魔人の鉞

時事、歴史、宗教など、社会通念を独断と偏見のマサカリでスッキリ解決!  検索は左窓から、1単語だけで。

本能寺の変、やはり不思議な秀吉の行動

2021-01-26 17:00:38 | 日本史

久しぶりに本を、「秀吉の陰謀~本能寺の変」 井上慶雪、祥伝社 平成25年。

日本史上最大の謎、本能寺の変。真相について諸説紛々です。私は陰謀説は好きではありませんが、この本を読んでいくつか思いついたことがあります。

一つは、なぜ秀吉は信長が殺されたと確信できたのか? ということです。戦国時代の当時、情報は不確実で、主君信長の横死などということは、よほど確実なものでなければ信じられないはず。ところが秀吉は1日ほどで即座に毛利方との講和をまとめてしまった。秀吉は信長に応援出陣を要請し、まもなく着陣する予定になっていたのですから、信長が到着する前に無断で大幅譲歩した講和を結ぶなどということは、信長が存命ならクビを刎ねられかねないほどの独断専行。こんな大胆なことができたのは、信長が死んだことを確信できた、ということでしょう。

しかしなぜそんなに確信できたのか? たとえ腹心の配下の情報であっても、信長の首が晒されたわけではありません。首どころか死骸も見つからなかったはず。そういう状態で、使者はなぜ死を確信した報告が出来たのでしょうか。秀吉はなぜ疑いもせずその報告を確信できたのでしょうか? 

しかも秀吉は事変の3日後、中国大返し中の6月5日に中川清秀に宛てて「信長、信忠は無事」という書状を出しています。これは信長の首が絶対に晒されないという確信がなければできないことです。万一首がさらされでもしたら、秀吉の信用丸つぶれ、敵方に追いやることになりかねないほどのフェイク情報になってしまいます。間違っていたでは済まない。なぜそんなリスクを冒せたのか? 

著者は秀吉が信長父子を「自分の掌の内で処理した」(80p) ということだとします。さらにまた、そうした手紙で自分以外の武将が光秀追討戦に立ち上がるのを阻止するという、計略があったとします。

私は秀吉が配下の兵を動かし、信長を暗殺したという説にはいまのところ賛同できません。光秀が実行犯だった、というのは光秀の事変後の行動が証明しているように思えます。光秀は犯人を追討するという宣言も行動もしていませんし、山崎で秀吉・織田信孝連合軍と戦って敗れています。

考えられることは、秀吉は光秀の叛意をうすうす感づいていたのかもしれません。それで著者の言うように、光秀が実行しやすい環境を整えた。信長に応援出陣を要請し、本能寺茶会を仕組んだ。そして、これは私の憶測ですが、明智軍の中枢に秀吉派がいて、決行後の至急報を秀吉に伝えた、とでも考えないと、話が成り立ちません。そんなことがありうるのか・・・ 天才秀吉なら、あるいはそんなことがあったのかもしれません・・・

 

秀吉は確かに天才です。信長の敷いたレールを走っただけというのは、どうも違うようです。信長はやはり大うつけで、まぐれで今川を倒し、金ヶ崎は助かりましたが、ついに弑逆されてしまいました。秀吉は真の天才かもしれません。ほとんどすべての戦いで、負けない態勢を作って戦さをしています。小牧長久手も、局地戦では負けたが結局は総合力で家康を従わせました。総無事令、刀狩、検地、武家官位制と、信長以上のことを次々に実行しています。信長死後は天下取りを目指してまっしぐら、織田家を盛り立てようなどとは全くそぶりもありません。

本能寺の変で突然に思いついたものなのでしょうか。腹のうちに青写真があったのではないでしょうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バイデンに謝罪要求とは、筋... | トップ | 議員会食、誰も何の責任も取... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本史」カテゴリの最新記事