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ホットケースマン〜USS「リトルロック」艦内展示

2025-05-02 | 軍艦

USS「リトルロック」6インチ砲ターレット内の展示、続きです。



雑に写真を撮ったせいで、砲弾ケースが半分上しか写っていなかったので、
仕方なく三枚の写真を雑合成し、なんとか全体像を復元しました。

空間が歪んでいるのは全く気のせいではありません。

クラッカージャックことブルードレス(セーラー服)の右側に、
ガルベストン級ミサイル巡洋艦が搭載していた、
5”/38二連装海軍砲の真鍮火薬ケースが展示してあります。



もう一度、5インチ38二連装砲をご覧ください。


先端にツノが2本出ているのにご注目。
これはわたしの推測ですが、雷管(点火起爆装置)だと思われます。

5インチ/38口径 海軍砲
真鍮火薬ケース


真の戦争勝利兵器である米国海軍の5インチ/38口径連装砲は、
米国の駆逐艦の標準的な主砲であり、第二次世界大戦中に建造された
USS「リトルロック」のような米国の大型軍艦の標準的な副砲でした。

火薬そのものは15ポンド(6.8kg)、
ここにある薬莢の重さは28ポンド(12.7kg)です。
見た目よりかなり重いですが、この合計19キロの薬莢を、
当時の砲員は手で扱っていました。


5インチ砲の砲塔下部をご覧ください。
この階下にある弾薬庫から砲弾と火薬が運ばれ、
砲弾昇降機が砲塔にそれらを供給します。

ちなみに、この部分は砲架が旋回すると同じ動きをします。
砲撃中、ここに立つ人は、上とシンクロして旋回することになります。

この写真の床に、赤線で囲まれた黒い部分がありますが、
砲架と共に旋回している時には、危険エリアとして立ち入り禁止となり、
中にいる装填手もそこから動かないことで安全を確保します。

また、ここには特別に強力な滑り止め加工が施されていて、
波が荒い時にも装填手が足場を保てるようになっていました。

砲弾は54ポンドと大変重いのでホイストで砲に送られますが、
火薬ケースは先ほども説明したように黒の床部分にいる者に手渡され、
そこから砲に押し上げられました。

今回ちょっとした好奇心から「5"/38使用マニュアル」を見てみたのですが、
薬莢装填マンに対する注意として、

 火薬カートリッジは、実際にトレイに装填する時以外は、
胸の近くに保持してください。

装填されている間は、砲尾ハウジングに触れないようにしてください。
砲が発射され反動が起こると、ハウジングが約15インチほど高速で後退し、
持っていたカートリッジを落としてしまう可能性があります。
このハウジング後部にいる時には反動の分間を開けて立つこと。

薬莢やコルク栓が衝撃を受けたり傷ついたりしないよう、
細心の注意を払ってください。

などという安全上の尤もな注意があるのですが、
そんな注意の中にさりげなく、

炎や飛び散る破片から、自分の体でカートリッジを保護すること!

という一文があって驚いてしまいました。
火薬の暴発は自分の身を呈して止めよってことでおk?

そして、装填の部分は、

装填:カートリッジを両手で持ち、跳ね返りを確認しながら、
ランマーシェルガードの前面にカートリッジを奥まで押し込みます。

プライマーまたはコルク栓を叩かないよう注意してください。
後退し、銃尾ハウジングから離れます。

銃尾ハウジングの後部が反動のために空いているか確認します。

「待機」の要領で別のカートリッジを用意します。

発射:銃尾機構の動作、銃の銃床への復帰、高温の薬莢の排出を確認する。
排出された薬莢が銃から完全に排出され、
スペードがトレイに落とされるまでは再装填を行わないこと。

となっております。

軍艦は、一人一人の動きは単純で簡単ですが、
その小さな動きが積み重なって目的を果たすことができます。

■ ホットケースマン

5インチ砲のマウントクルーは15人から27人が配置されていましたが、
主な役職を挙げると、

マウントキャプテン(砲架長)=砲架指揮官

ガンキャプテン(砲長)=砲架保守担当・砲手補佐

ポインター=砲架の仰角と射撃制御

トレーナー=マウントのトレイン角度制御

サイトセッター=照準器操作

信管セッター=砲弾の時限信管の時間を設定

パウダーマン=火薬ケースからプロテクターを外しトレイにセット

プロジェクタイルマン=発射体と火薬ケースをチャンバーに装填

ホットケースマン=発射後の火薬ケースを拾ってマウントから出す

サイトチェッカー=マウントが照準できているか確認


などです。

ところでこのマニュアルで初めて知った役目、それがホットケースマン。
排出した空の薬莢を処理する役目の人です。

先ほど「一人一人の役目は単純で簡単」と書きましたが、
その典型のような仕事ですね。

5"/38砲の配置では、赤丸の二人がホットケースマンです。

例のマニュアルにはこの人たちについても言及があって、

ホットケースマンの任務は、排出された空の薬莢を処理し、
新しい火薬カートリッジ、乗組員、および銃架上の、
壊れやすい固定具が高温の薬莢に接触しないようにすることである。


と、簡単だけど重要な任務だとあります。
乗りかかった船なので、ついでにこの任務についての手順も。

準備:

担当の持ち場につく際には、必ず耐炎服一式と石綿手袋を着用すること。

排出された高温のカートリッジケースをキャッチできない場合は、
体のどの部分を使ってでもそれを止める準備をしておくこと。


耐火服を着用していれば火傷を防ぐことができます。
ホットケースの停止、安全な処分の責任はあなた一人にかかっています。
決して他の乗組員に頼ってはいけません。
彼らは各自の任務で忙しくそんな時間はありません。

あー、この突き放し方、クールでいいわー。
また、火災に備える装備は以下の通り。

1. 消火用ホース 

2. フォームライトホッパー

3. 携帯用CO2消火器 (二酸化炭素ガス消火器)

4. 砂の入ったバケツ

砂は砲台の火災の消火や、戦闘中の滑りやすい甲板に撒くのに最適なので、
軍艦には標準装備されていたようですが、注意として

「砂バケツを乗組員が灰皿代わりにしないように注意してください」

とわざわざ書かれていました。
書いてないとついやっちゃうのかも。

ここでほお、と思ったのが、火災が実際に起こった時、

「上長から命令があるまでは対処してはいけない」


つまり、消火活動さえ上の指示がないとしてはいけないわけですが、
その理由は、ズバリこれ。

敵標的が残っている間は、砲撃を継続することが優先されます。

なんと、足元に火がついていても敵を倒すのが先とは。
アメリカ海軍恐るべし。

さて、ホットケースマン本来の仕事はここから始まります。

持ち場につく前に、耐火服とアスベスト手袋を着用してください。

持ち場 :

「持ち場につけ」の号令で、砲尾のやや後方左側に位置し、
銃身を上から見る。点検する。

1. 砲尾が閉じられていること
2. 砲口にTompion(プラグ?)が残っていないか
3. 砲身が汚れてないか
足を約50cmほど開き、左足を前に出して銃の方を向く。
右足を後ろに45度開き、銃身の中心を通る線に対して右斜め45度に向ける。
右手はトレーの後端の上に開いた状態で持ち、指を伸ばして上に向ける。
左腕はリラックスさせて胸の近くに置く。

これで「キャッチ」の準備が整う。

待機 :

カートリッジケースストッパーが正しい位置にあることを確認する。

ケースストッパーが正しい位置にない場合は知らせる。

装填:

装薬手はカートリッジをトレイに置く。

発射:

銃が反動し、高温の薬莢が排出されるので、
右手を覆う石綿手袋で高温の薬莢の底を掴む。
薬莢に右手を乗せて戻す。

左手を上げてホットケースを完全に保持し、
後ろに下がり、銃の班長が安全と指定した場所に投げる。

ホットケースを他の班員から遠ざけ、銃から離れた場所に投げ、
次のラウンドのポジションに前進する。

銃身を点検し、通常通り作業を続ける。

■ ネイビータイムズ シップインザスポットライト



手書きの艦内新聞みたいなものが貼ってありました。
イラストはプロの手によるものではないかと思われます。

なぜか同じミサイル巡洋艦「オクラホマシティ」CG -5についての記事で、
判読できる部分はこんな記事が書かれています。

西太平洋で最も有名な巡洋艦の長い歴史が幕を閉じる。
第二次世界大戦時の大砲型巡洋艦の最後の生き残りである
「オクラホマ・シティ」は、12月15日にサンディエゴで退役する。

1944年にフィラデルフィアの海軍工廠で軽巡洋艦として就役した後、
第3艦隊に編入され、沖縄戦の最終段階と日本への砲撃戦に参加した。

1947年に退役し、10年間 「モスボール 」で過ごした。

誘導ミサイル巡洋艦の導入に伴い、「オクラホマ・シティ」は
大規模な改造を受け、1960年にCLGに改装された。

太平洋艦隊の戦闘部隊として初めてタロス誘導ミサイルの着弾に成功し、
その後1975年にエースに再指定された。
ベトナム戦争中は沿岸の戦闘部隊の砲撃支援を行い、
ダナン近郊とチュライで海兵隊を支援した。

「オクラホマシティ」は戦争末期「フリークエントウィンド作戦」に参加し、
その際にはヘリコプターが飛行甲板に着艦し、
米国とベトナムの避難民を安全な場所に運んだ。
この行動により、彼女は功労部隊表彰を受けた。

ミサイル巡洋艦「オクラホマシティ」が退役したのは1979年。
この新聞記事はその直前に書かれたものだと思われます。

記事にもあるように、彼女は太平洋艦隊において
初めてタロスミサイルの発射に成功した戦闘部隊となりました。

ミサイル搭載艦に変更された1960年のクリスマスイブに横須賀に到着し、
第7艦隊の旗艦として、作戦優秀賞を2回受賞したほか、
極東のいくつかの都市で親善大使を務めています。

続く。





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