旧聞に属する話題が続きますが、今日は体罰問題ついて。
世論調査によると「場合によっては体罰肯定」派が多数なんですよね。
じゃあ「場合によって」ってどんな場合なんでしょうか?
「愛がある体罰なら恨みは残らないのでOK」という意見がありそうですが、これはナンセンスだと思う。
恨みが残らないのは、まさに「愛がある」からでしょう。
それなら、ただ「愛がある教育」をすればよいのであって、そこに暴力を伴う必然性は無い。
「人生、理不尽なこともあるのだから、身をもって理不尽さへの耐性をつけさせるための体罰なら肯定される」なんて見解もありそうだけど、これも同じくナンセンス。
理不尽さを教えたけりゃ、その手段は暴力以外にもあるでしょう。
考慮の必要があるのは、「実は悪いことをしていると判っていながらついついルールを守れない人に対して、ルールを守るようにする切っ掛けを与える」だとか、「努力しなければならないと判っていながらついつい怠けてしまう人に対して、努力する切っ掛けを与える」だとかの目的のための手段としての体罰かな。
ただ、難しいのは、たとえ上記が「体罰を肯定してもよいケース」であると仮定しても、
・体罰を与えられる側の人間の心理状態が適用条件になるので、客観的な判断が難しいこと
・切っ掛けを与えるに留まらず、エスカレートする恐れがあること
といった点。
そういった難しさを勘案すると、今のところは「体罰は全否定」というスタンスとしておいたほうが総合的には適切なんじゃないかと思っています。
世論調査によると「場合によっては体罰肯定」派が多数なんですよね。
じゃあ「場合によって」ってどんな場合なんでしょうか?
「愛がある体罰なら恨みは残らないのでOK」という意見がありそうですが、これはナンセンスだと思う。
恨みが残らないのは、まさに「愛がある」からでしょう。
それなら、ただ「愛がある教育」をすればよいのであって、そこに暴力を伴う必然性は無い。
「人生、理不尽なこともあるのだから、身をもって理不尽さへの耐性をつけさせるための体罰なら肯定される」なんて見解もありそうだけど、これも同じくナンセンス。
理不尽さを教えたけりゃ、その手段は暴力以外にもあるでしょう。
考慮の必要があるのは、「実は悪いことをしていると判っていながらついついルールを守れない人に対して、ルールを守るようにする切っ掛けを与える」だとか、「努力しなければならないと判っていながらついつい怠けてしまう人に対して、努力する切っ掛けを与える」だとかの目的のための手段としての体罰かな。
ただ、難しいのは、たとえ上記が「体罰を肯定してもよいケース」であると仮定しても、
・体罰を与えられる側の人間の心理状態が適用条件になるので、客観的な判断が難しいこと
・切っ掛けを与えるに留まらず、エスカレートする恐れがあること
といった点。
そういった難しさを勘案すると、今のところは「体罰は全否定」というスタンスとしておいたほうが総合的には適切なんじゃないかと思っています。