日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
日本の大学の文系(文学的なもの)の存在意義
「異文化理解」でカナダの話をしていて、学生さんにも言いました。
いちばん大事なことは、みんな言わないものだ、って。
学生さんたちも了解してました。
アルジェリアとフランスの愛憎入り混じった関係も、そうです。
人間の心の中には、広く伝播できない、もちろん本には書けないもの、しかも一番たいせつなものがある、ということですね。
だから、壁で囲まれた教室をもった、大学というものの存在意義があるのだと思います。
サイードが『オリエンタリズム』のどこかで、イギリス人はあまりに政治的利害が反射的に連想されるためにオリエントを前にした文学的創造がいまいちだった、というようなことを書いていました。いろいろ限定のつく話ですが、あたっていると思います。オリエントを文学的にとらえたのは、壮大な敗北の歴史を前にしたフランス人たちだったと思います(植民地争奪戦で、結局美味しいところはみな英国が獲りましたから)。サイードはフランス語にも日常的に接する出自のひとでした。
日本はしょせんヨーロッパでもアメリカ合衆国でもない。でも中国やインドとも「記憶」の質が違うし、世界に相対する立場が違う(あえて言えばそれは、スタンダールがはじめてフランス語に採用したtouriste、という言葉で示されるものでしょう)。だから日本の学問には、外国から来て学ぶだけの意義はあります。それが厳正中立であるかどうかは別として。
でも「それだけに」?日本は執政者と知識人の関係が、悪いです。
西洋偏重の弊害が実感される度合いが高くなればなるほど。
文系はそのものとして悪であるわけではないし、これを抹殺してしまうと、あるひとには思いがけないことでしょうが、自分のよってたつ良いところもまた死んでしまうと思います。うーんこれは表現の仕方が難しいです・・・
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どきっとした Surpris !

スキヤキの期間中新聞をあまり見ていなかったので、ザーッと見ていたら、ちょっとびっくりする見出しがありました(8月27日、日経)。
よく読んでみたら、アフリカの成長を助けて、その成長を取り込もうということでした。まあそれなら一応許しますけど・・・
アフリカの人は別に、日本人に取り込まれるほど愚かではないです。
あえて言わせてもらえれば、日経の記事・社説からは時々こういう無神経というか無知蒙昧な印象を受けます・・・
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粕谷の予定三つ(8月、9月、10月)
○8月27日12時~13時半、於富山県南砺市「ヘリオス」。スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド、サハラ・ハルガン・ワークショップ司会です。みなさん来てくださいね! (内容のお問い合わせは粕谷まで)
○9月25日12時~15時、於東京・原宿「ぼのぼ」。シェブ=ハスニ没後22周年記念日本=アルジェリア友好100% ALGERIAN RAI MUSIC PARTY。みなさん来てくださいね! (お問い合わせは粕谷まで)
○10月15日、16日、於金沢大学角間キャンパス。日本フランス語教育学会秋季大会「金沢2016」。柳原孝敦先生の講演があります。みなさん来てくださいね!
(フランス語教育の学会なのになんでラテンアメリカ文学専門家の柳原さんが? という方は、粕谷までお問い合わせください。(^o^) )
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伝達権
唐突ですみませんが、「著作権」がどんどんやかましくなっていく一方なら、バランスをとるためにどうあっても「伝達権」droit de diffusion みたいなものを設定しないと世界平和に向かう力が衰弱してしまうと思う、と申し上げておきたく思います。
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うん、ちょっとね

Jeune Afrique2016年6月5-11日号に西洋の衣料ブランドがイスラム教徒向けファッション市場に興味を持っている、という記事を載せていましたが、今日(6月11日)の日経一面に「イスラム女性のファッションリーダー デザイナー ハナ・タジマ・シンプソン」という記事が載りました。
この方はJeune Afriqueの記事にも載っています。
Jeune Afiqueの方は彼女の「作品」のカラー写真は載っていますが(四つある写真の右上のものです)彼女自身の写真はありません。日経は彼女(日英混血の方でイスラム教徒になられたのは18歳だそうです)の白黒の写真はありますが作品は後ろにひとつ見えるだけです。
イスラム教が肯定的なイメージでとらえられるのは喜ばしいことではありますが、日経5面の関連記事で「『ムスリム向け』眠る商機」とか言われると、ちょっとひっかかります。
うん、ちょっとね。
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移民
「現代ヨーロッパ社会論」のために。
世界の有為の若者の自己実現は手助けしなければならない。ならば経済先進国が発展途上国の「優秀な留学生」を移民として受け入れてその能力を生かせる場を提供するというのは、正しい。だがそれだけだと発展途上国は有為の人材を失い続けいつまで経っても途上国のままとなる。
先進国で成功し、故国に多大な援助をするという例はたくさんある。しかし、それは経済的成功者の「リア充」自慢ということになって、逆境の中でなんらかの精神論をよすがにしないと生きていられない地元のひとたちの反発を招いてしまい、うまく機能しない。
先進国と途上国の格差は固定されたまま、歴史の終わりまでいくのか。
それでは人間はあまりに愚か、ということになろう。天の意に沿わぬ、と言ってもいい。
世界の「だいたいの」平等(完全な平準化など、目指すものではない)がなりたった状況から「逆算して」考えてみてはどうだろうか。
少なくともそうすれば、目の前のひとにへいこらすることもないし上から目線になることもないだろう。自然体でいられるだろう。
それにしてもすべてを金銭が支配していることが問題だ。スタンダールが二十一世紀に再来したなら:
La brève campagne de Waterloo leur a coûté, à elle seule, un milliard de francs. Pikéty
とでも書くだろう。"leur"ってもちろんイギリスの上流階級、la noble Angleterre のことだ・・・
ロンドンのシティは二十一世紀にもまだ崩壊していないから、『赤と黒』はまぎれもなく現代小説である。
金銭は、金銭を究極まで追求することで克服するか、あるいはバランスをとる原理を対置することを考えるか。それともそれは同じことなのか。
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フェラ・クティは、みんなが知っておくように努力しておいた方がいい、と思います
問題のフェラ・クティを知らなかったフジテレビ事件(←こういうの割と早く消えてしまうと思うので、消えたらもっと恒常的なサイトに差し替えますが)。
なにはともあれ、わたしはいま日本にいる人たちはどこかでフェラ・クティのことを知る機会が持てるように努力しておいた方がよいと思います。
「知ろうと思う人はなんとかして知るはずであり、とくにみな――というのが難しければできるだけ多数――が知るように、『知っている』わたしやあなたが努力するというような必要はない」というのは、ちょっと「のんきすぎる」と思います。現代の資本主義社会はそんな牧歌的なものではありません。
「世界のすべての音楽を知る機会がもてるわけがないではないですか」というのは、一見もっともな反論ではあるのですが、それではというので何もしなければ・・・ 音楽の世界に限定するならば、強力な広報の力を持っている地元日本の音楽(と韓国あたり)とアメリカを中心とする西洋発信の音楽、および「教養」の世界を押さえている西洋古典音楽(日本ではこれを「クラシック」と言っているわけですが、この言い方は危険なのでわたしは採用していません。たしかに世界音楽のメインストリームのクラシックclassicではあるんですが)以外の音楽は、ほとんどひとに知ってもらう機会が与えられていないと言っていい。なにより「そういうものは取るに足らないもの、遅れた文化のものよ」という「見下す」感覚が教えられ、素直で正当な評価・受容が阻まれていると言うべきです。「ほんとうなら」そんなことを思うはずのないひとたち、とくに若者たちにおいて。
そうやって「そういう音楽は聞かなくても、買わなくてもいいです。わたしたちの売っているこの音楽を買いなさい。それで喜んで、おれの感性はモダンだ、とかなんとか自己満足してなさい」というのが「業界」の本音ではないですか。
そうやってマーケットを囲い込んで独占して利潤をあげるシステムは強力ですし、資本主義的にはそれが正しいわけです。
グローバリゼーションとやらが進行して、資本主義からの逃げ道がどこにもなくなってしまい、もう音楽に関してまじめに語れる場さえどんどん消えていくというのが現状ではないですか。音楽について真面目に語ろうとする者を支える経済的基盤がなくなっていってます。
現に、世界音楽の評論家の方々は四苦八苦しているじゃありませんか。
しかし、ひとはすべての音楽のプッシュに専念できるわけもない。それはむしろ必要ないし、考えるべきでもない。
「愛」を基準にしましょう。
わが愛する「ライ」の真価は、ぜひとも多くのひとに知ってほしいと思ってます。
わたしは「ライ大好き」なので、そして愛は排他的であんまり合理的でないものなので、フェラ・クティの音楽はなぜかそんなに好きというわけではない、というのは白状しておきます。ただ聞く価値、知っておく価値がある、よい音楽であるとは思っていますが。
フェラ・クティの方は、「まず」彼を愛するひとに、その素晴らしさ、価値を多くのひとに知ってもらえるように、努力してほしいです。
ということで、あけましておめでとうございます。(^o^)
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En 1866, on a mis le feu au château... Tout fut anéanti...

小倉城が「灰じんに帰した」(そう書いてある)のは1866年か。小倉藩は、薩長に城をとられないために、自ら城を壊滅させたのだな。
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