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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「タコツボ的思考」について考える

2015-02-15 14:51:04 | 日記
        
 前回は情報の無政府的ともいえる多様化の中で、かつての、根幹といえる部分を共有しながら、それから派生する幾多の枝がはえているような樹木のイメージとして考えることが不可能になり、いわば、枝葉が直接地面のあちこちから生えるような個別化された情報群とそれに依拠した人びとの群れを仮説的にイメージしてみた。
 
 これは一面、情報のタコツボ化ともいえる。おのれの入っているタコツボを唯一の世界として、通時的(歴史的)、共時的(世界空間的)な連鎖(=いわゆるコモン・センス)から切り離された情報の授受ということである。

 これは、自分の都合の良い情報のみで武装するネウヨといわれる人たちに典型的で、確か津田大介氏が言っていたと思うが、その大半は、週刊誌の見だしや、本屋の店頭に平積みにされている嫌韓嫌中本のタイトルぐらいしか見ておらず、自分で検証することもほとんどしないといわれる。

 もっとも、中にはとても詳細に歴史修正的な文献を読み漁っている人もいて、一般的な通史ぐらいしか知らないとつい圧倒されてしまうようなこともあるのだが、にもかかわらず、そうした人の参照文献がもともとそうした傾向で書かれているものばかりだという点で、タコツボの中でのディレッタントといわれても仕方あるまい。いわば自分の尻尾を追いかけているようで、蟻地獄的な深化はあっても他者との交流は予めカットされている。

 ところで、ここで書こうとしているのはネウヨといわれている人たちの批判ばかりではない。いわゆるサヨクといわれる人たちにおいても、こうした傾向があるという事実である。
 安倍と聞いただけで拒否反応を起こし悪口を書き立てる人たちがいる。もちろんそれは結果として当たっている場合もあるのだが、やはりネウヨ諸君と同様、しかるべきデータと突き合わせた上での検証と、それに基づく思考や判断を経過していないだけに空疎な悪口にしか響かない場合がある。それのみか、いわゆるブーメラン効果として自身の言説を危うくするものもある。それらのうちには、ネウヨ諸君と同様、とんでもない差別思考を内包している場合もある。

 私自身が最近経験したことでは、曽野綾子の「人種棲み分け論」などのレイシスト的発言を鋭く批判しているかのように見えた人が、彼女の主張する、「老人は放射線の高い地域へ行き、そこで除染などの作業をし、汚染された食物を摂取しろ」という主張には全面的に同意するというのに出くわしたことである。

 彼の論理によれば、今日の事態を招いたのは老人の責任であり、どうせ老い先短いのだから「前途ある若者」のために犠牲になってしかるべきだというのだ。
 この人は、社会に存在する多様な存在者を勝手に序列づけし、しかも「若者」、「老人」という極めて大雑把な括りで一方を肯定し、一方を否定している。こうした思考は、レイシスト同様、否、ある意味ではそれ以上であるといえる。この地球上で誰が生きて誰が死ぬべきかを決定すべきだと主張している点ではナチズムといささかも変わりないのであるが、そうした言辞を振り回しながら、なおかつ「サヨク」でいられるのだ。

 彼は自分が何を言っているのかを全く理解していない。ようするにそうした言説がネウヨ諸君と同様、そして、得々と批判している対象である曽野綾子と全く同様の、とんでもない差別思考そのものであることにはまったく無自覚なのだ。
 彼もまた、自分の言説を通時的、共時的な展望を欠いたままに振りまわすタコツボ思考の典型であるように思われる。その思考は、単純に「人民の敵」を見出しそれを抹殺するというスターリニズムにも通底している。カール・シュミットは「奴は敵だ、奴を殺せ」が政治の根幹にはあると語った。ただし、カール・シュミットは前世紀の政治と戦争の時代のもっと深い思考のなかからこのテーゼを見出していて、単純に誰かを名指せといっているわけではない。

 これらは極端なネウヨと自称サヨクの言辞であるが、ことほどさように、私も含めた私たちの言説空間は著しく個別化されているように思う。ようするに、自分のタコツボの中でのみ通用する言説を振りかざし、それが何を意味しているかについては完全なアパシーになりうる可能性があるのだ。

 はじめに書こうとしていたことからだんだん逸れてきたが、いずれにしても独善的な言説がもたらす不快感は拭いがたいものがある。しかしながら、それらを越えてコミュニケーションや応答可能性が成立する場をどのように生み出してゆくのかが現実の課題であるとしたら、そうした一見、否定的に見える状況こそがある意味で「可能性の条件」であるのかもしれない。
 ネットの可能性をも含めて、それらを考えてゆきたいが、私のイメージとしては、タコツボ的に分散された情報や思考の群れを、通時的・共時的な検証の場に、どのように関わらせてゆくことが出来るのか、あるいは私自身が関わって行けるのかが鍵のように思われる。

 さらに考えてみたい。
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