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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「理由なき殺人」の記号論と価値論

2015-02-01 01:04:07 | 社会評論
       

 人を殺すということがひとつの記号(「シニフィアン」といったりしますが、この際それはどうでもいい)であるとすれば、その記号で意味されるもの(「シニフェ」といったりしますが、それもこの際どうでもいい)は「憎しみ」や「恨み」、「金銭欲」、あるいは「戦場での功名」などでしょうか。
 こんな回りっくどいいい方をしなくても、単純に動機といっていいでしょうね。

 ようするに殺人という記号には、その記号で意味される内容、つまり動機というものがあるというのが普通であったし、いまも大半はそうであろうと思われます。

 しかし、近年、そうした動機を欠いた、いわば殺人という記号がひとり歩きをする例が増えてきたように思うのです。
 私がそれを強烈に意識させられたのは2001年の池田小学校の無差別殺人事件でした。小学生8人を殺害したこの事件は、極めて広い意味では犯人宅間守の世間一般に対するルサンチマンがあったとはいえ、小学生たちへの直接の動機は認められません。彼は法廷で、小学生たちの犠牲は彼が死刑になるための踏み台であったに過ぎないと供述しています。

 それらを調べているうちにその頃から、動機を特定しにくい殺人が結構多いことに気づきました。ようするに「殺すために殺す」という殺人が増えたのです。
 それらの凄惨な内容はいちいち列記しませんが、ざっと見ても以下のようなものが目につきます。

2000年 豊川市主婦殺人事件 
2005年 静岡県県立高校1年の女子生徒による母親毒殺未遂
2007年 福島県県立高校3年の男子生徒による母親殺人と頭部切断事件
2008年 秋葉原無差別殺傷事件
2013年 神奈川県での母親殺人と解体
2014年 佐世保女子高生殺害解剖事件
2014年(発覚は15年) 名古屋の女子大生による殺人

 冒頭に、意味内容のない記号を連想すると書きましたが、同時に、使用価値なき交換価値という言葉も考えたりします。
 商品というものはそれ自身の用途にとって有用な使用価値がベースにあり、それによって交換が可能になり、ようするに売れることによっていくらかの交換価値として実現するのですが、「理由なき殺人」、あるいは「殺すために殺す」は、有用性に基づく使用価値を欠いた交換価値の一人歩きに似ているような気がするのです。

 そんなことを考えるのは、最近のTVのCMなどを見ていると、その商品の使用価値がよくわからないものがとても多いからなのです。 
 これは私自身の老齢化により、それらへの情報に疎くなっていることが考えられます。また、商品の世界が限りなく細分化していることにもよるのでしょう。

 しかし、なおかつ、使用価値が不分明で、それがなくなっても一向にかまわないものが氾濫していることも事実です。また、いいから売れているのではなく、売れているからいい商品なのだという逆転現象があることも事実です。

 資本主義というのは資本の増殖が第一課題ですから、その商品の使用価値がなんであれ、売れて資本を回収し、なおかつ資本を増やす商品がいい商品なのは当たり前のことなのです。
 もちろん、売れるためにはいい商品をという志向が働くことは当然でしょう。しかし一方、売れさえすればという動機のもと、CMでがなりたてるという商品もあります。

 何がいいたいかというと、使用価値を欠いた商品は存在するし、それらは日々増殖しつつあるということです。
 早い話が、ここにとても有用だが(この基準も問題ですがそれはひとまず棚上げにします)売れない商品があり、また一方にはあまり有用性は認められないが売れる商品があるとしたら、資本は前者から後者に容易に移動するでしょう。
 株式市場がそうです。株を売買する人たちはその会社の商品の有用性よりも、売れ筋の商品を有しているかどうかを判断基準にして投資を移動させます。「火」を売る会社から「水」を売る会社への移動は極めて容易なのです。

 かくして、交換価値偏重の傾向、あるいは交換価値しか見えない視線の増殖はどんどん進んでいるように思えるのです。

 別に「資本論」の続編を書いているのではありません。世相そのものがこうした風潮と関連があるのではないかと思うのです。
 この小論の出発点であった「動機なき殺人」を指示内容(シニフェ)を欠いた記号(シニフィアン)に例えましたが、これは同時に、使用価値を欠いた交換価値との関連に相当するように思うのです。

 というのは、記号というものが他者とのコミュニケーションを仲立ちするとしたら、種々雑多な商品を仲立ちする記号は交換価値、つまり「いくらか」ということなのです。
 そしてこの「いくらか」という基準がひとり歩きする時代においては、「殺人」や「愛」や「セックス」などすべてがその記号内容を欠いた、つまり意味内容を欠いた記号として一人歩きをするのではないかというのがこの小論の仮説なのです。

 そして、最後に言い足しますが、私のように記号内容や使用価値にしがみつく時代は終わったのかもしれないとも思うのです。そしてそれが、「0と1」に還元される記号の時代の新しい論理や倫理かもしれないとも思うのです。
 しかし一方、それらの全面展開は、どうか私の死後にしてほしいとも思っているのです。といっても、あと僅かですが。

 
コメント
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