ジダン事件 Jeune Afrique 「キレる」ということ

 仕事で忙殺され、そのくせ合間にコンサート行ったりしている間に、ジダン事件をめぐる議論もだいぶん沈静化しましたが、trotteurさんの重量級の議論にお答えしておきたく思いますから、なんとかもう少し書いておきます。

 フランス語誌 Jeune Afrique 16-22 juillet号(上)は当然ながらもうずいぶん前に届いていました。ジダン事件報道は、思った通り、別に新材料があるわけではありませんでした。細かいところではいろいろありますが、省略します。(次の週の号はもうイスラエルのレバノン侵攻の件で大変です。この大事件の前では、ジダンの事件ばかり扱っているのは不謹慎のようにも感じられます・・・)

 記事は Marwane Ben Yahmed による2ページのもの。タイトルは La part d'ombre d'un genie ですから「天才の影の部分」ということです。そこに Hamid Barradaという人の囲み記事が入っています。

 ベン=ヤハメド記者はご存知の諸事実をあげたあと「これらすべては彼がキレた perdre ses nerfs ことをおおむね説明はする。しかしいかなる意味でも免罪するものではない」としながら、括弧つきで「(ハミード・バラダははっきり別の意見を持っているが。囲み記事を参照)」と付け加えています。Perdre ses nerfsはたぶん「忍耐力を失う」くらいに訳せると思います。

 ベン=ヤハメド記者の方はまったくの常識的意見ですが、Jeune Afriqueとしては対称的意見を並べてある意味でバランスを取ったのでしょうね。

 バラダ記者の囲み記事の方のタイトルは L'honneur de la tribu で「部族の名誉」です。
 いかにも、という感じですが彼の言うには、ジダンの行為は「spontane'なものを何も持っておらず、brutalite'に relever するものでは全くない」ということになります。・・・ 意味は「思わずやってしまった、というようなものではないし、性格の粗暴さの現れでは全然ない」というような日本語にするのが一番妥当かなあと思いますが、このあたりは法律関係の方の助けが要るかもしれません。
 
 一番気になったのが disjoncter という言葉です。EX-wordでは「1.ブレーカーが落ちる。2.(話し言葉)(人が)現実から離脱する、ドロップアウトする」となってますが、
 「彼は disjoncter したのだろうか? 絶対にそんなことはない。彼自身の説明がそれを証明している」とバラダは言うのです。
 上に出て来た perdre ses nerfs という言い方と disjoncter という言い方ではかなり意味するところが違うように思いますが、おそらく現在の日本語に当てはめればどちらも「キレる」というのに近いのかな、と思いましたが、どうでしょうか。
 日本語で「キレる」と言ってしまうと、興奮、逆上して日常的道徳、倫理の禁忌を冒す行為をしてしまうことを意味するとは言えそうですが、その冒す「度合」がかなり曖昧だと思えます。
 許されない行為ながら肉体的危害を与えるとはほとんど言えないものから、ナイフでも持ち出して相手に危害を加えようとする行為まで、「キレた」結果の行為ということでひっくるめられそうな気がするのです。日本の社会生活の中である人が「キレた」と言うとき、日本社会の拘束の枠から1センチ出るのも100メーター出るのも「キレる」と言ってしまえるように思う、ということです。

 ジダンは perdre ses nerfsしたかもしれないけど disjoncter はしていない。胸板に頭突きはしたけど、当然ながら怪我をさせるほど殴り倒したわけではない。本当にブレーカーが落ちるように現実感覚を失い「我を忘れた」なら、つかみかかって殴りかかり、半殺しにしていてもおかしくないところではないでしょうか。もっとも人間は本能といっていいレベルで人殺しにつながりかねないような暴力には抑制が働く、と考えられますからあまり単純に考えることはできませんが。
 ともかくことは冷静に、象徴的レベルで展開されているとわたしには思えます。
 
 trotteur さんのおっしゃる通り「ジダンは善い人を演じている(させられている)」という認識は、たしかにわたしにあります。
 しかしいつもは「我慢して」演じているとは思いません。
 人間だれしも他の人に評価され、褒められるのは心の底ではうれしいものだと思います(そのへんひねくれた反応を示す人間はかなりいて、実はわたしもそのひとりなのですが)。ジダンはアルジェリア系の血を大切にする男ですが、それでもフランスでフランス的社会規範のもとで生きることの方を選んだわけです。非アルジェリア系が大部分を占めるフランス社会に受け入れてもらい、評価してもらいたくないわけがないのです。
 ジダンも普通はフランスの英雄の役を引き受けることを嫌がってはいないと思います。

 マテラッツィが巧みだったとしたら、それはジダンのこの心の安定を支えているものの深いところに打撃を加え得たことだったと思います。
 そしてその打撃を加えるためには、ワールドカップ決勝、ジダン自身の引退試合という前提条件が必要だったように思うのです。これについては次のエントリーで書きます。

 trotteurさんの言われるような、ジダンは「侮辱に暴力でこたえ」たのだという捉え方を、わたしも否定はできません。でもわたしには、ワールドカップ決勝、引退試合だったからこそ、ジダンの行為には

「ほら、このとおり、こんなに大事な試合であっても許されない行為を俺はやるよ」と、象徴的レベルで「示した」

という表現を与える方が的確であると言うこともできるように思うのです。
 だからわたしは、この議論の最初の方で言ったとおり、ジダンは「自分はサッカーより強い」と世界に示した、というかそのように「言った」ことになると思うのですね・・・

 結局あんまりうまく書けませんでしたが、うーん、この場合、わたしの主張の正当性は「証明」できる性質のものではないような気もします。逃げをうっているようで申し訳ないのですが。 m(_ _)m


 ちなみにJeune Afriqueのバラダ記者の結論は「明らかにこのアルジェリア人、このカビル人は自らの同族に忠実であった。フランスで生まれ、全くフランス人であり、同国人にちやほやされる aduler 彼だが、それでもなお出身の部族の精神的戒律 precepte を保持しているのだ」というものです。
 それでもなお「部族の価値観は、いわゆる共和国の価値観と呼ばれるものと必ずしも両立不能というわけではない」とバラダは付け加えています。

 これについては、アルジェリア人としてのジダンがフランス人としてのジダンを否定してしまわないように---そんなことしたら「所詮アルジェリア系のフランス社会への統合は不可能」ということになってしまう---バラダも苦心したのかもしれません。

 ジダンの行為はたしかに多くのフランス人に支持されましたが、それでも30%近くのフランス人は容認していないのです。このあたりをうまくつかれると確かに極右のつけいる隙ができます。

 バラダは「侮辱が家族に対するものであって政治的、人種差別的含意はなかったなどというのはまったく意味のないことだ。母親も、人種も同じことだ」とも言ってます。そう、まさにイスラム的コンテクストではこれが言えてしまうからこそデリケートなのです。

 昨日の『スポーツニッポン』にジダンのインタビューが載ってました。
 そこで彼は、挑発の具体的内容について明らかにしなかったことについて、

 「これまでのキャリアで、僕はいつもピッチであれピッチ外であれ、起こった問題については控えめな態度でやってきた。このルールを変えずにいこうって決めたんだ」

と述べています。
 こういう風に収めるのが、たしかに最良の手段に違いありません。

 ちなみにこのインタビューではジダンは、ブーテフリカ大統領の招きのことは言ってませんが、秋にアルジェリアを訪れる話はしていますね。大統領のモーションに対してはどう答えるんでしょうね?・・・

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