
前回、「リトルロック」6インチ砲塔内の展示から、
セーラー服=クラッカージャックにまつわることをお話ししました。

今日はその展示コーナーの続きからです。

セーラー服=クラッカージャックにまつわることをお話ししました。

今日はその展示コーナーの続きからです。

手作りの冊子は、砲塔メンバーの有志による作成で、
ターレット1
時代の終わり
ターレット1の記録
1977年12月〜1978年7月27日
ターレット1
時代の終わり
ターレット1の記録
1977年12月〜1978年7月27日
とあります。
この頃には「リトルロック」はすでにミサイル搭載艦として、
収益を終えていました。
就役最終の彼女の任務は、ヨーロッパ遠征。
1976年、レバノン内戦中のベイルートから米国市民の避難を支援するため、
この頃には「リトルロック」はすでにミサイル搭載艦として、
収益を終えていました。
就役最終の彼女の任務は、ヨーロッパ遠征。
1976年、レバノン内戦中のベイルートから米国市民の避難を支援するため、
レバノンへの派遣を命じられ、他の第6艦隊の艦艇とともに、
在レバノンアメリカ国民279人の避難を支援する任務を行いました。
ガエタから最後の出航を行い、本国に戻った「リトルロック」は、
バージニア州ヨークタウンの海軍兵器基地に一時的に停泊し、
兵器の積み下ろしを行ったのち、フィラデルフィア海軍基地に到着。
同年11月22日に退役しているのです。
この「ターレット1の記録」が何を記録しているのかわかりませんが、
時期的に「リトルロック」はすべての書類手続きを完了し、
1977年の7月15日にここバッファローネイバルパークに正式に譲渡され、
博物艦として準備の真っ最中だった頃ということになります。
おそらく、展示の準備のための記録なのだろうと思われます。
ガエタから最後の出航を行い、本国に戻った「リトルロック」は、
バージニア州ヨークタウンの海軍兵器基地に一時的に停泊し、
兵器の積み下ろしを行ったのち、フィラデルフィア海軍基地に到着。
同年11月22日に退役しているのです。
この「ターレット1の記録」が何を記録しているのかわかりませんが、
時期的に「リトルロック」はすべての書類手続きを完了し、
1977年の7月15日にここバッファローネイバルパークに正式に譲渡され、
博物艦として準備の真っ最中だった頃ということになります。
おそらく、展示の準備のための記録なのだろうと思われます。
■ ラスト・サルボ(LAST SALVO)


手前に広げてある雑誌の1ページは、おそらく
「リトルロック」艦上での一コマだと思われます。
「リトルロック」艦上での一コマだと思われます。
「Surface Warfare」
は水上戦の意味ですが、大佐と水兵が揚げている旗の意味がわかりません。
国際信号旗にこのようなものはないのですが・・・。
国際信号旗にこのようなものはないのですが・・・。

手前の雑誌には、この展示がされているまさにその、
「リトルロック」の最後のターレットのことが書かれています。
何度か書いているように、「リトルロック」は巡洋艦時代、
前後に2基ずつ合計4基の6インチ47砲を装備していましたが、
タロスミサイルが搭載されてミサイル艦になってからは、
前方の一つだけが残され、退役までそのままでした。
この記事は、その一つ残された6インチ砲について
「LAST SALVO」(最後の砲撃)
という見出しで語っているものです。
そしてその最後の砲撃をしている艦は、USS「オクラホマシティ」(CG5)。
USS「オクラホマシティ」(CG 5)が3連装砲を発射。
この誘導ミサイル巡洋艦は、艦隊決戦効率コンテストで
ガンネリー「E」を獲得した。
この誘導ミサイル巡洋艦は、艦隊決戦効率コンテストで
ガンネリー「E」を獲得した。
とキャプションが添えられています。
ガンナリー「E」は軍艦艦橋の外側に並べられ、
その艦がいかに優れているかを表すマークの一つです。
文字が判読できるところからなんとか内容を類推したところ、
それはこの第1砲塔勤務だったクルーたちが、現役を退いたあと、
この砲塔を展示に残すためやったことが書かれているようです。
また、GMC1オッテンは言う。
「これが艦隊最後の砲塔であることも重要でした。
私たちはその誇りを感じていました。
俺たちは6インチ砲手の仲間だ、俺たちは砲塔の男だと」
彼は自信を持っていた。
プロジェクトについてクルーに話す前に、
俺たちは6インチ砲手の仲間だ、俺たちは砲塔の男だと」
彼は自信を持っていた。
プロジェクトについてクルーに話す前に、
ちょっとしたメモを作り始めた彼は、
「あれも必要、これも必要、これも必要......」
と考えながら砲塔の周りを歩き回った。
GMG3ギャビンは彼らのその時の様子をよく覚えている。
「私たちは、それをきれいにして、
本当に見栄えのするものにしたかったのです」
「あれも必要、これも必要、これも必要......」
と考えながら砲塔の周りを歩き回った。
GMG3ギャビンは彼らのその時の様子をよく覚えている。
「私たちは、それをきれいにして、
本当に見栄えのするものにしたかったのです」
■ テキサン・ネイビー

大砲のミニチュア(多分本物ではないでしょう)
中世の頃、帆船が載せていた砲に似ている気がします。

そして、砲の左側にあるのは、これ。
一つ星=ローンスターをシンボルとするテキサス州の海軍旗なのです。
テキサスというアメリカの州が、メキシコの州とともにかつて独立して
テキサス共和国という一国を築いていたことをご存知でしょうか。

テキサス共和国 初代大統領サム・ヒューストン

ヒューストンが戦ったメキシコ軍の司令
アントニオ・カルロス・ド・サンタ・アナ将軍
(どちらも地名になっていることに注意)
テキサス共和国は1836年から1845年とわずか9年しか存在しませんでしたが、
独立国家を作っていたことは、テキサス人に現在も
強い独立心と郷土愛を保たせている理由のような気がします。

ヒューストンが戦ったメキシコ軍の司令
アントニオ・カルロス・ド・サンタ・アナ将軍
(どちらも地名になっていることに注意)
テキサス共和国は1836年から1845年とわずか9年しか存在しませんでしたが、
独立国家を作っていたことは、テキサス人に現在も
強い独立心と郷土愛を保たせている理由のような気がします。
で、テキサス海軍なのですが、テキサス共和国は独立国家なので、
当然ながら独自の憲法のもと、国軍も保持していたわけです。
正式名称はテキサス共和国海軍、通称はセカンドテキサスネイビー。
1835年11月にテキサス革命で中央集権的なメキシコ共和国から独立し、
テキサス共和国は1836年9月に正式に軍を設立しました。
この時に制定されたのがテキサスネイビーの旗です。
海軍始めテキサス軍はもちろんテキサス革命時、作戦に加わっており、
1、メキシコ海軍の侵攻から海岸線を防衛
2、アメリカとの間でヘイト物資を輸送する
3、テキサス独立を勝ち取るためのメキシコ軍との戦い
を目標に掲げていました。
当初のテキサス海軍の装備は、
「Liberty リバティ」
「Invincible インヴィンシブル」
海軍始めテキサス軍はもちろんテキサス革命時、作戦に加わっており、
1、メキシコ海軍の侵攻から海岸線を防衛
2、アメリカとの間でヘイト物資を輸送する
3、テキサス独立を勝ち取るためのメキシコ軍との戦い
を目標に掲げていました。
当初のテキサス海軍の装備は、
「Liberty リバティ」
「Invincible インヴィンシブル」
「Brutus ブルータス」
「Independence インディペンデンス」
4隻のテキサン・スクーナーで構成されていました。
4隻ともテキサス海軍が終焉を迎える頃には座礁や鹵獲で失われています。
「Independence インディペンデンス」
4隻のテキサン・スクーナーで構成されていました。
4隻ともテキサス海軍が終焉を迎える頃には座礁や鹵獲で失われています。
■ その後のテキサス海軍
テキサス州第一海軍大隊1948~
First Naval Battalion
テキサス州がアメリカの28番目の州として併合された時、
同時にテキサス海軍もなくなったわけですが、
第二次世界大戦ではメキシコ湾で(今後は”アメリカ湾”になる予定)
First Naval Battalion
テキサス州がアメリカの28番目の州として併合された時、
同時にテキサス海軍もなくなったわけですが、
第二次世界大戦ではメキシコ湾で(今後は”アメリカ湾”になる予定)
Uボート24隻が70隻の船を攻撃し、そのうち56隻が沈没したことを受け、
州兵第一海軍大隊が1948年に正式に発足しました。
しかし、これはその後に続かず(勢いとノリで作ったせい?)結局、
ディーゼルエンジンのヨット「サモリア号」が、
州兵第一海軍大隊が1948年に正式に発足しました。
しかし、これはその後に続かず(勢いとノリで作ったせい?)結局、
ディーゼルエンジンのヨット「サモリア号」が、
最初で最後の第一海軍大隊の所属船となりました。
第三テキサス海軍
Third Texas Navy 1958~
おそらく、アメリカ人は皆歴史の時間に習うであろう、
「干潟論争」というアメリカとテキサス州間の領土所有権論争があります。
干潮時に海岸線から3リーグ沖までの所有権を争った問題で、
ただの干潟ならともかく、そこに石油が出たから話が大きくなったのです。
結論から言うと、勝訴したのはテキサス州だったのですが、
この問題で非常にきな臭い空気が流れている中、
テキサス州最高司令官プライス・ダニエルは、
1958年にあらためてテキサス海軍設立を決定したのです。
第三テキサス海軍
Third Texas Navy 1958~
おそらく、アメリカ人は皆歴史の時間に習うであろう、
「干潟論争」というアメリカとテキサス州間の領土所有権論争があります。
干潮時に海岸線から3リーグ沖までの所有権を争った問題で、
ただの干潟ならともかく、そこに石油が出たから話が大きくなったのです。
結論から言うと、勝訴したのはテキサス州だったのですが、
この問題で非常にきな臭い空気が流れている中、
テキサス州最高司令官プライス・ダニエルは、
1958年にあらためてテキサス海軍設立を決定したのです。
このときプライスは、海軍設立の意義について
「テキサス海軍の記憶と伝統は、合法的なあらゆる手段で
州の権利と境界を守り続ける意思のあるテキサス市民によって
最も適正に、正しく受け継がれていく」
「テキサス海軍の記憶と伝統は、合法的なあらゆる手段で
州の権利と境界を守り続ける意思のあるテキサス市民によって
最も適正に、正しく受け継がれていく」
と語りました。
歴史的にこれはテキサスの3つ目の海軍となったため、それがそのまま、
「サード・テキサス・ネイビー」と言う名称になりました。
多分に精神論的、愛国心発揚を目的とした海軍結成であったため、
サードネイビーはテキサス軍部の指揮系統には属さず、
しかも活動の憲章に類するものも持っていませんでした。
つまりは歴史記念的な社交クラブというか、儀礼クラブという位置付けです。
歴史的にこれはテキサスの3つ目の海軍となったため、それがそのまま、
「サード・テキサス・ネイビー」と言う名称になりました。
多分に精神論的、愛国心発揚を目的とした海軍結成であったため、
サードネイビーはテキサス軍部の指揮系統には属さず、
しかも活動の憲章に類するものも持っていませんでした。
つまりは歴史記念的な社交クラブというか、儀礼クラブという位置付けです。
プライス・ダニエルという民主党の議員は、これをもって、
テキサス州が永続的に沿岸の水面下の土地と、
テキサス州が永続的に沿岸の水面下の土地と、
その場所での鉱物採掘権を得る、という、多大な功績を成し遂げました。
このことは精神的な勝利だけでなく、実際に州に利益、
具体的にはテキサス州の学校に数十億ドルをもたらします。
このことは精神的な勝利だけでなく、実際に州に利益、
具体的にはテキサス州の学校に数十億ドルをもたらします。
ちなみにこの干潟論争は当時の大統領選の論点にもなりました。
この年の大統領選の選挙キャンペーンで
テキサス州の所有権を支持したアイゼンハワーは、
州民の圧倒的な支持を得て、テキサス州を勝ち取ることになります。
この時のアイゼンハワーの州所有権を推す理由とは、
「テキサス併合協定によってテキサスには権利が与えられている」
この年の大統領選の選挙キャンペーンで
テキサス州の所有権を支持したアイゼンハワーは、
州民の圧倒的な支持を得て、テキサス州を勝ち取ることになります。
この時のアイゼンハワーの州所有権を推す理由とは、
「テキサス併合協定によってテキサスには権利が与えられている」
というものでした。
この時の対立候補は民主党のスティーブンソンでしたが、
テキサス州の民主党大会は、全党員アイゼンハワーに投票を決めました。
この時の対立候補は民主党のスティーブンソンでしたが、
テキサス州の民主党大会は、全党員アイゼンハワーに投票を決めました。
■ 現在のテキサス海軍
タイダルランド論争は1960年6月1日に決着しましたが、
第3テキサス海軍は社交クラブとして活動を続けることになります。
1970年、本部はガルベストンに移転し、
1972年10月には、ボブ・ブロック州務長官により、名称を
テキサス海軍協会
TeXas Navy Association
と改称し、非営利団体として認可されることになりました。
1973年には、第63回テキサス州議会が、
「テキサス海軍協会はテキサス海軍の運営に関する公式の統治機関である」
と決議し、テキサス海軍協会は現在も運営されています。
現在協会は、テキサン海軍と第2テキサス海軍の歴史を記念する
社交クラブおよび儀礼クラブとして活動を続けています。
本部はヒューストン・ヨット・クラブに置かれ、毎年提督舞踏会が開催され、
タイダルランド論争は1960年6月1日に決着しましたが、
第3テキサス海軍は社交クラブとして活動を続けることになります。
1970年、本部はガルベストンに移転し、
1972年10月には、ボブ・ブロック州務長官により、名称を
テキサス海軍協会
TeXas Navy Association
と改称し、非営利団体として認可されることになりました。
1973年には、第63回テキサス州議会が、
「テキサス海軍協会はテキサス海軍の運営に関する公式の統治機関である」
と決議し、テキサス海軍協会は現在も運営されています。
現在協会は、テキサン海軍と第2テキサス海軍の歴史を記念する
社交クラブおよび儀礼クラブとして活動を続けています。
本部はヒューストン・ヨット・クラブに置かれ、毎年提督舞踏会が開催され、
知事がサンジャシント記念塔(サンジャシントの戦い記念)で、
「テキサス海軍艦隊」を閲兵します。
「テキサス海軍艦隊」を閲兵します。
テキサスの人って、よく「United States of Texas」とか「Texas and others」って言いますもんね(笑)