六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「祈り・・・・命どぅ宝」と沖縄慰霊祭に思うこと

2021-06-23 01:38:54 | 歴史を考える

 今日、6月23日は沖縄慰霊祭だなと思っていたら、一昨年秋、沖縄へ行った際の三日間、私の希望に沿って、ヤンバルの森、辺野古埋め立て現場、チビチリガマ、平和祈念公園(今日慰霊祭が行われる広大な慰霊公園)などを案内してくれたおりざさんが、自分がリリースしたCDを携え、宜野湾のFM局に出演した際(昨22日)の映像がYouTubeにオンされているのを見た。

 https://youtu.be/1D4VvTFUfhU

 まずはこの歌を聴いてみてほしい。歌詞は彼女自身の詩によるもので、歌はもちろん彼女によるものである。

 タイトルの「祈り・・・・命どぅ宝」はあの沖縄戦で、県民の四分の一が死亡した悲惨な状況の中から産み出されたともいえる。切々と迫るものがある。

         

        

 沖縄戦があれほど悲惨な結果に終わったのは、端から負け戦とわかっていながら、投降を許さず、最後の一兵まで戦い、もって本土への接近を一日でも遅らそうとする本土の側のエゴイズムによる。そしてその、本土のエゴがなんの反省もなく今日も繰り返されていることは周知の事実である。

         

        

 何度も示された沖縄の民意は、一顧だにされることなく、本土の都合によって踏みにじられ続けている。ここに載せた美ら海の写真は、私が撮ってきた辺野古の海である。今ここでは、かつての激戦地で、そこで死亡した人の遺骨が混じっている可能性がある本島南部の土がその埋め立てに用いられ、コバルトだったサンゴ礁を茶褐色に染め上げつつある。

 今から60年ほど前、沖縄からの留学生(当時はまだアメリカの占領下にあったため)と知り合った。彼は沖縄独立論者で、本土でも沖縄でも叫ばれていた「日本への復帰」ではなく、「沖縄の独立」を主張していた。彼はなんとかそれを訴えようとしていたが、しかし、政治活動を行ったことが知れると沖縄へ強制送還されてしまうので、それがままならなかった。そこで私と有志が、彼の主張を取りまとめ、チラシを作り、それを撒く活動をしたことがある。

        

 もちろん、沖縄独立論には、現実的立場からのさまざまな批判があるだろう。しかし、沖縄が置かれた現状、さらには一昨年の訪沖時に見た巨大な基地群を思う時、日本への復帰もまた、沖縄蹂躙の継続に過ぎなかったのではないかと思われるのだ。

 沖縄に対する本土のエゴイズムと書いた。本土とは誰なのか。これを書いている私、読んでいるあなたを含め、沖縄の人々以外のすべての人々のことなのだ。

        

挿入した写真は、一昨年、私が撮ってきたもので、辺野古や平和祈念公園のものが多いが、千羽鶴のものは、チビチリガマという場所のもので、そこには周辺の住民139人が戦火を避けて立て籠もっていた。米軍が上陸し、投降を呼びかけたにもかかわらず、当時の皇民教育(虜囚の辱めを受けるくらいなら死ね)のせいもあって、それに応ぜず、抵抗したり、自決したりして、結局80人以上の犠牲者を出すに至った。

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「尊皇攘夷80年周期説」とわが家に咲く花々

2021-05-24 11:54:43 | 歴史を考える

           

 

 加藤典洋に「尊皇攘夷80年周期説」というのがある。
 尊皇攘夷思想というのは1850年代、1930年代、2010年代と80年周期で巡ってきているというものだ。
 この種の説は、たまたまの現象を背後に法則性のあるがごとく言い立てる場合があるので、あまり信用ならないが、加藤の指摘については観るべきものはあると思う。

         

 この内、1930年代のそれを必要があって調べたが、天皇機関説の否定による明治憲法解釈の一大転換(伊藤博文の想定をも覆すものだった)と、それによる天皇の現人神化、その現人神のもとにおいて国民はすべからくその赤子(せきし)であるという一大家父長制の虚構は、その後の歴史、とりわけ戦争への地すべりと悲惨の拡大生産の骨格として機能した。

         

 そして2010年代から続く今日のそれ、それは、加藤の指摘する「敗戦後」の「ねじれ」を放置したままの「戦後」を経由することによって出現したものであろう。
 その結果、安倍政治と天皇を対置させ、天皇親政を唱えるサヨク?リベラル?まで現れるという馬鹿げた状況が生まれた。「ねじれ」がよりカリカチュアライズされた「ねじれ」を生み出した例と言えよう。

           
 
 それはさておき、30年代のそれも、実は明治維新の受容に関するあいまいさ、あるいは「ねじれ」の内在によるものといえるかもしれない 加藤は19年に逝ってしまったが、できれば日本の近代史そのものをそうした視点でいま少し展開してほしかった。

           

 それはさておき、まだまだワクチン接種の見通しもないなか、蟄居状態の私の視界はどんどん狭まってゆくのは必然である。ということで、ここに載せた写真は、それぞれわが家に今咲く花たちである。一枚だけ桜の若葉がきれいだったので混じえておいた。

         

 珍しいものはないが、最初のサツキは八重の花をつける。私の剪定が下手なので、びっしりとは花がつかないのは残念だ。
 紫陽花は今年は4輪の花をつけた。同じ樹なのに、それぞれの花の成長度合いが違う。
 ナンテンの樹は何本かあるが、この写真で横になっているもの、この花は他でもあまり見たことがない薄紅色に開花する。その時点でまた、お披露目しよう。

         

 余命少ない身にとって、著しく行動が制限されるのは辛い。そして、それ自身がわが老化を加速しつつあるという厳然たる事実がある。嗚呼!

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繊細なものに宿る天平の崇高さ 「正倉院宝物展」を観る

2020-10-07 16:08:57 | 歴史を考える

 名古屋の松坂屋美術館でこの3日から開催している「正倉院宝物展」の入場券を頂いた。恥ずかしながらこの歳まで、正倉院というところへは行ったことがないし、その収蔵物についても「シルクロードを経てなんちゃらかんちゃら」などということを聞いたことはあるが、実際にはなんの見識もない。これは行かずばなるまいと、腰を上げた次第。

        

 ここで断っておかねばならないのは「宝物展」といっても、その収蔵品の現物が来ているわけではない。そのサブタイトル、「再現模造にみる天平の技」にあるように、すべてが「再現模造品」である。
 「な~んだ」といってここで顔をそむけるあなた、あなたは決定的に間違っている。

        

 なぜなら、まず大前提として、ホンモノの収蔵品を持ち出して展示することなどはまずもって不可能なのだから。
 それに、模造品ならではのメリットもじゅうぶんにあるのだ。それはまず、経年による損傷や退色を補って、それらが制作された当時の原型を観ることができる点にある。ようするに、「ホンモノ」より詳細にわたってそのディティールを鑑賞することができるのだ。

           

 しかもこれらは、近年流行りの3Dプリンターでさっとなぞったものとはまったく異なる。明治の初期から始まったその複製作業は、人間国宝などの超一流の職人が、そのオリジナルの素材まで追求し、当時の技法をなぞって生み出したもので、1,300年前へタイムスリップしたような出来栄えなのだ。
 例えば、素材の絹糸などは、その後、大玉の繭に押されて廃れてしまった奈良時代の養蚕繭、小石丸をわざわざ復活させ、それから製糸をするという凝りようなのだ。

        

 だから、ここに展示されているものは、徹底した学術調査の裏付けに支えられた超一流の技法による燦然たる芸術品といっていい。
 したがって私たちは、聖武天皇を始めとする天平貴族の命による贅を凝らした物品たちと、それを能う限り再現しようとする現代の優れた工芸家の最高水準の技倆とを合わせて鑑賞することができるのだ。

           

 見終わった感想としては、想像以上に天平の工芸が繊細にして優美、かつ高い技倆に支えられているということ、それとその技術が飛鳥から続く百済などからの渡来人のそれを含めた東アジア全体にその基盤を持つということ、さらには当時の東アジアは一応、「くに」という仕切りはあったものの、にもかかわらず、文化や技術、文物の交流が豊かであったということだ。

        
 
 個人的な思いとしては、天平時代の工芸の無駄とも過多とも思われる繊細な装飾の見事さのうちにある崇高さのようなものに撃たれた。崇高といえば、巨大な瀑布、オーロラのような天空の異変、荒れ狂う海など、スケールの大きさを引き合いに出して語られる場合が多いが(例えばカントの第三批判)、私は極小の繊細極まりない装飾、それを無心に造り上げた職人たちの息遣い、あるいは、機能的にみれば無用の用の極限ともいえるそれらを産み出す時代そのものの情熱のなかに、ある種の崇高さを感得したのだった。
 
 時代を越えて存続する制作に触れ合うこと、それは自分の生の連続性を改めて歴史の中に置いてみることかもしれない、というのはちょっとカッコ良すぎるまとめか。

 

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ホンネを歌った詩人 大塚楠緒子のことなど

2020-09-10 11:33:14 | 歴史を考える

 全く別の勉強をしていて、大塚楠緒子の詩に突き当たった。
 名前は聞いたことがある程度の知識しかない。それもゴシップめいた話で、夏目漱石が密かに恋していた女性(かもしれない)ということであった。

          

 その詩に出会ったことで少し検索してみたら、彼女は1875~1910年と、わずか35年でその生涯を閉じたという。
 しかし、この間に10編以上の小説と二冊の短編集を上梓し、ゴーリキーの翻訳をしたり、文学活動の他には絵画やピアノ演奏にもその才能を発揮している。

 その死の報に接して、漱石の詠んだ句は以下である。
  
      あるほどの菊投げ入れよ棺の中

           

 で、私の出会った彼女の詩であるが、それは以下のようなものである。

  お百度詣で
 
  ひとあし踏みて夫(つま)思ひ ふたあし国を思へども
  三足ふたたび夫思う 女心に咎ありや
 
  朝日に匂ふ日の本の 国は世界に只一つ
  妻と呼ばれて契りてし 人は此の世に只ひとり
 
  かくて御国と我夫と いづれ重しととはれなば
  ただ答へずに泣かんのみ お百度詣ああ咎あり

 

 読んでわかるのは、国家への忠誠を要求するナショナリズムと、夫への愛の板挟みとなった女性の詩だということで、ここでは建前と本音が隠蔽されることなく素直に並列され、詠われている。

 作られたのは1905年の日露戦争の終盤で、その前年には、与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」も作られている。
 明治も終わりにさしかかったこの時期、帝国憲法はもちろん機能していたが、その運用はまだまだ緩やかであったといってよい。

 条文では、天皇は神格化されていたが、その解釈では美濃部達吉の「天皇機関説」が公式に認められ、立憲君主風の雰囲気が残る余地があった。
 しかし、大正期をすぎて、美濃部の学説が不敬であるとされ、憲法解釈がオカルティックになり天皇神格化の度合いが増るにつれ、状況は一変する。
 治安維持法の厳密な適応、特高警察や憲兵の闊歩の中で、帝国憲法下で許された僅かな自由もすべて埋め立てられ、軍事一色に染め上げられてゆく。

                        主義者と目された者たちの検挙

 おそらく、与謝野晶子や大塚楠緒子の詩が、もう30年あとに作られていたら、彼女たちは非国民として大炎上し、袋叩きになったことだろう。
 大塚楠緒子の時代はまだ、建前と本音との両面を詠うことができた。しかし、昭和10年代以降は、建前以外を口にすることはできなかったのだ。

        

 出征兵士に、「無事で帰れ」とは決して言えず、「死んでこい=逝ってこい」といい、戦死者を悼み悲しむことはできず、立派に戦ったと寿ぐことが要求された。
 建前の怒号のみが行き交うなか、戦争への傾斜はもはや留まることをしらず、悲惨と凄惨の縁へとまっしぐらに転落してゆくのであった。
 
 そんな時代に私は産まれた。


 

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沖縄の風 蹂躙し続ける私たち

2020-06-23 17:45:21 | 歴史を考える

 今年もこの日がやってきた。七五回目の沖縄慰霊の日。
 七五年前のこの日、私は国民学校の一年生であった。幼いながら、天皇陛下のためにこの一身を挺して戦えと叩き込まれていた私にとって。この日は記憶のうちにあった。

 おそらくその日のしばらく後であろう、学校で「沖縄が陥ちた。やがて、本土決戦は必至である・・・・」という訓示があったのを覚えている。どの程度リアルにこの状況を理解していたかはともかく、ある種の逼迫感のようなものがあったと思う。

        

 唯一、地上戦が行われた沖縄においては、総勢20万人が死を迎え、それら死者のうち、軍民を含めた沖縄県民はその人口のじつに四分の一を失ったのであった。
 双方の戦力からいって勝敗の帰趨は最初から明らかだった。にも関わらず本土からの司令は一日でも長く戦い続けろというものだった。

 いくら追い詰められても降伏は許されず、ただただ命をいたずらに捨てる戦いが強要されたのだ。
 こうして沖縄は、なんの見返りもないままに、一方的に「本土」の盾となることを強いられたのだ。その激戦が一応終了したのが七五年前のこの日だった。

        

 だが本当に終わったのか?

 昨秋、私は初めて沖縄を訪れる機会をもった。
 これまでも何度かその機会はあり、同行を誘われたこともあった。しかし、その都度、それを断ってきた。
 沖縄を犠牲にして自分が生き延びてきた、そしていまもなお沖縄を盾として利用しているという現実の中で、後ろめたさを振り切って物見遊山に出かける気にはとてもなれなかったのだ。

 昨秋はさいわい、同行の方も、そして沖縄で出迎えてくれる方も、こうした私の気持ちを理解していただいた上で、平和祈念公園などでの贖罪の祈り、いまなお、沖縄に犠牲を強いるその最先端の辺野古の訪問などをスケジュールに組み込んだ旅が実現したのだった。

        

 チビチリガマは東条英機の「戦陣訓八」「生きて虜囚の辱を受けず」を文字通り民間人にまで適用したような凄惨な場面が実現した洞窟で、投降しさえすれば全員が助かった(すぐ近くのシムクガマではそうだった)にも関わらず、火を放って集団自殺を図ったもののそれも叶わず、ついには自決が半ば強要され、親が子を殺し、肉親が相互に殺し合うという阿鼻叫喚を極めることとなった。
 自決者数は82(85説も)人に及び、その過半数は子供であったという。

        

        

        

 平和記念公園の海に面した明るい箇所に、黒い御影石に彫られた人名は敵味方を問わず、20万近くに及び、今尚、判明した人名が刻まれ続けているという。
 その間を散策した。碑を渡り抜ける海風は爽やかであった。
 しかしである、私を取り巻くこれらの人名は、すべて肉体を持ち、死体となったことによってここに刻まれているのだ。私を取り巻く20万の死屍累々・・・・これこそがこの場所の特異性なのだ。

        

 辺野古の海は沖縄の海の典型で、途中までは明るい色彩を放ち、何がしかの沖合で紺碧の深い色彩に転じる。その境界がサンゴ礁と外海を隔てている。それ自体がとても美しい。
 それがいま蹂躙されつつある。何度かの沖縄県民の意に反して・・・・などと今さら繰り返すまい。蹂躙する側は、そんなことは百も承知でそれでもなおそれを強行しているのだ。
 それを許している「本土」の私たちは皆その共犯である。「沖縄県民に寄り添い、真摯に対応する」という二枚舌の持ち主は、今年はヴィデオメッセージの参加だったようだが、私たちは彼の共犯者なのだ。

        

 75回目の沖縄慰霊祭、私の気持ちは晴れない。沖縄は頑張った、今度は本土決戦・・・・と力みながらも、その沖縄を新しい盟主アメリカに貢ぎ、それと引き換えに守られた「国体」のもとにのうのうと暮らす私たち。

 この日が来ると、思い出すもう一つのシーンがある。
 学生時代、沖縄から留学(当時はまだ米軍占領下で、日本ではなかった)していたA君のことだ。
 左翼も右翼も、沖縄早期返還を叫ぶなか、A君の主張は違っていた。「沖縄独立!」。彼は「早期返還」にこれをぶつけようとした。しかし、留学生が政治運動をしたことが発覚するや強制送還されるということで、私たちはそのビラを撒くのを手伝った。

 沖縄は、ほんとうに「日本」というこの国に「返還」されてよかったのか。日本というこの国は、返還された沖縄を、取引の材料としてのみ消費しているのではないのか。

  写真はいずれも昨秋、沖縄を訪れた折に撮ったもの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【懐かしい出会い】マーガレット・サンガー夫人の功罪

2020-06-03 01:48:07 | 歴史を考える

 『アメリカのニーチェ』(法大出版)という、アメリカでのニーチェ哲学の受容の歴史を述べた書を読んでいたら、思いがけない懐かしい名前に出会った。
 「マーガレット・サンガー」・・・・ひょっとして「あの」サンガー夫人では?半世紀以上の思い出がセピア色のフィルムのように巻き戻ってきた。 
 
 ところで、彼女がなぜニーチェとの関連で出てくるかというと、ニーチェがアメリカへ紹介された二〇世紀の初頭、彼女はまさに悪しき伝統、習慣に対して果敢に戦っていたからである。そこで彼女がニーチェに見出したものは、「あらゆる価値の転倒」という不屈の姿勢への共感であった。
 
 当時、彼女の戦っていたものとは性行為とその結果に対する女性の負荷の軽減、子どもを産む産まないの選択権を女性自身の意志に委ねるということであった。
 同時にこれは、貧乏人の子沢山の解消などを通じて当時の社会主義的運動にも結びつくものであった。

 これには彼女自身の身近での経験がバックに控えていた。彼女の母はなんと18回の妊娠を経験し、そのうち出産は11回を数えた。それによる貧しさの中、すでに自立していた姉の援助で、やっと彼女は保健衛生系の学校で学ぶことができたのだった。

           
                若き日のサンガー夫人

 そこで学んだことを基礎に、男女の性と性行為の仕組みの啓蒙に乗り出し、産児制限の仕方の普及などのパンフを発行したりしたり、産児制限の普及を目的とした記事を新聞「女性反逆者」に載せたりした。
 しかし当時は、宗教的な戒律と絡んで、性のことは自然に任せるべきで人が介入すべき領域ではないとされ、そうした伝統的な性意識のもと、彼女の活動は忌避され、そのパンフの配布に関しては「猥褻罪」に相当すると非難されたりもした。

 しかし、女性の権利と必要に深く根ざしたこの運動は、次第にその理解の領域を拡大していった。 
 そしてその活動は国際的な広がりをも見せ、戦前の日本へも数回の来日を果たし、日本の社会主義者、石本静枝(後の加藤シヅエ)などとの連帯のもと、その運動は広がりつつあった。

          
        
      石本静枝(後の加藤シヅエ)と産児制限を訴える左翼の雑誌

 そうした運動は、この国でも次第に普及するかのようであったが、折も折、それを一挙に吹き飛ばす事態が発生する。
 それは、日本が戦時体制に入ったことによる。戦争は、人間を兵士や銃後の「資源」として、それを大量に消費する。だから、戦時のモットーは「産めよ増やせよ」で、産児制限などはもってのほか、まさに非国民の所業にほかならないとされた。

 これにより、サンガー夫人とそれに同調する日本の運動は跡形もなくすっ飛んだ。お上は、多産の家族を表彰した。私の母方の祖母は、サンガーの母同様、11人の子供を産み、表彰状を授けられ、座敷の鴨居に飾っていた。

           
               1952年の来日を伝える記事

 この国で、その運動が復活するのは、戦後になってからである。そしてそのピークは、1952年、サンガー夫人の戦後初の来日であった。彼女は加藤シヅエと名を変えていたかつての同志、石本静枝ともども、その活動に尽力する。ただし、かつての反体制的なイメージとは異なり、政府そのものの公認のもと、全国で産児制限の講演などを行ったのだった。

          
             サンガー夫人と出迎える加藤シヅエ

 折しも私は中二で、性的な関心をもち始めた時期でもあった。そのせいか、サンガー夫人の来日はよく覚えている。しかもどこかで、人間の性的欲望は、他の動物たちが自分の子孫を残すための行為として行うものとはいささか違って、それ自体を求めるような、いわば疎外された性であることをおぼろげながら知っていた。

 もちろん「疎外」なんて概念を知っていたわけではない。ただ、とくに子どもを作るためでもないのに、あるいはこれ以上の子どもは必要ないのに、性行為の都度ポコポコ子どもができたらたまらないな、しかもその負担がもっぱら女性の側に課されるとしたら・・・・ぐらいのことは考えていたと思う。

             
                  戦後の加藤シヅエ

 このサンガー夫人の産児制限の啓蒙と普及は、戦前と戦後を画する大きな出来事であったと思う。そしてその効果は紆余曲折はあったものの今日まで至っているといってよい。

 ここまでは、彼女の功績を示す陽の部分だといって良い。しかし、残念ながらその陰の部分についても語らねばならない。

 もとより、性の話、出産の話、とりわけその制御については際どい側面をもっている。ようするにその制御とは、誰が、いつ、どこで、誰を産んでいいのか、あるいは産んではいけないのかを人為によって決めることである。

 そして、その判断のために参照されるのが優生学的思想なのであり、サンガー夫人はその優生学の祖に祭り上げられたことがあるのだ。一説によれば、ヒトラーも彼女の書を読み、多くを学んだという。

 事実、サンガー夫人には、それを思わせる叙述もあるようだ。例えば、ある民族においてはその脳の体積が小さく、したがって性的衝動を抑制し難いと本気で信じていたようなのだ。

         
             晩年のマーガレット・サンガー夫人

 また、劣性遺伝と目される人々の断種という理不尽な暴力的措置にもその根拠を与えてしまった節がある。
 日本でも、まさに戦後、1948年から1996年の間、優生思想を根拠にした「優生保護法」が猛威をふるい、「人口構成において、欠陥者の比率を減らし、優秀者の比率を増すように配慮することは、国民の総合的能力向上のための基本的要請である」という当時の厚生省の見解のもと、知的障がいや精神障がいの人が子どもを産まないよう、優生手術と呼ばれる不妊手術を強制したのだった。

 母体保護目的のものも含めて実施された不妊手術は84万5,000件に上り、そのうち本人の同意を必要としない強制的な優生手術は1万6,000件以上といわれている。
 それらの被害者の一部が、2018年以降、半世紀ぶりに声を上げはじめ、訴訟にすらなっているのは、耳新しいニュースである。

 日本の優生思想は、ヒトラーのそれのように、障がいを持った人たちを直接、殺害はしなかった。しかし、本来ならこの世に生を受けるはずの多くの命を予め封じたという事実は同様に大きな罪といわねばならない。
 誰が産まれてもよく、誰が産まれてきてはならないかをきわめて不確かな科学的根拠で判定したのであった。

 これらすべてのことどもがサンガー夫人のせいだとはいわない。しかし、性と生誕のコントロールの際どさが、残念ながらこうした陰の分野にまで及んだことを無に帰することもできない。

 今はただ、彼女の初期の動機、不本意な妊娠と産む装置としての女性の解放を志し、ひいては貧困層を浮上させたいという彼女の善意の動機をよしとするとともに、彼女の不十分な優生学説を、生産性の向上などのために悪用した連中を憎悪せずにはいられない。

 マーガレット・サンガーの来日という、少年時代の私の記憶に刻み込まれたものを再浮上させ、いま一度考えて見る機会をもったわけであるが、彼女の功罪がクロスする地点に立ってそれらをみるとき、いささか気が重くなるのを禁じえない。
 しかし、あの1952年の彼女の来日が、戦後民主主義下での女性の地位の問題、彼女らを性や出産の対象ではなく、それを自ら司る主体の地位に据えた点は評価できると思う。

 

 

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義仲―芭蕉ー保田與重郎の系譜 義仲寺散策から 

2020-04-16 11:38:48 | 歴史を考える

 大津市の義仲寺は狭い境内ながら、いろいろな要素がギュッと詰まっていることはすでに書いた。
 木曽(源)義仲と巴御前の墓、そして芭蕉の遺体が埋葬された墓などがその中心だが、その他にも見どころがかなりある。境内見取り図を載せておくので、参照しながら読まれたい。

             
 本堂は朝日堂という。これは、平家物語などで義仲が「朝日将軍」などと呼ばれたことによる。
 それと向かい合わせの無名庵は、義仲を慕う芭蕉がたびたび訪れた際、宿舎にしていたところで、しばしばここで句会を催したりした。その伝統は今にいたり、寺はここを句会の場として開放している。

            
 翁堂の翁は芭蕉を指し、正面に芭蕉の坐像、周囲に弟子たちの像や画像が安置されている。ここで見るべきは、伊藤若冲が描いた天井画、四季花卉の図である。

          
 また、境内には、芭蕉の行く春を近江の人と惜しみけるや、辞世の句、旅に病んで夢は枯野をかけ廻るをはじめ、その弟子たちも含めた20の句碑が点在し、その所在は境内見取り図の丸囲みの数字が相当する。

 境内の突き当りまで至って、まあ、こんなところかなと踵を返そうとした私の目に、ん?という墓石が飛び込んできた。どこかで聞いた名前ではないかと近寄り、やはりそうだと確認することができた。
 墓碑面に曰く、「保田與重郎墓」とある。

 戦中戦後にかけて文芸評論の面で活躍した日本浪曼派の柱とのいうべきあの保田與重郎の墓である。その存在は、寺のパンフにも書かれていないし、私の予習にもなかったので意外であった。
 慌てて、まだ境内にいた住職に訪ねた。
 「あの保田與重郎墓って、あの保田與重郎の墓ですね」
 と、いささか同義反復的な問いを投げかけた。

 「そうですよ」という住職に、
 「どうして、彼の墓がここに?」
 と、畳みかける私への住職の答えはざっとこうだった。

            
 いささか荒れていたこの寺の、昭和大改修(1976年)の折、いろいろ力を貸してくれたのが当時、京都に住んでいた保田與重郎であったという。そこで、その功績に鑑み、その死後、分骨をしてもらってここに墓を建立したのだそうだ。

 ここで、当の保田與重郎(1910-1981年)について述べるべきだろうが、彼の著作の一端に触れたのはもう60年近い前で、完全に忘却の彼方だ。
 ただ彼の概略を記せば、マルクス主義者として出発しつつも、ドイツロマン派への傾倒を経て、近代文明批判と日本古典主義へと至り、以後、日本浪曼派の重鎮として文芸評論の場で活躍した。

 ただし、その論評が戦争を肯定し、その戦線拡大に組みしたのではないかということで、戦後、1948年から60年まで、公職から追放されている。
 その論功行賞は、一筋縄ではゆかぬものがあり、浅学の私にはしかと断定することはできない。
 彼の影響は、三島由紀夫などにも至り、また現今の近代批判、近代の超克観にも、意識するとせざるとに関わらず、少なからずの陰影をもたらしているものと思われる。

 義仲・・・・芭蕉・・・・保田と並べてみると、日本的美意識のある面がほのみえる気もする。見逃さなくてよかった。

 

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無骨な英雄・木曽義仲と無敵の女性武者・巴御前

2020-04-10 01:28:49 | 歴史を考える

 もともと蟄居同様の生活を送っているところへもってきてこの騒ぎ、ほとんど外出しないから新たな出会いもないし、ひたすら身辺雑記のようなことを書いたり、過去の思い出の引き出しから何かを手繰り寄せるしかない。
 しかし以下は、それほど過去の話ではなく、外出規制が今ほど厳しくなかった三月下旬に訪れ、印象に残った箇所についてのレポートである。

 場所は大津市内の義仲寺。「ぎちゅうじ」と読むが木曽義仲の墓所がある寺である。
 源平合戦といえば、西方へ逃走する平家を追って、その滅亡まで戦った源義経がもっぱらそのハイライトを占めているが、その平家一門を京の都から追っ払ったのが他ならぬ木曽義仲(『平家物語』では朝日将軍あるいは旭将軍とも呼ばれている)だった。

          
 義仲は頼朝や義経兄弟にとっては従兄弟にあたり、もともとは武蔵国の出身だが、子供の頃、源氏の内紛で殺されそうになり、信濃の国に逃れた。木曽義仲と称せられる所以である。
 そんな形で僻地へ追いやられたにもかかわらず、源氏としてのアイディンティティはもち続けたようで、一一八〇年、天皇の一族、以仁王による平家打倒の呼びかけにいち早く参戦している。

 義仲の武勇はいろいろ語られているが、私の少年時代、読んだもので強く印象に残っているのは、いわゆる倶利伽羅峠の戦いである。何かの本で読んだのだが、講談のようなものでも聴いたかもしれない。
 挙兵はしたものの平家十万の大軍に押しに押され、北陸路へと追われた義仲軍は、加賀と越中の国境、倶利伽羅峠で反攻に転じる。
 
 その折の作戦が奇抜だった。夜陰、数百頭の牛の角に松明をくくりつけ、火を点じるとともに平家の軍勢をめがけて放ったのだ。その奇襲により平家軍は大混乱に陥り、それに乗じた義仲は、一挙に優勢に立ち、一気呵成に京にまでのぼりつたのだった。

        
 この話は『源平盛衰記』にあるのだが、中国の故事のパクリだとか、松明に火をつけられた牛が前方に進むのか、という無粋なイチャモンを付けるのがいるが、そんな事はいいのだ。
 考えてもみるがいい、松明を灯した無数の牛が、夜の倶利伽羅峠を雪崩のごとく駆け下るその壮観さを!
 少年の頃の私は、すっかりその光景の虜になった。後年、この場所を通った折、暗い谷間から、炎とともに押し寄せる牛の大群を幻視したものだ。

 こうして京に入った義仲であったが、当初は平家の抑圧を取り除いてくれた救世主と、天皇家や公家たちに寵愛されたものの、やがてその田舎育ちの無骨なナイーヴさが疎まれるようになり、鎌倉方の源氏に暗に追悼の命令が出され、数万の軍勢を率いた義経が京へと出兵することとなる。

 紆余曲折はあったものの、鎌倉方の義経軍との対決では宇治川の戦いで敗れ、さらには瀬田に戦いにも敗れることとなった。それも道理で、義経軍が万単位であったのに対し、いろいろな経過で消耗し尽くした義仲の軍勢は数百単位のにしか過ぎなかったという。

               
 この過程にも少年の私を惹きつけたひとつの物語があった。それは義経軍の佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」といわれるもので、高綱が「馬の腹帯が緩んでいる」と今でゆうところのフェイク情報を景季に伝え、これに気を取られた景季がそれを確認する間に、高綱が先陣を果たすというもので、まあ、これは、機知というか詐術というか、あまりフェアではないと思ったものだ。

 義仲に話を戻そう。敗北に敗北を重ねた義仲の軍勢は、ついには今井兼平ら側近の数騎を数えるのみとなり、現在の大津市の粟津(琵琶湖畔)で、ぬかるみに馬の足をとられたところを討ち取られたという。
 一一八四年、享年はわずか三一歳であった。

             
 義仲について語る際、その戦いに付き従った大力にして強弓の女性武者、巴御前を外すわけにはゆくまい。彼女の凛々しい武者姿は、やはり子供の頃、絵本か何かで見て強い印象を残したものだ。
 彼女は、義仲敗走の折の最後の七騎に残っていたが、最後まで行動をともにすると譲らない彼女に、義仲は、お前は生き延びよと強引に別れを告げたという。『平家物語』によれば、その折、巴御前は、「ならば最後のわが戦いを見よ」とツワモノとして知られた敵将の首をねじ切って倒したあと、鎧、兜を脱ぎ捨てて静かに姿を消したという。
 なんともしびれる去り際ではないか。

 この義仲の最後といい、後の義経の最後といい、戦さや革命で、最前線で戦った者たちが、その後に現れた「政治家」や「官僚」の権力行使により、むしろ邪魔者として排除される図式がみてとれるようにも思われる。そうした実直で不器用な者たちに対し、後世、それを憐れみ、共感を抱く者たちが現れることは想像に難くない。

 それらの人々が出会う場所のひとつが、この小文を書くはじめた際に述べた義仲寺であるのだが、すでに充分長くなりすぎた。ユニークなこの寺の内容については、後日に述べることにする。

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なんやかんやで初めての沖縄(8)沖縄戦終焉の地は美しい公園になっていた

2019-11-25 01:05:01 | 歴史を考える

 沖縄の旅も三日目、いよいよ最終行程である。
 当初からの私の希望であった沖縄平和祈念公園へと向かう。
 「記念」ではなく、「祈念」であることに注意されたい。凄惨な戦禍を経験してきて、今なお準戦場のような軍事基地が遍在する沖縄にとって、「記念」すべき「平和」などありはしない。ただただ、来たるべき平和の実現を「祈念」するのみなのだ。
 
           
            この地図の上は東であり、海岸に面した台地となっている
 

 この公園は糸満市米須霊域、ひめゆりの塔などと並んで沖縄戦跡国定公園を形成し、その中核となるものである。
 公園内の諸施設については写真を見ながら順次触れていきたい。

 なお、なぜここにこの公園があるかについては、Wikiによれば以下である。
 1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍の攻撃により、首里(那覇市)にあった日本軍司令部は、この沖縄本島南端部(島尻)に撤退した。狭い島尻には、南下侵攻するアメリカ軍、避難してきた一般住民と撤退・抗戦する日本軍の軍人が混在し、パニック状態に陥った。結果、狭隘な地形に敵味方が入り乱れる大混戦となり、日本軍による組織的抵抗は、6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了。

 ようするにこの地こそ、沖縄戦最大の激戦地であり、その終焉の地なのである。毎年、6月23日に、沖縄慰霊祭がこの地で行われるのはそうした歴史に基づく。

          
 

 ガジュマルの大木がその威容を誇る傍らの駐車場からスタートする。
 まずは、摩文仁(まぶに)の丘の沖縄戦没者墓苑に向かう。ここではその墓苑の石碑を取り巻くように、各県別の出身者のための慰霊施設が、それぞれの県の特徴をもった慰霊碑やモニュメントとして立ち並ぶ。

          

              
 

 各県のものを紹介していたらきりがないので、わが岐阜県のそれを紹介しておこう。わりとスッキリしたデザインのものである。

          
 

 ついで、毎年、慰霊祭が行われる平和の丘を中心とした式典広場へと向かう。ほとんど毎年、TVでその式典を見るのだが、近年は安倍首相の決まりきった形通りで無内容な式辞、とりわけ、従来の日本語の意味を逆転させた「沖縄県民に寄り添って」=「県民の民意を無視するばかりか、強権でもってそれを踏みにじる」に、参加の島民から激しいブーイングと「帰れ」コールが起こるに至っている。

          
 その慰霊碑の前で、持参したロウソクに火を点じ、祈りを捧げようとしたのだが、折からの浜からの風で、うまくゆかない。ここではロウソク抜きで鎮魂の祈りを捧げる。

          

          
 

 ついで向かったのは沖縄平和祈念堂。ここでは堂の前の手水鉢風のモニュメントにロウソクを立てることができた。

          
 なお、この祈念堂の傍らには、当時の朝鮮半島から動員された人や在日の人たちのための韓国人慰霊塔があり、韓国旗がはためいていた。

          
 

 祈念堂と韓国ゾーンを隔てる辺りには、色とりどりの花が咲き乱れ、アオスジアゲハが数頭、ヒレホロと舞い遊んでいた。

          

 次は、公園の東端、陽光にきらめく海を見渡せる場所にある平和の火を扇状に囲むように設置された「平和の礎」へと向かう。

          
 

 ここには、沖縄戦などで亡くなった人々、国籍や軍人、民間人の区別なく、すべての人々の氏名を刻印した黒い花崗岩の石版が、屏風のように立ち並んでいる。

          
 

 そこに刻まれた人の数は25万人弱で、今なお、新たに判明した分が追加刻印されているとのことである。

          
 

 沖縄県人の箇所には、当然のことながら、沖縄独自の姓がずらりと並び、ここがまさに戦場であったことが忍ばれる。

          

          

 米兵のそれ、朝鮮半島の人々のそれもある。
 案内してくださった沖縄在住のOさんが、検索をしたらご自分の親戚筋に当たる方の銘があったといってその箇所に案内してくれた。

          

 最後に向かったのが、沖縄県平和祈念資料館。
 弧を描くような建物なのだが、その屋根の部分が、沖縄風の赤瓦で葺かれているのが美しい。

              

              
 

 なかには、沖縄戦の模様などを遺留品や証言、映像などで紹介する常設展示場があり、戦中戦後の沖縄の歴史を具体的に知るための貴重な資料集といえる。
 なお、常設展の他に、折々の企画展もあり、写真に収めたのは、鉄の造形作家・武田美通氏の「戦死者たちからのメッセージ」という、まさにそれをズバリ表現した展示作品のうちの一部である。

          

              
 

 この資料館には展望塔があって、そこからは公園全体はむろん、この東岸を洗う美ら海が遠望できる。

          

          
 

 こんなに平和で美しすぎるようなまさにこの地が、血で血を洗う戦場であったこと、そして無数の屍が横たわった場所だとはにわかには信じがたいほどである。
 しかし、まさにそれが歴史の現実であったし、基地の島・沖縄は、いまなおその歴史をひきずり、軍事の要点であることから免れてはいない。

 沖縄の戦後は終わってはいない。そればかりか、新たな基地すら押し付けられようとしているのだ。

          

          

          
 

 公園内には、修学旅行と思われる学生たちのグループが散見できた。
 若者たちよ、ここで見たり体験したことを決して忘れることなく、この悲劇の再来に最大限敏感になってほしい。それは他でもない、君たち自身の未来を平和のうちに過ごせるようにすることなのだから。

 沖縄にとっての最大の悲劇が生じた折、私はすでにこの世に生を受けていて、沖縄陥落を知っていた。そして、いよいよ本土決戦だと言い聞かされていた。
 しかし、その手前で敗戦が決した。その意味では、この私の命は、沖縄を防御の盾として永らえられたのかもしれない。
 私の沖縄への旅が、贖罪と鎮魂を含むものであらねばならないと自身に言い聞かせていたのはそれがゆえである。

          
 

 今回、沖縄訪問に際しては、その思いを汲み取ってくれ、適切な案内をしてくれた沖縄在住のOさん、それに、私の勝手な要求に理解を示し、付き合ってくれたS夫妻に心から礼をいいたい。
 さらにいい添えるなら、沖縄の風景、風物も充分楽しんだし、何よりも日頃はネット上での付き合いしかないあなたたちと、濃厚で楽しいリアルな時間を過ごせたことは望外の幸せだった。多謝あるのみだ。
 

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なんやかんやで初めての沖縄(6) チビチリガマ 集団自決の悲劇

2019-11-22 15:57:05 | 歴史を考える

 勝手にそれは、海辺にあるとばかり思い込んでいたがそうではなかった。とはいえ、読谷村は波平集落、海からは数百mの箇所だから、まんざら間違いではない。駐車スペースの周りは、ザワワ、ザワワのサトウキビ畑であった。

          
 

 ついでながら、機械化不可能で労働集約性が高く、収益も少ないサトウキビ生産は減少しつつあると聞いていたが、本島の中部南部ではけっこう目にする風景であった。
 そこで車を降りて、少し急な階段を下ると、やや陰鬱な窪地の底へと至る。陰鬱な印象は、折からの好天にも関わらずここへはその陽光が届かず、私たち以外人影がなかったことにもよる。

          
 

 その窪地の一隅に穿たれた洞窟がチビチリガマであった。
 1944年末から始まったこの地区への空爆は45年の春先、つまり米軍による上陸を控え、一段と激しくなった。このチビチリガマは、波平集落の人たちの集団防空壕であった。
 
 確かに、爆弾から身を守るには適した場所ではあった。しかし、4月1日は空爆ではなかった。アメリカ軍が上陸したのだった。そして米軍はこのガマへやってきた。
 米軍は投降を勧めたが、「鬼畜米英」を叩き込まれ、「虜囚の辱めを受けるなかれ」(捕虜になるくらいなら死ね)と教えられていた島民たちはそれを拒否し、先鋭的な部分が竹槍をかざして「殺せ」「やっつけろ」「天皇陛下万歳」と口々に叫び米軍に襲いかかったが、たちまちにして銃撃された。

          
 

 米軍はその日の説得を諦め、食料品や投降をすすめるビラをガマの前において立ち去った。
 翌2日についてはWikiによればこんな具合だった。
 「午前8時頃に再びアメリカ兵が来て、ガマから出るよう呼びかけるが、元日本兵の『出て行けば殺される』という言葉を信じ、ガマを出る者はいなかった。その後、娘から「殺して」と頼まれた一人の母親が、娘の首を包丁で刺した後、続いて息子を包丁で刺すと、自決する者が続出し、元日本兵が再び火を付けると、炎と煙がガマ内に充満した。煙で苦しむよりはアメリカ兵に撃たれて楽に死のうと考えた者はガマの外に出たことで助かり、都屋(読谷村の一つの字)の収容所に移送された」

              
 

 チビチリガマにいたのは139名だったが、自決者数は82名(85名説も)にのぼり、その過半数は子供だったという。

          
 

 一方、チビチリガマから数百メートル離れたシムクガマでも同様の展開があって、あわや竹槍をもっての玉砕戦法かあるいは集団自決かの寸前まで行ったが、かつてハワイへの移民経験がある住人が米軍と交渉し、抵抗しない限りその安全を保証するとの確認を取り付け、その結果、1,000名余の人命が救われたという。
 この事例は対象的である。チビチリガマでは、大日本帝国の偏見と人命軽視の命令をリセットする機会を得ないまま、無駄に命を捨てさせられたということになる。

          
 

 私たちは、チビチリガマの前で、持参したロウソクを灯し、しばし鎮魂の祈りを捧げた(下の写真の右下方がそのロウソク)。

          
 

 これについては思い出す類似のシーンがあった。
 ちょうど8年前の秋、現地で暮らし、すぐる日中戦争体験者の聞き取り調査を行っていた友人のOさんの案内で、中国は山西省、村人たちがヤオトンという横穴式の住居で暮らす賀家湾村を訪れたときのことである。
 ここは日本軍のいわゆる三光作戦(奪い尽くせ、焼き尽くせ、殺し尽くせ)が展開された地で、やはり大規模な集団虐殺が行われた箇所があるというので、そこへでかけたのであった。

          
 

 そこはけっこう大きめなヤオトンで、その奥には更に洞窟が続いていて、日本軍が来たというので273名の村人がこの場所に隠れたという。悲劇は1943年の12月19日から20日にかけて起きた。

 そこを嗅ぎつけた日本軍は、ヤオトンの入り口に石炭の塊を積んで(このあたりは石炭の産地でもある)、収穫後の綿の木を積み上げ、さらに大量の唐辛子(どこの家にもたくさん吊るしてある)を乗せて火を放ったというのだ。
 日本軍が去ったあと、他のところに隠れていた村人が駆けつけたのだが、結果として273名全員が燻し殺されていて、その遺体は見るも無残で、近親者すら恐れをなして近づけなかったほどだという。

          


 そのヤオトンの前でも私たち同行者は、ロウソクと線香を立てて鎮魂の祈りを捧げた。

 そして今回のチビチリガマ、戦争というものはかくも類似の悲劇を生み出すものであることがよく分かる。

 ガマを離れて駐車場に戻ると、その周辺のサトウキビ畑が、南国の日差しの中に輝き、「命どぅ宝」とささやきあっているようだった。

            

 

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