白隠は現代マンガの始祖ではないだろうか?


 ぜんぜん話は変わる、はずですがやっぱりあんまり変わんないかも、と変なこと言いますが、まあその母の日の前の日に京都の母のところにいて、帰りに国立博物館『禅』展みてきました。これは面白かった。

 日本美術史の全体の流れからすると、ここでひとつ、マルローの言うメタモルフォーズが起こっているか、と思います。つまりその、描く方の立場から言うと人間を超越したほとけさまを描いたり彫ったりするミッションが、以心伝心で教えを伝えてくれる師の人間的なところをリアリズム?をもって追究するミッションに変化したかと思うのです。

 ほとけに限りなく近いかもしれないけど、まぎれもなく人間である師。人間であるから、その顔のウラには底しれない何かがありそう・・・
 そのウラをも映し出すために、画家はその顔の真実に肉薄する。

 でもね、厳密に言うとこれ、リアリズム、ですかね? しいのき迎賓館と違って展示物の写真をこのブログに載せるわけにはいかないので残念なのですが、わたくしの言葉で言うと、なんだか禅の坊さんたちはみんなちょっと変な顔をしています・・・というか変な顔に描かれていると思うんですよ。ひょっとしてそこに誇張、カリカチュア化みたいなものがあるとしたら。

 白隠は達磨さん本人なんか見たことなかったはずですが、彼は入場券に印刷された、こんな(↑)肖像を描くわけですね。

 この目のでっかさ・・・ほとんど現代のマンガではないですか。
 もっともそういうこと、既に指摘している人、言っている人いそうな気がしますけどね・・・

 北斎が『北斎漫画』とか描いているので、また浮世絵というのが世界に知られた民衆ジャンル――あれは複製をその本質とする版画であり、最初から「アウラ」がない――だからそっちの方に気をとられますが、禅の高僧の肖像というのもひとつの源流ではないかと思ったりして。

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