、疎開地から帰ってきてからのそれはこの右斜め前で、それぞれ距離にして2、300メートルほどのところだった。
一枚目にも写っているが、二枚目の写真のやや黒っぽい建物、これも当時からは建て替えられたものだが、ここには懐かしい思い出がいっぱいある。この近辺の商店で、最も私が出入りをしていた店がここにあったからだ。
何屋かというともちろん駄菓子屋である。それ以外に子供が行きつけになる店なんてものはない。「変なもの食べるんじゃないよ」という親のチェックをかいくぐり、小銭を握りしめてよく通った。
駄菓子屋といっても、横丁にある間口の狭いそれとは違ってやや格上だったかもしれない。というのは、写真に見る家の一階部分がすべて店舗だったのだから。
ただし、その右半分はアイスキャンデーの製造販売で、水色の箱が並ぶ中、モーターからベルトを伝わった機械が回り、あたりには冷却用のアンモニアの匂いが漂っていた。決していい香りではないのだが、それがアイスキャンデーをつくためならばじゅうぶん許容範囲内であった。
こうして製造していたから、自転車に冷蔵の箱を付けて、カランカランとハンドベルを鳴らしてアイスキャンデーを売り歩く人たちもここへ仕入れに来ていて、なかには、私たちの遊び場にしていた広場へ売りに来るオジサンもいた。もちろん、その人からも買ったものだ。
この店での一番の思い出は、以下のようなものである。
当時、キャラメルと言えば例の森永の黄色い箱が圧倒的な存在感をもっていた。ただし、私のような庶民の子が日常的に口にすることは出来なかった。森永は、親戚の叔母さんがやってくる際、お土産にくれるものだった。
日常的に食べていたキャラメルは、森永より格下の中小のメーカーによるもので、パッケージも森永より小さく、したがって一箱の粒数も少なかったが、一人で食べるにはそれで充分だった。
その上、それらにはおまけやクジなどが付いていて、お得感や射幸心をくすぐるのだった。
ある日、クジ付きのものを買ったが、さほど期待はしていなかった。友だちがいつか五個おまけというのを当てたとは聞いていたが、それまでかなり買っていた私に僥倖が訪れたことはなかったからだ。
そんなわけで、無造作にパッケージを開けて同梱のカードを引き出して驚いた。いつになくケバいそのカードには、「特等大当たり!」の文字が踊っていたのだった。
で、特等とはどんな特典かというと、同じキャラメルが五〇個もらえるというもので、店のおばさんが、「おめでとう」といってそれを手渡してくれたのだが、当時は、手軽に使えるビニール袋などはなく、買い物はすべてマイバック(洋服用の木製のハンガーをふたつ、取っ手にし、その下に布製の袋をぶら下げたものが多用されていた。私の亡母もそれを日常的に使っていた)の時代だから、持ち帰る手段がない。
おばさんが「新聞紙でもあげよか」(当時、小売店では包装紙代わりに新聞紙を使うのは普通だった)といってくれたが、私はふといい案を思い浮かべ、「ううん、いらんよ」といって学生帽を脱ぎ、「ここへ入れて」といった。
小学生の学生帽にはキャラメル五〇個は多すぎたかもしれない。しかし、山盛りにしてやっと収まった。これがあの森永のサイズだったら決して入らなかっただろう。
零れ落ちそうになるキャラメルの山を上半身で包むようにして抱え込み、うちへもって帰った。
翌日、登校すると、もうクラスのみんながそれを知っていて、「おい、キャラメルもってきたか」と追っかけ回された。「いや、あれは今月分の俺のおやつだ」としつっこいクラスメイトと、じゃれあうようにしてもつれ合うのだった。
その年の六月二五日、朝鮮戦争が始まった。
そんなわけで、行くべきところが四箇所ほど溜まり、ではっと重い腰をあげることとした。家を出る前に、どの順で回ったらロスが少ないか、あるいは先方との時間的折り合いがつきやすいかを計算して順路を決め、車を走らす。
用件は全部岐阜市内だが、それぞれ別々の方角である。それらをうまくつなぎ合わせて巡回し、最後のところを出てさあ帰路ということになって、はからずも懐かしい地域を通ることになった。しかも、その懐かしさは二重である。
なぜ二重かというと、この地域には、大垣郊外に疎開する前、私が六歳の1944年の終りまで住んでいたところであり、また、5年間の疎開ぐらしから岐阜へ戻った1950年初めに住み始めたところだからだ。
両方共に借家であったから、同じところではないが、その隔たりは数百メートルぐらいであった。だからこの地域は、戦前最後と戦後最初の岐阜での生活の場だあったわけだ。
戦前、私が住んでいた家は、まだ10年ぐらい前まではその風貌を留めたまま残っていたが、流石にいまはない。
戦後、帰ってきて住んだのは、当時、岐阜市会議員の重鎮といわれた人がお妾さんのために建てた家で、ちょっと小粋な庭があり、歌の文句のように黒板塀越しに見越しの松が覗くような、いま思うとずいぶん風情のある家だった。そこに私たちが住めたということは、何らかの理由でその市会議員とお妾さんが別れたからだろうか。住んでいる当時は、そんな事は考えもしなかった。
これもいまは建て替えられている。
この地域で、間に疎開生活を挟んだ幼年時代と少年時代を過ごしたわけだから、この辺りを通りかかると、日頃は忘却の淵に沈んでいる記憶たちが、むくむくと頭をもたげてくる。
こうして書いていると、ますますそれらの思い出が増殖してきて、何を書いていいのかわからなくなる。
だから、下に掲げた二枚の写真からの思い出に留めよう。
この写真は、冒頭に述べたいろんな用件を済ませ、むかし住んでいた地域のある交差点で信号待ちをしている車中から撮ったものである。
場所は、中山道と並行して作られた道路と、加納城の大手町筋が交差するところであり、私の車の前方(南)の突き当りが加納城である。
では、中山道はどこにあるかというと、一枚目の写真で前方の車と私の車の間、明るい色に舗装されているところがそれなのである。
私が前の車との間隔を空けて止まっているのは、この中山道を走ってくるかもしれない車の邪魔をしないためなのだ。
ちなみに、私の疎開前の住まいは左手後方であり、疎開地から帰ってきてからのそれはこの右斜め前で、それぞれ距離にして2、300メートルほどのところだった。
一枚目にも写っているが、二枚目の写真のやや黒っぽい建物、これも当時からは建て替えられたものだが、ここには懐かしい思い出がいっぱいある。この近辺の商店で、最も私が出入りをしていた店がここにあったからだ。
何屋かというともちろん駄菓子屋である。それ以外に子供が行きつけになる店なんてものはない。「変なもの食べるんじゃないよ」という親のチェックをかいくぐり、小銭を握りしめてよく通った。
駄菓子屋といっても、横丁にある間口の狭いそれとは違ってやや格上だったかもしれない。というのは、写真に見る家の一階部分がすべて店舗だったのだから。
ただし、その右半分はアイスキャンデーの製造販売で、水色の箱が並ぶ中、モーターからベルトを伝わった機械が回り、あたりには冷却用のアンモニアの匂いが漂っていた。決していい香りではないのだが、それがアイスキャンデーをつくためならばじゅうぶん許容範囲内であった。
こうして製造していたから、自転車に冷蔵の箱を付けて、カランカランとハンドベルを鳴らしてアイスキャンデーを売り歩く人たちもここへ仕入れに来ていて、なかには、私たちの遊び場にしていた広場へ売りに来るオジサンもいた。もちろん、その人からも買ったものだ。
この店での一番の思い出は、以下のようなものである。
当時、キャラメルと言えば例の森永の黄色い箱が圧倒的な存在感をもっていた。ただし、私のような庶民の子が日常的に口にすることは出来なかった。森永は、親戚の叔母さんがやってくる際、お土産にくれるものだった。
日常的に食べていたキャラメルは、森永より格下の中小のメーカーによるもので、パッケージも森永より小さく、したがって一箱の粒数も少なかったが、一人で食べるにはそれで充分だった。
その上、それらにはおまけやクジなどが付いていて、お得感や射幸心をくすぐるのだった。
ある日、クジ付きのものを買ったが、さほど期待はしていなかった。友だちがいつか五個おまけというのを当てたとは聞いていたが、それまでかなり買っていた私に僥倖が訪れたことはなかったからだ。
そんなわけで、無造作にパッケージを開けて同梱のカードを引き出して驚いた。いつになくケバいそのカードには、「特等大当たり!」の文字が踊っていたのだった。
で、特等とはどんな特典かというと、同じキャラメルが五〇個もらえるというもので、店のおばさんが、「おめでとう」といってそれを手渡してくれたのだが、当時は、手軽に使えるビニール袋などはなく、買い物はすべてマイバック(洋服用の木製のハンガーをふたつ、取っ手にし、その下に布製の袋をぶら下げたものが多用されていた。私の亡母もそれを日常的に使っていた)の時代だから、持ち帰る手段がない。
おばさんが「新聞紙でもあげよか」(当時、小売店では包装紙代わりに新聞紙を使うのは普通だった)といってくれたが、私はふといい案を思い浮かべ、「ううん、いらんよ」といって学生帽を脱ぎ、「ここへ入れて」といった。
小学生の学生帽にはキャラメル五〇個は多すぎたかもしれない。しかし、山盛りにしてやっと収まった。これがあの森永のサイズだったら決して入らなかっただろう。
零れ落ちそうになるキャラメルの山を上半身で包むようにして抱え込み、うちへもって帰った。
翌日、登校すると、もうクラスのみんながそれを知っていて、「おい、キャラメルもってきたか」と追っかけ回された。「いや、あれは今月分の俺のおやつだ」としつっこいクラスメイトと、じゃれあうようにしてもつれ合うのだった。
その年の六月二五日、朝鮮戦争が始まった。