授業はイベントに、イベントは授業に

La classe est une chose qui a lieu, se passe une fois pour toutes. Elle n'est pas un équivalent du document, écrit ou sonore, qu'on utilise dans la classe. La classe est inséparable d'une personne qui se donne dans la classe et qui montre que ce qui est donné vaut la peine d'investir du temps et du travail d'un être mortel dont la force et la vie ont forcément une limite.
いま他の先生方と同じようにわたくしも授業のためにがんばって「教材」をどんどん作っています。ただ、それが普通の授業をビデオで撮ったものであれ、パワーポイントに音声をいれたものであれ、他のものであれ、教材は「授業の等価物」でないことははっきりさせておかなければいけません・・・ 有名な先生が優れた「教材」をビデオやパワーポイントで作る;その先生が退職するときに勤務校が「おやめになったらどうせ使われないのですから、学校に引き取らせていただけませんか」てなことを言って代価を申し出る;有名な先生でもお金は欲しいしその方面でもう業績を上げる気もなかったとしたら、妥当な代価でその教材の使用権を売る;学校としては「〇〇先生の授業」というものを持っていることを、持ち続けていることをセールスポイントにできる;レポートのチェックのできるひとを雇っておけば、特に高給の先生を雇っておく必要はない・・・ そうなると若い人が職業として学業を続けられる可能性を減衰させるはず。初音ミクの出現が修行中ミュージシャンのアルバイトを困難にしてしまったように。

結局それに類したことが起こるのは不可避なのかもしれません。

そうなっても、学業への嗜好は続くだろうし、精神は思索を続けようとするでしょう。それは「人は知ることを愛する」からですが、それよりも「この営みは力も命も限りある存在が喜んで労力と時間を捧げる価値のあるものだ」ということを「先生」から自然に伝えられるから、であるはずなのです。
命はかない人間が喜びと共に教室内で語る言葉は、アクションペインティングの刻印のようなものを自らの身体に刻むアーチスト同様、「先生」の身体とともにあるべきで授業は、人間の身体が一回きりの生のものであるのと同じに一回きりのもの――ととらえるべきだと思います。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )