イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

どどんがどん

2011-06-12 00:37:10 | 朝ドラマ

「“陽子”という名前はいいですね、太陽を見上げれば陽子さんを思うことができる、世界中どこに行っても太陽はあるから」と言うカズさん(高良健吾さん)は、夜になったら、「月子さん」じゃなく月河を思い出してくれないかしらん(@『おひさま』)。

……冗談はさておき、『ゲゲゲの女房』の布美枝さんほどではないけれど、『おひさま』の陽子ちゃんもまた先週~今週で一気にスピードお嫁入り。丸庵・徳子女将(樋口可南子さん)の「突撃開始」が見事命中したことになりますが、帯ドラマのヒロインご成婚劇は、出会って目覚めて躊躇してまた接近して、したと思ったら横槍が入って…みたいにたらたらうじうじやるよりも、外からズコーンと背中押されて一発決まり!ぐらいのほうが爽快感があるんだなあ、と改めて認識しました。

唐突なようだけれども、自転車通学の女学生陽子(井上真央さん)と満開の蕎麦畑で出会った徳子さん、心の波長が静かに共鳴し合い、陽子が教師になってからの再会まで長くお互いの心の奥底で響き合っていたのがわかる。「女学校?2年生?なら大正11年の戌年生まれ?」と速攻重ね訊きした徳子さんのほうは、長男・和成さんの下の娘さんを幼くして亡くしています。死んだ子の年を数え続けて、「生きていれば今年女学校」「今年は2年生」と心の片隅にいつも元気な雅子ちゃんの面影があったはず。“こんな娘に育ってほしかった”というかなわぬ夢がそのまま、神様の手で掬い取られて姿かたちを得たような、笑顔はじける陽子さんに、徳子さんはひと目惚れだったのでしょう。

女学生陽子ちゃんも、鄙には稀な涼やかな着物姿に日傘で蕎麦畑に佇む徳子さんに、まだ元気だった頃一緒に散歩していろいろなことを教えてくれた紘子お母さま(原田知世さん)の、柔らかく賢くあたたかく、かつお洒落な面影が自然と重なったはず。ともに笑顔を身上に生きるふたりの女性の、笑顔の下にそっとしまってきた心の淋しい部分“母恋い、子恋い”を、天使のように結びつけてくれたのが、今にして思えば和成さんだったのですね。

先々週~先週の、お見合い→挙式までの流れも、一見、いきなりでバタバタのようだけれど(朝ドラウォッチャー的には『ゲゲゲ』でだいぶ慣れてはいる)、昭和18年秋、戦局逼迫して精神的にも物質的にも追い詰められた空気の中で、善良な人々がどんなに“晴れがましくおめでたいこと”“心ときめくこと”に飢え欲していたかがさりげなく浮き彫りにされて、もうひとつ前の週、タケオ(柄本時生さん)出征や茂樹兄ちゃん(永山絢斗さん)最後の帰郷篇とは別の意味で、安心して笑い泣けました。

教師ひとすじで「いずれ結婚したい」「したら教師続けるどうする?」なんて考えたこともなかった陽子ちゃんも、生まれて初めての“お嫁さん”話に、お相手候補の顔を見る前から早速ウキウキニヤニヤ。周囲で出征や戦死の胸痛む話が絶えず、日々のご飯にも事欠く暗い日々だったからこそ、“異性に心惹かれ、好き好かれ合う”という、平時なら若い乙女が誰でも親しい、甘ずっぱい心の揺らめきざわめきがひときわ甘くきらめいて思えたに違いありません。

平和な平成日本は色気もツヤ気もない、“安定”と“人並み”を確保するための保険のような“婚カツ”がすっかり定着してしまいましたが、人を、とりわけ異性を好きになる心の働きにも“ハングリーさ”がある程度必要なのかもしれない。食い足り寝足りて、そこそこ楽しい消閑グッズ・ソフトがそこらじゅうに溢れ返り、明日も来月も1年後も10年後も平和が飽きるほど続くとわかっている中では、フェロモンざかりの年頃でも人はあまり人を恋しく思わないし、思ったとしても、そんな自分にウフフとときめかず、どこか低体温で「年収は学歴は」としらけた“処理”をしがち。

和成さんの再出征前の最後の一日に取り急ぎ行なわれた祝言(←“挙式”と言うより“婚礼”と言うより、“祝言”がぴったりな雰囲気)に、丸庵座敷に集まった列席者の皆さんも、「こんなご時勢だからこそ普通におめでたく」という善意がどの顔にも満ちていて、『ゲゲゲ』でのそれとはまた違った幸せ感がありました。東京の富士子お祖母さまからの花嫁衣装の贈り物といい、大将・道夫さん(串田和美さん)の手打ちのつつましい振る舞い蕎麦といい、観ていて「戦時中でなかったらもっとリッチに華やかにできたのだろうに、この程度が精一杯で気の毒に」とは不思議に思いませんでした。きっとこの人たちは、飽食した時代の豊かな環境にいたとしても、こんなふうに、昔から大切にしてきたもの、信じてきたことだけをシンプルに守った、“精神が主役”なお祝いをしたと思う。

自分の出征が刻々と近づく朝なのに、敢えて普通にと教師の勤めに出る新妻陽子さんを玄関先で見送った和成さん、「どこかでこうして太陽を見上げていますから」と空を指さす姿が『ベニスに死す』のラストみたいだった。こんなに心やさしく、物にも人にも労りを持てる誠実な若き新郎が、新婚の一夜きりで帰らぬ人になってしまうのではあまりに痛ましく、ドラマ的キャラ的にももったいないにもほどがあると思うのですが、「これきりなんて悲しすぎる」「戦死しちゃヤだ、生きて帰ってほしい」という思いを、視聴者も陽子と共有して何週か過ごしてください、との制作意図かもしれませんし。

先月来から、ゆえあって韓国製史劇ドラマに深入りしている最中(←“もなか”ではない)(←当然)でしたが、たとえばこの3週ほどの『おひさま』を観るにつけても「やはり日本のドラマはいいものだな」の感を新たにします。

たとえば、永訣になるかもしれないその朝、玄関先での“逆見送り”の後、夫の背中を胸中に浮かべながら、オルガンで生徒たちと『兵隊さんよありがとう』を目いっぱいの笑顔で合唱する陽子、そんな陽子の頑張りを廊下で案じつつ見守る先輩の夏子先生(伊藤歩さん)に、いつもは陽子に敵対的な男性代用教員コンビ=ピエール瀧先生とダンカン先生もいつになく神妙な表情で顔を揃えて…というセリフなしのワンシーン。涙も嗚咽もナレーションもないけれど、陽子というヒロインが持つ心の磁場のありようを、数秒で垣間見せるこういう表現は、“万障繰り合わせて泣かせに持ち込むチカラワザ剥き出しに、何のためらいも臆するところもない”韓国製シリアスドラマとは厳然と一線を画する、日本ドラマならではの味だと思う。

『おひさま』はどちらかというと、精緻に巧緻に考え抜かれ組み立てられた秀作という類いではなく、戦争と人間、戦争と家族、戦争と女性といった重いモチーフを扱いながらも、基本的にはゆるめに、王道朝ドラとして明るさ元気さ本位で作られた肩のこらないドラマです。

だからこそ、明るさ元気さの中にヒリッと一瞬来る、こういうさりげない琴線の震わせ方が効く。

韓国製の、なりふり構わず当てに来る、野太い直截さもそれはそれなりの魅力だけれど、“言わぬが花”“秘すれば華”を地で行く日本的ドラマ話法は、気がつけばやはり捨てがたいし、心地よく、安らげる。

やっぱり日本はいいな、♪日本よ日本、わしらがお国、まだ守れるぞ、時間はあるぞ、…と、懐かし朝ドラの劇中歌をふと思い出したりしました。あれは何十何年前の作品だったかしら。

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