先日、現役時代の趣味の会である「歴史探訪同好会」のメンバー10名と紀州街道を歩いてきました。
今回は南海電鉄羽衣駅(高石市)から南海電鉄春木駅(岸和田市)までですが、途中寄り道したことから歩行距離は約12㎞になりました。
今日と明日の2回に分けてご紹介します。
「紀州街道」
紀州街道は現在の大阪市中央区高麗橋を出発点として南下し、堺市、高石市、泉大津市、忠岡町、岸和田市、貝塚市、泉佐野市、泉南市など和泉地方を縦断して和歌山に至る総延長50㎞の道で、嘗ては紀州の殿様や旅人、商人が行き来した重要な街道となっていました。
中世後期(1600年頃)に入ってから海運や漁業が盛んになるともに、大阪湾沿いに新しい集落ができ、これを結ぶために大坂から和歌山への幹線道路として発達し、近世まで国道として利用されていました。
・泉大津市内に掲げられている紀州街道図です。
「高石神社」
この神社は、古くは天神の社として知られ、白雉(はくち)元年(西暦650年)より大阪府高石市に鎮座しており、平安時代に編まれた「延喜式」の神名帳に高石神社として記されいることから1360年余りの歴史を持つ神社だそうです。
御祭神は国造り・医薬・知識の神様の少彦名神、天照皇大御神、熊野坐三社です。
・高石神社本殿です。
「大雄寺址」
大雄寺は、南北朝時代の正平年間(1346年~1367年)、南朝の後村上天皇の勅願により孤峰覚明(こほうかくみょう:三光国師)が建立した七堂伽藍の大寺院だったようです。
当時、この寺院は泉州における南朝方の拠点として、北朝方の拠点であった家原寺と対峙していました。
その後、戦火によって焼失し、現在はその面影をとどめていませんが、発掘調査による出土品および江戸時代の古地図などからこの付近一帯に寺域があったことが明らかになっているそうです。
「浜寺俘虜(ふりょ:捕虜)収容所跡」
明治37年に始まった日露戦争では、多くの俘虜(ふりょ:捕虜)が日本に連行され、翌年1月、第4師団司令部により、ロシア人俘虜(ふりょ)収容所が設置されました。
その範囲は紀州街道西側の芦田川から南は王子川に至る地域で、大部分が高石村の土地でした。
当時、高石村の人口は3500人、収容された俘虜(ふりょ)は28000人であり、村人にとっては大きな出来事だったようです。
その後、俘虜(ふりょ)は明治39年(1906年)2月まで全員ロシアに送還されたということです。
・当時の俘虜(ふりょ:捕虜)収容所です。
・南海 高師浜駅前に「浜寺俘虜(ふりょ:捕虜)収容所跡」の説明板が建てられています。
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ふるくから使われた街道には、歴史と風習や伝説が封印されて生活感が漂います。
わかいころに南紀を旅したことがあるとは、前にご案内した気もしますが、偶然ながらiinaも明日から2日間、
和歌山のある寺をアップする予定になっています。
あのころの南紀があまりに素晴らしすぎて、2度目に行こうと思わぬほどです。