イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

積ん毒 放っ得

2011-08-12 00:12:44 | 昼ドラマ

さてさて、そうこうするうちに、9月期(95日~)の昼帯ドラマも発表になっているわけです。うっわー、ついこないだ4月期の『霧に棲む悪魔』が終わったと思ったら、もう秋クールの話題。指切ったり縫ったり、ニンニクとノドのクスリの成分組み合わせの研究(?)に夢中になっている間に、時間はどんどん過ぎ2011年もすっかり後半戦なのだなあ。

 『毒姫(どくひめ)とわたし』。…ふうむ。『王様と私』を思い出す。ザ・キングアンドアイ。♪シャーウィーダン、チャッチャッチャー。ユル・ブリナー。デボラ母(かあ)さん。未視聴ですが韓国時代劇ドラマに『王と私』もある。NHK朝ドラの記念すべき第1作は獅子文六原作『娘と私』(昭和36年)。“○△と私”というタイトリングは据わりが良くて使いやすいのでしょう。“わたし”って重いですからね。ボトムに持って来ると安定感がある。

“毒姫”なんつうと今昔物語説話みたいですが、内容紹介を読むと“毒舌の姫”=黒川芽以さん扮する車椅子のキャバクラ嬢・美姫のことを指す様です。

んで、“わたし”が櫻井淳子さん扮するアラフォーシングル編集者・小麦。櫻井さんは2006年の『美しい罠』以来5年ぶり、黒川さんは07『愛の迷宮』以来4年ぶりのこの枠参戦となりますね。

他キャスト名をざっと見ると、04『愛のソレア』以来7年ぶりの荻野目慶子さん、02『母の告白』以来9年ぶりの国広富之さん、さらには08『愛讐のロメラ』以来3年ぶりの渋江譲二さんに、09『非婚同盟』以来2年ぶりのいとうまい子さんと“ブリ”の大漁大特売に、昨年の『インディゴの夜』の記憶も新しい加藤和樹さんの名前も見え、要するに昼帯キャスティングチーム、昔のお付き合いで声かけまくって集めたような気がしないでもない。

『美しい罠』は忘れ難い、2006年でいちばん深く入り込めたTVドラマで、大枚はたいてDVD-BOXも全巻予約入手。本放送中の自前のVHS録画と合せ技で何度も再生視聴、同じ年の秋に始めたこのブログで、かねて贔屓にしていたこの枠のドラマについて、たびたび言及するきっかけともなった思い出深い作品です。

『愛の迷宮』は諸般の事情で本放送は中途下車しましたが、黒川芽以さんが運命の子・ゆりあ役で参戦した頃までは一応はまっていました。現在当地で、他局の地上波で再放送中で、100パー出先の待ち時間しかない時間帯にもかかわらず、空いていると結構チャンネルをアレして観返す気になります。「そうそう、このあとアレがああなるんだよ」「あれ?そっち行くんだったっけ?忘れてたなぁ」という“復習”視聴もまた楽し。

いまさらこんなこと蒸し返してもなんですが、櫻井さんにしても黒川さんにしても、『罠』『迷宮』それぞれのキャスト発表を見た時点では、好感を持っていた女優さんではありませんでした。少なくとも「この人がヒロインなら観ようか」という気に積極的にさせるお名前ではなかった。櫻井さんは、文句なく美しいけれどもちょっと蓮っ葉で賢そうじゃないイメージがありまして、何かハート、スピリットにずしんと来ないというか、物質的なレベルにとどまっている感じ。黒川さんは、女優さんと言うより、萌えニーズの美少女“タレント”。

それが、いざドラマが始まってみて、設定やストーリーや劇中人物のキャラにはまってくると、役者さん単体をどう思っていたか、好きだったか嫌いだったかなんてまったく何の問題にもならなくなってしまう。それどころか、終盤~最終回頃には、「見損なってて失礼しました」「こんなにデキる役者さんだったとは」と180°評価が反転さえするのです。チカラのあるドラマ、ドラマのチカラというのはそういうものだと思います。

しかしまぁ、今般、せっかくの櫻井さん黒川さんのダブルヒロイン起用ではありますが、“アラフォーシングルキャリア女性と”“ハンデキャップを持つ20代女性の”“女の友情”を通して“人生の本当の幸せとは何かを問う”“ヒューマンコメディ”と、月河にとって宇宙一興味のないテーマとモチーフをこれでもかと並べたようなキャッチなので、どうやらこの枠、9月からも“次々作情報待ち”内定。昨年の同時期は『天使の代理人』をやっていましたね。暑さから解放される季節は“女の生きかたタイム”ということで定着させたいのかもしれません。東海テレビ、いま何かと逆風ですから、10年来のこの枠ウォッチャーとしては応援したいですけれどね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ああせい個ぉ性

2011-07-14 23:51:08 | 昼ドラマ

『霧に棲む悪魔』最終話(1日)で圭以(入山法子さん)のサプライズ記者発表にぶっ飛んでいた、龍村貴金属の宮下社長=矢島健一さんは、翌週からさっそく『おひさま』の安曇野国民学校改め新制・安曇野小学校の萩原校長にワープ。

放送期間、初登場日が、偶然、重なることなく“隣接”したおかげで、矢島さん得意の“機を見るに敏”キャラ2週にわたって堪能できましたな。こういう矢島さんの人物像、大好物です。職場にいたら思いっきり「大ッ嫌い」って胸張って言える。『ハゲタカ』のアイアンオックスも、『宿命19692010の財務省上司も、『華麗なる一族』の帝国製鉄社長も、微妙にニュアンスを変えながら、いつも“機を見るに敏と言うより、機を見るのが趣味、て言うか本能”“ハラにイチモツと言うより、すべてにイチモツ”“身体じゅうどこを切ってもイチモツ無い所がない”(←誰だいろんなこと想像したのは)。

人呼んで(誰呼んでだ)“ミスター慇懃無礼”

あるいは“魂胆でできている男”

矢島さんが、あらゆるご出演作で演じる役柄はすべて、日本の人間社会における“文化”そのものです。

『霧に~』の宮下社長は「忙しくなりそうだー!」とウキウキ張り切った途端に圭以さんの鶴のひと声で「バンザイ…無しよ」状態になってしまい、“のちの事知りたや”のままでエンドでしたが、『おひさま』の萩原校長という役は、陽子先生(井上真央さん)のような、“理不尽な環境でもせめて子供たちに良かれと、自前の健康な倫理観と軍国教育との狭間で悩みつつがんばって来た”教師たちが、戦後、落下傘的に来た付け焼刃進歩主義の偉そう管理職に抱く違和感、嫌悪感を体現するキャラとして矢島さん得意の持ち味を最大活用。キャスティング的にもお見事。

陽子ちゃんは今週めでたくご懐妊で、教師を続けるなら産休とらなければなりませんな。オンナ先生には何だかんだ理由つけて辞めてもらいたいらしい萩原校長のイヤミシーンは堪能できるかしら。

……『霧に~』のレヴューの続きを、矢島健一さんに事寄せて書きたかったのですが、ここまで書いたところで、PCキーを操作する手に外科的アクシデント発生。落ち着いてからまた行きましょう。終わったドラマだから、追いつかなくなる心配もないですしね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

圭以圭以に論じる

2011-07-10 20:19:24 | 昼ドラマ

「覚えておくといい、ミステリで双子が出てきたら、それはカムフラージュだ。犯人はほかにいる」

…奇しくも『霧に棲む悪魔』最終話(1日)の2日後、ピーター・フォークさん追悼企画で再放送された『刑事コロンボ』“構想の死角”で、ジャック・キャシディ扮する共作ミステリ作家が、愛読者でもある近所のグローサリー女主人に言う台詞です。

 (ちなみに…っていまさら因む必要もないほど有名な話ですが、ジャック・キャシディさんは『コロンボ』で、この“構想~”含め3エピにゲスト出演、3回とも犯人役をつとめておられます)

 『霧に棲む悪魔』の圭以と、白い女=霧子(入山法子さん二役)は双子ではなく、父親同士が双子なだけでした。どちらかが犯人かも?という状況には一度もならず、ともに被害者もしくは利用されていただけで、容姿が瓜ふたつであることが、狭い意味でのフーダニットの(アリバイ偽装などの)カムフラージュ、あるいはミスリードにはならなかった。

…と言うよりも、以前にもここで書いたように、圭以と霧子のそっくりぶりという要素を、ドラマチックなしつらえで意味あり気に提示したものの、本筋にあまり活かせないまま飼い殺してしまった感が強いのです。

白い女と山小屋で夢幻のような一夜のあと弓月(姜暢雄さん)が龍村ファームに辿り着いたとき、初対面の圭以を見て仰天したこと、ファームと龍村家に関するあれこれに興味を持ち案じ始めるきっかけになったことは確かですが、弓月の“あの女にどうしてももう一度会いたい”という渇望が、二度めの対面と、彼女からの「お嬢さま(=圭以)を守ると約束してください」の懇願を経て“僕が愛し、心配し、守りたいと思っているのは圭以さんのほうだ”の確信へ至るについて、“そっくりぶり”がどう貢献したり、逆にブレーキになったりしたのかなんだか曖昧なままでした。

「そりゃ、偶然会ったミステリアスな若い美人が自殺を思いとどまらせてくれたら好きになっちゃうだろうし、直後に瓜ふたつの美人が目の前に現われたら、別人とわかってたってそっちに行っちゃうだろ」と言われたらそれまでなんですけどね。若い男が若い異性に惚れるのに、それこそミステリみたいな合理的な動機や、順序立った因果律なんてあるわけがないのだし。

しかも、そっくりだそっくりだと動揺している(そのわりには、なぜそっくりなのか原因には淡白)のは、前半はほぼ弓月だけ。圭以の急死後の後半の、弓月&晴香(京野ことみさん)による霧子の行方捜索と発見救出作戦以降、にわかに「本当にそっくりだわ」「圭以は死んでなくて、ここにいるのが霧子さんじゃなく圭以かも」「DNA鑑定で立証できるかも」…と、“解禁”みたいにそっくりぶりに焦点が集まるので、なんだか据わりが悪かった。まるで“そっくりびっくりスイッチ”がどこかに仕込んであって、展開の都合でONOFF切り替えられているかのよう。

20年ほど前、母親に連れられて龍村家を訪ねてきた幼い霧子を記憶している美知子さん(広岡由里子さん)が「圭以さんと同じぐらいの年格好で」「そう言えば圭以お嬢さまとよく似た女の子でした」という記憶がないのは“似てる似てないが明瞭に容姿に表れるには幼すぎたから”と解釈してもいいし、圭以になりすまして廃校に霧子を呼び出した晴香が、瓜ふたつぶりにまず驚かないのは“夜中で暗く、しかも此方が圭以でないのを知られない体勢で距離をおいていたから”かもしれない。

しかし、第2話で霧子からの手紙を圭以に渡す小学生(小林海人さん)までが、圭以に「どんな人から?男の人?」と訊かれて「オンナノヒト。しろーい服を着てた!」とニコニコ答えるだけなわけです。

見知らぬ白ずくめの女性から「あの農場のお嬢さまに」と手紙を託されるだけでも小学校低学年の男子には不審な体験だろうに、渡すべき相手も同じ顔の女性だった。その夜は夢でうなされる級の不気味さだと思うのですが、圭以を見るや目をまるくしたり、「オネエチャンとそっくりだった…」と逃げ腰になるような素振りがまるでないのだから、“ある時点までは、そっくりを認識し不思議に感じるのは(よそ者で信用されにくい)弓月ひとりにしておく”というストーリー上の約束のもと、スイッチがガードされているとしか思えない。

録画視聴していて、かなり深い話数までは、圭以と白い女は演じる入山さん同様ひとり二役で、あるいは多重人格が入っている?と考えた時期もありましたが、25話の圭・霧直対面でこの可能性は完全に消滅。別にそういうサイコ系が見たかったわけではない(むしろ積極的にご勘弁)けれど、良くも悪しくも原作がウィルキー・コリンズ御大の19世紀の古典長尺作と“重石”になり過ぎ、“そっくりぶり”を現代日本舞台に移しかえて、縦横無尽にストーリーの推進力として活用できなかった憾みはあるかもしれません。

ちなみに(今日はよく因むなぁ)、シリーズ放送開始序盤のエピで、キャシディさん扮する共作ミステリ作家に冒頭のセリフを言わせ、ミステリドラマとしては挑戦的な脚本を展開した『刑事コロンボ』には、“二つの顔”という、憎たらしいくらいテンプレに則った“双子もの”エピがあり、憎たらしいくらいあざやかに“双子で共犯”を成立させて見せています。もちろん双子は二役で、『コロンボ』より前の人気TVシリーズだった『スパイ大作戦』で変装・声色のエキスパート役を演じたマーティン・ランドー。ラバーの手製マスクやヅラを駆使して「誰かになりすましてまんまと騙す」役でおなじみだった俳優さんが、今度は“素顔でそっくり”の双子なことを利用して欺く役だったわけです。やってくれちゃってたんですねぇ『コロンボ』。

(『霧に~』の話題はもう少し続きます)

(『コロンボ』その他も絡むかも)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俺は戦争が憎い

2011-07-02 22:11:05 | 昼ドラマ

↑↑↑今日のタケオ(柄本時生さん)(@『おひさま』)の名言。簡にして要。そうだよねぇ。戦争憎むべし。いっさいの論を俟たず無条件に、いの一番に、万障繰り合わせて地球上から消去撲滅すべきもの、それが戦争。満場一致、みんなタケオの味方だよ。その結論に至る過程なんかどうでもいい。動機もどうでもいい。声を揃えて言おう「戦争が憎い」

………テンションが上がったところで(上がらないか)、先般の続きです。

『刑事コロンボ』、昭和40年代後半の初放送の頃、もうひとつ発見したのは、「追いかけたり解明したりする側の心理より、逃げたり隠し事をする側の心理のほうが同化しやすいんだな」ということでした。

エルキュール・ポアロものやエラリー・クイーン、ドルリー・レーンもの等が「この世に存在する書物の中でいちばんおもしろい!」と信じて疑うことなく、眠らず食べず学校ももちろん行かずに読み続けることができたら死んでもいいと思っていた当時の月河にとっては、衝撃の発見。

とは言え子供といえども自意識の萌芽みたいなものはすでにありましたから、誰かに開けて見られたり読まれたりしたら困る引き出しの1杯、ノートの1冊ぐらいは持っていたので、そこから長ーーーい延長線を引いて行けば、別に犯罪経験はなくても、犯人がものすごい勢いで偽装工作をし、細心の注意で隠蔽し、必死にそらっとぼけ、感づかれたのではないかと小心翼翼する気持ちはとてもよく理解できました。

このあたり、活字世界のフーダニットと、目に見せて興がらせ惹きつけてなんぼの映像作品の違いがあるかもしれません。ドラマや映画で、観客を真相究明役の探偵や警察官サイドに同化させるような作りのものだと、たいてい探偵ははみ出し一匹狼であったり、努力家だがドジで間抜けであったり、逆に頭脳超明晰な代わり、変人の窓際だったりで苦戦の連続、「応援してやんなきゃしょうがない」「しないでいられようか」というキャラになっている。

我らが『コロンボ』は、毎話リッチでセレブでスマートな犯人たちに比べ、風采や推定年収では歴然と見劣るものの、要所要所で捜査能力の手練れ慧眼ぶりを披露し、現場の制服お巡りさんや鑑識さんにもそれなりにリスペクトされ、しかもどう見ても裕福とは言えなさそうな私生活面も、カミさんや甥っ子たちにわいわい囲まれてリア充している気配まで垣間見られるので、「そんなに必死に肩入れしなくても、コイツなら必ず真相に辿り着く」と突き放して見ていられます。

究明サイドにあまり高体温にならず距離をおける分、犯人の、犯人なるがゆえの怯えや焦りや思い上がりには気持ちをぴったりフィットさせられる。「人間の本性は、追う肉食獣より、逃げる草食獣に、未だ、より近いのかもしれない」…そんなことまで考えさせてくれた『コロンボ』でした。

さて、こういうことを思い返していくと、昨日(1日)注目の最終話が放送された『霧に棲む悪魔』も、巻き込まれ真相究明者サイドに立たされて行く圭以(入山法子さん)や弓月(姜暢雄さん)らに観客の意識を沿わせるよりも、転がり込んできた邪悪のチャンスに飛びついたがゆえに、雪だるま式に悪事の屋上屋を架し続けなければならなくなった御田園、いや名無しの偽者(戸次重幸さん)の視点で、逃げ続け嘘をつき重ね、大きな偽装をカムフラージュするためにより大きな企みを打ちたてて見せようとする、嘘偽りが“生業”と化してしまった者の心理主体に描いたほうが、締まった、かつ乗りやすい作品になったかもしれません。

“昼ドラ初の本格的ミステリーロマンス”と銘打たれ、しかもその謎の中身が“アイデンティティの異動・偽装・混乱”という、月河の大好物のハイスミス系と思われただけに期待したのですが、“ミステリー”も“ロマンス”も、“本格的”も、どこかしら大幅に散漫な印象に終わりました。意気込みは買いたかったところですがね。この件は追って後日。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霧ッ!礼!着席!

2011-06-19 23:37:29 | 昼ドラマ

残すところいよいよあと2週となった『霧に棲む悪魔』、羽岡佳さんによるサウンドトラックCDを入手。ドラマ放送開始当初1ヶ月ほどは、音楽が前面に出すぎず引っ込み過ぎず、ほどが良すぎてちょっと物足りないかな?てなこともここで書いてたのですが、気がつけば525日リリース速攻買い。やはり買わずにいられない自分がいました。

開幕ベル鳴り響く如きM1『愛燃える』が序章を告げれば、M2『白い女』のシルエットがおぼろにきらめき、霧の彼方へ消え去った後にはM3『愛の深さ ~メインテーマ』の甘やかな残り香。M4『秘密』にひととき心囚われ、M5『愛の行方』の遥かなる旅路へ踏み出す。劇中の、生を見失いかけた挫折ダンサー・弓月(姜暢雄さん)の、命の捨て場所となるはずだった森の中での、見知らぬ白衣の女との出会いから始まる人生のリ・スタートを、そのまま音楽でたどるような構成です。

M8『月 ~弓月のテーマ』・M9『湖 ~圭以のテーマ』・M10『森 ~晴香のテーマ』と、三者三様の心模様モノローグの後の、謎→陥穽と混迷→葛藤と覚醒を思わせるシークエンスも見事。M11『陰謀』の悪意を剥く牙、物陰から冷たく見つめるM12『憎しみ』に、燃えるギターのM15『情熱』で迎え撃ち、ひとすじの光明を手繰り寄せるM16『真実への道』。

嘲るような弄ぶようなM17『運命の悪戯』の鬼火をM18『決意』で凛然としのぎ切って、M21『愛の深さ ~expanded version』(エクスパンデッドと言いながら349秒ほど)に至ったときの、丘の頂上から澄んだ空気とともに地平線を望むような解放感。

ただ、欲を言えば、22曲、約55分のヴォリュームながら、ドラマで使われているのに未収録の曲がいかにも多い。『愛の深さ』だけでも少なくとももう23ヴァージョンはアレンジがあるはずだし、月河が大好きな、ナマグサ世捨て人・玄洋伯父さま(榎木孝明さん)の書斎兼作業所兼寝室の場面になると必ず流れる、管楽器のダルでスモーキーなフレーズを含む曲も、危惧した通りやはり収録されていませんでした。

劇伴サントラにおいて“誰某(登場人物)のテーマ”“何々(場所、アイテム)のテーマ”式の曲タイトルの付け方があまり好きではないということもあるのですが、人物誰某をイメージしたテーマではなく、ドラマの物語世界の中で紡ぎ出される、たとえば“苛立ち”や“憧れ”や“嫉妬”“焦り”“郷愁”“安堵”といった、気分や状況のテーマがもっと入っていてほしかった。選曲構成が“点”“点の並び”にとどまっている感じなのですよね。いま少し“面”=壁や天井やフロアや階段、窓や天窓や中庭も見たい、いや聴きたい。

点の並びが飛び飛びでてんでんばらばらにただ輝いているのではなく、ストーリーに沿うようになめらかにつながっているのはとても良いと思うのですけれど。切ないにつけうっとりするにつけ追い詰められているにつけ、“決めシーン決めシークエンスの決め曲”だけを選んで整列させたようなお行儀のよさが、逆に食い足りない。別に何てことないシーンに、ついでのように流れている、ついでゆえにシーンともども忘れられなくなるような曲ももっとぎゅうッと詰め込んでほしかった。

今作ははなから“昼ドラ初の本格的ミステリー”を打ち出した作だったことも、あるいは選曲構成の縛りと言うか“レール引き”を要求したのかもしれません。羽岡佳さんの劇伴音楽にはもっと引き出しの数があるし、引き出しそれぞれの容積も大きいと思う。昼帯ドラマ再チャレンジ、ぜひお願いしたい。できれば“ミステリー”といったジャンルのカンムリのつかない、“パッション”や“ロマンティック”方面にフリーダムな作品に携わってほしいと思います。

…いや、『霧棲』がドラマとしてパッションやロマンティックが窮屈だとか不足だとか言うつもりはないですよ。ドラマ“本体”についてはまた後日。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする