晴耕雨読で、このところ織田・豊臣時代の本をいろいろ読んでいます。
この2人についてはわからないことが多いのですが、常識のウソを教えてくれる本があります。
「戦国時代の大誤解」 鈴木眞哉著、PHP新書、2007年。
例えば第2章-3、織田信長。「実在の信長は、問題の多い人だった。他人の背信行為はしつこく追及するが、自分は上から下まで裏切りのやり放題だった。」「信長をもちあげる人たちは、(中略) 信長は、そうした欠陥を上回る優れたものを持っていたとか、大きな業績をあげているとかいうことにする。」しかし「楽市・楽座はべつに彼が創始したわけでもなんでもない。」55-56p。(楽市楽座は近江の六角氏や駿河今川氏が早いそうです。) 武田氏をやっつけた長篠の戦いも、鉄砲隊で勝ったなどというのはまったく間違いだと言っています。当時の馬はポニー並みで、騎馬軍団の突撃などという事はあり得ないそうです。106-107p。
ところで著者は信長の功績として、一向宗や比叡山の虐殺で宗教勢力を抑え込んで聖俗分離を果たしたことを高く評価していますが、私は賛成しません。宗教者が武力を持っていることが許せなかったと言って、皆殺しは非道です。それでいながら現代になって良かった良かった、などというのは理屈がおかしい。それならどんな虐殺をしても、事後的に良いことがあれば構わないことになってしまう。アウシュビッツだってジェノサイト批判が世界の常識になったのだから良かった、とでもいうのでしょうか。歴史的事実は消せませんが、だからといって哲学的に許すことはできません。
第2章-5、豊富秀吉。明治時代に日本史上最高の出世者という事で大人気になったそうです。秀吉は人たらしというほど調略上手かったそうですが、きっと戦略眼に優れ、おそろしく頭の回転が速かったのでしょう。信長配下での出世のスピードぶり、本能寺の変から全国統一までの神速さを見れば、謀略の天才という感じがします。その秀吉が、言われたくなかったことが、「主家の織田家との関係だろう。」秀吉は信長の遺児 (成人2人も含め) 3人を巧みに操り、排除して天下を盗ったわけです。そして柴田勝家と結んだ三男信孝が次男信雄に攻められて亡ぶ直前、秀吉は「人質としてあった信孝の母と娘を殺させた」。「故主・信長の側室だった人だが、それを磔に欠けたのである。」このことは伏せておきたかったらしく、どこにも載っていないそうです。後日の関白秀次一族の全員虐殺に通じるものがあります。妻子ばかりか幼児・女房衆まで公開処刑するとは、いかに何でもひどすぎますが、それが秀吉の命令だったことは明らかです。秀吉は人情に厚く、敵対者をよく寛容に処遇したというケースもあるのですが、それはやさしさではなく、調略の一形態だったのかもしれません。
10年20年で草履取りから天下を盗った秀吉は、まさに天才だったでしょう。信長と違ってまったく無一物で、子飼いの郎党もいませんでした。信長は風雲児、革命児として近年評価が高まっていますが、誤解が多いのではないでしょうか。もともと守護代の支族の家柄に生まれて家臣団もあり、楽市楽座、鉄砲隊なども、べつに信長の革命ではない。狂気じみたワンマン指揮官が勝ちまくる、というのはよくあることでしょう。人材登用がすごいといえばその通りですが、一事の成功に酔って自分が万能だと思うから人の心が見えません。佐久間信盛、荒木村重、そしてついに明智光秀の裏切りに倒れたわけです。すぐそこに前例があったのに明智の心が読めず、無防備で討たれたのです。けっして天才にあらず。
ほかにも目からウロコがたくさん取れる、面白い本です。
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