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海兵生徒小沢昭一~最後の兵学校生徒

2012-07-23 | 海軍

俳優、エッセイスト、俳人、歌手、そして博物館明治村の館長小沢昭一氏が、
終戦時海軍兵学校生徒であったことをご存知でしょうか。

(なぜ明治村の館長かと言うと、あそこに展示されている写真館が、
小沢氏の父上が若いとき修業した建物であるという縁からだそうです)

小沢氏は海軍兵学校78期、即ち入校してわずか4カ月で終戦を迎えた最後の海兵生徒です。

・・・・?
「先日、海軍と77の因縁についての記事で、77期を『最後の海兵生徒』といっていたじゃないか」
と思われた方、あなたの記憶力ならびに注意力は素晴らしい。
確かに、正規の海軍兵学校生徒は77期が最後の入学となりましたが、この項における
「最後の」というタイトルは、「最後に海軍兵学校に入学することを許された学年」という意味です。



新人物往来社から出版された「江田島海軍兵学校」という本には、
写真家真継不二夫氏の兵学校の写真、娘の美沙さんによる海上自衛隊の写真と、
実に見応えのある写真の数々が掲載されているのですが、巻末の「資料編」、
海軍兵学校生徒卒業者、というコーナーを見ると、各期の代表的な軍人―山本権兵衛に始まり、
広瀬武夫、山口多聞、源田実、野中五郎、関行男が挙げられた顔写真の最後に、
なぜかこの小沢生徒の写真が・・・・・。

78期には財界、政界、文学、音楽、その他戦後有名になった人物がいます。
それもそのはず、なんとこの期の生徒数は4062名。

この学年が正規学生ではなく、
「いずれ正規学生になる予定で、基礎学習を済ませておくべく早めに入学した予科学生」
であるということは「帝国海軍と七十七」という項で説明しました。

従来、兵学校は旧制中学の4年、あるいは5年から進むものでしたが、
戦争が熾烈さを増すとともに中学校の就業年限が4年になり、
兵学校も4年生から3年となり、しかも2年半で繰り上げ卒業、というような事態になりました。
そして兵学校は終戦直前には採用年齢を下げ、中学二年修了程度から採用をすることにし、
これを新しく海軍兵学校予科生徒としたのです。

78期生徒は最初で最後の予科生徒として、終戦後の10月、卒業資格を得ています。
兵学校生徒にしては幼く見える小沢生徒、なんとこの時16歳だったのです。

この78期募集に対しては全国から2万人を超す応募がありました。
戦況が苛烈で色々な日本不利の情報は、はっきりとでは無くても、
中学生にもじゅうぶんに察せられたと思われるのですが、なんと言っても、

「どうせ徴兵に取られるのなら海軍士官となって戦地に行った方がましかもしれない」


と考えた優秀な青少年が多かったということでしょうし、やはり時勢、多くの若者が

「国のために戦う」

ということを当然のこととして「尽忠報国」に突き動かされたからこそのこの数字でしょう。

小沢少年もまた熱心な愛国少年でした。
小さいころから「大きくなったら兵隊さんになる」と決め、軍艦カードで遊んできた少年は、
麻布中学に受験勧誘に現れた先輩兵学校生徒の短剣姿に胸をときめかせ、
朝日新聞連載の岩田豊雄作「海軍」の世界に憧れ、そして、重大動機のひとつは

海軍士官は、ことに兵学校生徒は女にもてた

ことであった、ということも正直に告白しています。

紺のホック留めのジャケットが腰でピタッとしまって、そこに金色の短剣、そして白手袋。
日本中がずだ袋を被って暮らしているような時代に、あれはカッコ良すぎて、
誰が着ても「MMK」(モテてモテて困る)だった。
(「わた史発掘」小沢昭一著より)

毎日合格を願い眠れぬ夜を過ごし、郵便局まで合格通知の到着を待って通い、
その結果合格を知ったとき、天にも昇る心地であった小沢少年。
しかし、実際に入校して、厳しい課業の日々を過ごすうち、どころか実際は入学直後に

しまった!えらいところへ来てしまった
―大失敗だった―間もなく死ぬんだなあ―死ぬのは怖い!


と急に突然、思い始めてしまったのでした。

一瞬の気の休まる間もない訓練、江田島ではなく防府分校の急ごしらえ校舎の
(針生分校よりさらに設備は劣っていたと言われる)ノミ・シラミ、得体の知れない皮膚病を始め
赤痢や流行性脳炎すら発生する衛生環境の悪さで入院患者続出。
そんな中で毎日のように米軍艦載機の来襲を受け、のべつ裏山に逃げ込む毎日。


兵学校で過ごした生徒と一口で言っても、4年間を空襲の無い江田島で過ごした者と、
小沢生徒のような末期的最悪な環境で過ごした者の間には、はっきり言って海軍、そして戦争、
そこに軍人として身を投じて行くことに対する心構えからして全く違っていて当然と思われます。

案の定、入校して4カ月目の夏、兵学校で終戦の勅を聞いた小沢生徒は、
地面を拳で叩いて号泣する教官を横目で見ながら「シメタ!」としか思わなかったそうです。

それも当然で、「陸軍に行くのがいや」「徴兵はもっといや」「海軍はモテるから」という理由で
大量採用の海軍士官採用に応募したと言うだけの16歳の健康な少年が、
上記のような環境の中でもまだ「国に命を捧げること」を本望と心から思えるか。
無理です。

おそらく、78期生徒の誰一人として、そのような覚悟や使命感など持たぬまま、
あれよあれよと戦争が終わって行くのを見ていた、というのが本当のところではないでしょうか。

小沢昭一は、この体験から戦後はっきりとした「軍嫌い」となります。
例えば78期、小沢氏の同期生氏家睦夫氏は戦後、兵学校在学時を追想する本を出版し、そこに

最も暗澹たるべき敗戦前の五カ月の兵学校生活のそこだけが
ぽっかりのぞいた青空のように
懐かしく思いだされるのはなぜだろうか。
一身の栄達も利害の打算も無く、ただひたすらに厳しい規律の中で
自己の能力の限界を
とことんまで鍛え抜くと言った純粋さと、
たとえ自分は捨てても自己以外の他人、ひいては
祖国のために
よりよい自己を形成しようとする人間の美しさがあった


と記しているのですが、これに対する小沢氏の感慨は

「人それぞれの想いでとらえられてしかるべき」

としながらも

「私にとってはどんより曇った灰色の空のように重苦しく思いだされる」


小沢氏にとって兵学校を選び、職業軍人への道を踏み出したこと自体がつまり
「戦争に行って罪を犯していたかもしれない」という、犯さざる罪、即ち
「一生抱えて行く後ろめたさ」となってしまったのでした。

かくして戦後の小沢氏は徹底した反戦、反国体の思想に傾倒したようです。
昭和51年の国会で当時の福田赳夫首相

「教育勅語はこれからも生かして行かねばならない正しい人間の道」


と発言し、それを野党から反論された際

「父母や兄弟への愛、夫婦相和し朋友相信じてどこが悪いのか」

と言ったことを

(福田首相はこう)居直った。正体見たりである。

と著書で言っています。
つまり、教育勅語に書かれているもっともらしいこと全て、最後の文章

「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」
(非常事態には、国の平和と安全に奉仕しなければならない)

これを強制するための「地ならし」に過ぎない、騙されるな、というのが小沢氏の考えです。

戦後、左翼が教育勅語を目の敵にした、最も核心といわれる部分もここで、
「戦争があれば天皇のために命を捧げるべし」
と解釈したためのGHQによる「教育勅語廃止」理由の根本と言うべき問題の部分なのですが、
教育勅語ができた時代の流れを冷静に考えると

「徳川家や主家に対して忠誠を尽くしていた時代は終わった。
これからは国家に忠誠を尽くしなさい」


という、当たり前といえば当たり前
のことを言っているとわたしは思います。

小沢氏はなまじ中途半端に暗部を覗き見て、そこで終わってしまった「軍体験」から、
むしろ極端な「反国家意識」が呼び覚まされてしまったように思えます。

そして、この傾向はいわゆる「アプレ・ゲ―ル」に始まって「団塊左翼」へとつながる共通の、
「国家に対して自分を奉仕するのは馬鹿」→「天皇制反対」の思想と同じです。

「国の安全と平和に公的な奉仕をすることを奨める」ことのどこが
「正体見たり」とまで言い募らなくてはならないことか、若干理解に苦しむのですが・・・。

小沢氏はここで
「そんなこと(教育勅語の中身)はあんたに言われなくたっていい、
そんなことは『民』が『主』になって『自由』に考え、得心するものです。
それが、あの時、我々の父や兄の命と引きかえに得た民主主義と言うものでしょう」
「(福田内閣は)東条内閣とものの考え方においてほとんど変わりはない」

などと言っていますが、うーん・・・・。

民が主になって、自分で道徳や社会規範を自由に考え、得心することを皆が選んだ結果、
今の日本人はどうなってしまったと思います?
小沢氏、現在80を過ぎてご健在のようですが、皆が『私の自由』ばかりを要求して
経済ばかり優先した揚句バブルに踊り、その後、今の体たらくに陥った日本を、
どうご覧になるのか、ぜひ、氏に聞いてみたい気がします。

兵学校78期であった人物の中には、前にも話したことのある「火垂るの墓」の音楽を担当した
作曲家の間宮芳生、漫画家の佃公彦、小説家の佐野洋、などがいますが、
「オレンジ共済事件」で悪名高かった、政治家でオレンジ共済組合理事長、友部達夫
先日亡くなった電通の帝王、成田豊(朝鮮京城中出身、異常な最近のメディアでの
韓国押しの張本人と言われる)、これらの人物もまた78期在籍組です。


それにしても、海軍は敗戦も明らかになってきた昭和20年になって、
なぜ4000人もの兵学校生徒を集めることにしたのか。
全てこれらの人員を使い捨てのように消費するつもりだったのか。

当時、戦争を終結させたがっていたのは海軍の上層部でした。
このことからも、この「鉄砲玉養成」としての大人数採用説は、あたっていないと思います。


実は、既に敗戦を予期していた海軍は、勤労動員中の中学生を4千名も集めることで、
敗戦後の日本のための学業専一の教育をしたのだと言われています。

ここで考えを当時の日本軍の状況にやれば、そこには戦うべき船も、飛行機も、
その材料の鉄さえも、何にも無かったのです。
なのに海軍は4千名もの若者を集めた。
これは海軍の予算で、将来の日本の人材を確保しておこうとする考えだったというのです。

戦後、最後の兵学校副校長、大西新蔵中将が、このように語ったそうです。

「つまり、(4千名もの募集は)敗戦後に向けたものだった。
だから精神主義的教育はできるだけ排した。
最後まで伸び伸びとした教育を続けることができた」

終戦工作を続けた鈴木貫太郎が、当時の校長であった井上成美にこう言いました。

「井上君、兵学校教育の効果があらわれるのは二十年後だよ。
いいか、二十年後だよ」

二十年後の日本のために残す人材として、海軍が自分たちを集めたことを、
4026名のうち何人が知ったかはわかりません。
必ずしもその真意を理解して戦後の日本に貢献した生徒ばかりではなかったでしょう。

しかし、彼ら自身が恩義に思おうと、逆に国家に嫌悪すら抱こうと、終戦に際して、
海軍が、彼らに日本をこれからも存続させていくために働いてほしいという
「望みをかけた」、これだけは確かなのです。








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