現代日本を知るには応仁の乱以後の歴史を知っていればいい、それ以前は外国の歴史も同然だ、という有名な説があるそうです。(高名な学者内藤湖南)
それでこのごろ、室町時代、その直前の建武新政、南北朝時代の歴史書を読んでいます。そこにはいろいろな人物が登場し、それぞれに自我を主張し、支配し、反逆し、抵抗し、抗争しています。そして多くの人が攻守所を変え、敵が味方になり、味方が敵になる。まことに目まぐるしいとともに、たいていの人は現代的価値観では理解しづらい生き方をしていますが、人物が生き生きしている、という感じがします。
その代表として、足利尊氏。この男は最終的に室町幕府を開いた勝ち組です。しかし彼は鎌倉幕府に命ぜられて後醍醐前天皇勢の討伐に向かい、京都を過ぎて途中で後醍醐に通じて幕府に反旗を翻し、戻って六波羅探題の北条一族を亡ぼします。北条一族の遺児時行の中先代の乱で鎌倉を守っていた弟直義が三河まで落ちると、その救援に向かいますが、このとき後醍醐に征夷大将軍を要望、拒否されると独断で出陣し、鎌倉を奪回。そのまま居座って征夷大将軍を自称し、味方に論功行賞を行ないます。後醍醐はこれを反逆として新田義貞勢を派遣、尊氏はこれを箱根・竹之下で破り、上洛。しかし奥州から北畠顕家軍が攻め上り、尊氏は九州へ落ち延びます。その後九州から再起するとき、(北朝の) 光厳天皇の宣旨を得て京都を奪回。後醍醐は吉野へ移って南朝を創始します。
この間、尊氏の変心はすでに3回。しかしまだまだこれから後があります。
この後、室町幕府の首脳部である弟直義と執事高兄弟に対立があり、まず高師直が直義を追放、その後直義は南朝に降伏し、兵を集めて尊氏・高兄弟を討って勝ちます。このとき敗れた高兄弟が尊氏と同行したいというのを断り、尊氏は兄弟が惨殺されるのを見殺しにします。さらにその後、尊氏・義詮は直義と戦うこととなったとき、なんと南朝に降伏して北朝の崇光天皇を廃位するという荒療治 (正平の一統)。首尾よく直義を負かしましたが、その後南朝が和談を破ると、またまた北朝を再興します。天皇を立てるためには天皇か上皇が必要だが、南朝側が3人の有資格者を連れ去ったため、皇族でも何でもない女院が天皇を指名するというウルトラCで、後光厳天皇を擁立しました。
天皇などどうにでもなる、という尊氏の姿勢がよく分かります。また、自分の都合のいいように手を組む相手をスラスラと変える。有能と言えば有能、しかしこんな経歴を見て、大人物と讃える気にはなりません。昔から人気がなかったらしいが、それも当然です。
そしてこの時期の武士はみんな同じようなもの。ただ一人違うのは楠木正成です。後醍醐天皇に忠誠を尽くしたということよりも、後醍醐草創の時から吉野落ちの後まで、諫言を退けられても命に従う、それが一貫しているというのが凄いところです。大楠公と言われるのももっともです。
鎌倉時代の畠山重忠は、無実の謀反の嫌疑で討たれるとき、反逆の意思がないことを証明するために旅装のままで討たれたと言います。そういう人物は、この時代にはまことに稀です。我欲・我執の塊だった日本人が、どうして忠義や正義を大切にするようになったのでしょうか。江戸時代にそれが国民意識にまで高められた、のでしょうか。あるいは、元来そうした素質を持っていたのかもしれません。
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