このごろ気になっている、本能寺の変。「光秀からの遺言」 明智憲三郎著、河出書房新社 2018年。
著者は明智一族の末裔ということで、たいへんな情熱と「歴史探偵」という手法で本能寺の変の真実解明に取り組んできているとのことです。
従来は経歴不明の明智光秀について、尊卑分脈や寛永諸家系図伝などの系譜を綿密に検討したうえで、美濃守護であった名門・土岐氏の一族で、連歌で高名だった明智光高=玄宣の曽孫としています。 (121p)
そう考えると、永禄11年 (1568) 11月15日、明智光秀が上洛して間もなく、近衛前久実弟の聖護院門跡・道澄の連歌会に幕府から細川藤孝と光秀が参加したことが納得できるとします。(164p) この会にはのちに愛宕百韻に参加した宗匠・里村紹巴も加わっています。著者は、上洛間もない光秀がこのような超一流の会に出ることができたのは、光秀が連歌界で高名だった明智光高=玄宣の曽孫という肩書のおかげだとしていますが、納得できる説明です。
著者は、光秀がなぜ謀反を決意したかについて、信長からシナ征服計画を明かされたことがその原因だとします。(212p) 光秀にとっては土岐氏の再興と子孫繁栄を願っていたのだが、シナ征服になっては幼いわが子や一族の将来がメチャメチャになってしまうと恐れたために信長弑逆を企てたとします。初めは武田氏と提携を図り (甲陽軍鑑)、武田氏滅亡後は松平家康を暗殺しようとした信長の逆手を取って松平氏と気脈を通じた、と考えます。
織田信長が家康を亡ぼそうとしたということは有りうることです。 (218p) しかし光秀が、信長からシナ侵略計画を打ち明けられて弑逆を思いつめた (212p)、というのはちょっと無理があると感じます。シナ侵略軍に組み込まれ遠征しなければならなくなったとしても、それが直ちに明智家の滅亡になるかどうか、なんとも言えません。光秀としてはうまく立ち回ればいいわけです。いかに「未萌に知る」のが戦国武将の心得とはいえ、先走りすぎると思います。やはり信長の虐殺指向、過酷な重臣処分に対する反感・危惧があったのではないでしょうか。弑逆は世の中のため、と思ったのではないでしょうか。
そして羽柴秀吉が、なぜ信長の首も遺体も晒されていないのに、信長が死んだと確信できたのか? 確信できなければ毛利との即日の和平も、中国大返しも敢行できるはずがありません。この謎は明智氏の著書でも解明されていないと思います。
光秀のかつての上司であり娘の嫁ぎ先の父である細川藤孝が、事前に謀反を知らされたか感づいており、秀吉に内通したということなのか。あるいは軍記物のいうように明智の軍使が秀吉軍に捕らえられたのか。軍記物の作者は、秀吉が一報を得て即座に信長が死んだことを確信するには、明智の軍使が捕らえられたとでもしなければ理解できないので、そうした筋書きを創作したのではないでしょうか。しかし事実はそうではないかもしれません。
日本史最大の謎、本能寺の変。明智光秀の出自と生涯は明智憲三郎氏によってかなり明らかになりました。しかしまだまだ謎は尽きないようです。
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