「日韓関係2000年」 澤田洋太郎著、彩流社 2002年。
日朝の人種・文化・歴史について幅広く探求する一書です。いろいろ感じるところがありますが、なんと言っても応神天皇の父・仲哀天皇の生没年についての指摘が問題です。
ヤマトタケルの没年は景行40年、景行天皇没年 (60年) まで20年。成務天皇は景行60年即位です。成務の48年に仲哀が立太子して、この時仲哀31才、とすると仲哀誕生は成務の17年です。ヤマトタケルの子とされる仲哀の誕生はヤマトタケルの没年から20+17-1 (重複1年) で36年後ということになります。著者は37年後と書いています (104p) が、重複1年を計算していないようです。
化け物でなければ血縁がないか、間を書き飛ばしたか、ということになります。しかしれっきとした正史と言われる書紀が、天皇となる人の父を書き違えるなどということがあるでしょうか。しかもその仲哀は九州・熊襲征伐中に怪死してしまいます。その死に方は書紀本文では病死、一文では戦死、古事記では神の祟りによる急死とみな大いに異なります。そして神功皇后三韓征伐と応神天皇誕生説話が続き、神功皇后が産み月なのに石で抑えて、三韓征伐から帰還して応神を産み落とす。これもまた人間業とは思えない奇怪な物語です。
生物学的にあり得ない話が2つも続くのですから、応神天皇は仲哀の子ではないのではないか、と思われます。父は武内宿禰か、または朝鮮系の誰かでしょうか。または、仲哀は実在しなかった架空の人物とみなして無視してしまう説もあります。いずれにせよ、皇統の継続性はきわめて疑わしいことになります。
さらに、天武天皇の正体の問題です。天智は626年生まれ。一方、同母弟と書紀に明記される天武は生没年が不明で、『本朝皇胤紹運録』 によれば 615年生まれ、『神皇正統記』 によれば 607年生まれで、天智より年長になるそうです (129-130p)。そもそも書紀で天武の前半生の実名記録がないこと、生没年も年齢も分からないようになっていることが奇怪で、正史としてあり得ないことです。さらに、天智の娘4人が天武の皇后や妃になっていることは、「外婚制をとる騎馬民族にあっては絶対にありえない」(132p) とします。騎馬民族でなくても、外部有力者と姻戚関係を結ぶならわかりますが、同母弟に4人も娘を娶らせるなどというのは非常識で、到底まともなことではありません。こうしたことから、著者は「日本書紀が大海人による皇位簒奪の事実を合理化するために、天智・天武の兄弟関係なるものを捏造したに違いない。」 (132p) とします。私も著者に賛成です。
では天武とは何者でしょうか。のちの天皇家は天武系を祭っていないということを読んだことがありますが、もっと研究する必要があります。万世一系などという神話は極めて疑わしい。さらに継体天皇のこともありますが、それはまた後日に。
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