魔人の鉞

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征韓論は 吉田松陰にルーツあり

2014-10-27 16:58:13 | 日本史

どうにも気になっていた、征韓論ってなんだったの? と思って4冊。
「明治維新と征韓論」 (吉野誠、明石書房、2002年)。
「『征韓論』 の系譜」 (韓 桂玉、三一書房、1996年)
「西郷 『征韓論』 の真相」 (川道麟太郎、勉誠出版、2014年)
「吉田松陰著作選」 (奈良本辰也、講談社学術文庫、2013年)

征韓論の淵源が幕末の思想的指導者、吉田松陰にあるとは知りませんでした。書記にある神功皇后
の征伐を引いて、「朝鮮の如きは古時我れに臣属せしも、今は即ちやや倨 (おご) る。最もその風教を
詳らかにして之を復さざるべからざるなり。」 (奈良本、松陰 「幽囚録」 155p)

さらに国威を張る方策について論じます。
「今急に武備を修め、艦略 (ほぼ) 具わり礮 (ほう=大砲) 略足らば、即ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯
を封建し、間に乗じて加模察加 (カムチャツカ)・隩都加を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯
と比 (ひと) しからしめ、朝鮮を責めて質を入れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を
割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて
辺圉を守らば、即ち善く国を保つと謂ふべし。」(奈良本、松陰 「幽囚録」 158p)

松陰は開国攘夷というよりも、富国強兵・海外領土拡張によって日本の独立を維持するという論を唱え
ていたのです。現在では作り話といわれる神功皇后説話は国学では史実とされており、その昔に帰れ
というのでは朝鮮もたまりませんが、松陰の思想が明治政府の中心人物たちに与えた影響はたいへん
大きいものがありました。そして実際の歴史はほとんど松陰の筋書き通りに進んで行ったのです。
明治維新は日本の自立自衛のためと教えられてきましたが、実際には国内ではほとんど戦わず、近隣
諸国と協力するのでもなく、逆に侵略と領土拡張が自存自衛と同義になったのでした。私は明治維新
を見直す必要を感じています。

明治6年、西郷隆盛が下野することとなったきっかけは 「征韓論」 だとされています。江戸幕府の大君
との対等の交際をしてきたとする朝鮮は、天皇親政後の日本の国書にある天皇・勅といった言葉づかい
では日本が宗主国中国と対等であることになってしまうとして受け取りを拒否していました (書契問題)。
このとき西郷は自ら使節を買って出て朝鮮に渡ることを主張し、いったん太政官会議で決定します。
西郷は護衛部隊も伴わず平和な使節として朝鮮に赴き、それで相手が西郷を殺せば戦争の名分が立つ、
と主張していました。
ところが大久保利通、木戸考允が反対し、三条太政大臣の急病で代理となった木戸は廟議に反し明治
天皇に西郷遣使を却下するよう上奏し裁可されます。西郷らはこのやり方に怒って下野しました。

大久保らは内治派と呼ばれ、当時内政を優先すべきだとの主張はもっともだとされているようです。
しかし翌明治7年の台湾出兵、8年の江華島事件と9年の武力威嚇による不平等条約 (日朝修好条規)
締結の推移をみると、内治派がしていることは西郷より拙速かつ強硬で、実際西郷は江華島事件を批判
しています。征韓論をめぐる政策論争、というよりも、大久保ら外遊組が西郷ら留守組を排除する主導権
争いではなかったのか。

川道氏は、西郷は平和な使節団の派遣を要望していたので、決して征韓論ではないと主張しています。
西郷周辺は強硬な征韓論者ばかりだから、そんなことはない、とする吉野氏。しかし 「平和な使節で
ある西郷が殺されれば名分が立つ」 といっても、小中華を自認する朝鮮がそんなことをするかどうか
分かりません。やはり自分が行って解決するための方便だったのかもしれません。
「敬天愛人」 の大西郷が朝鮮に使いしたなら一体どのように交渉したのか、を見たかった気がします。
        (わが家で  2014年10月27日)

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