ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

薫空挺隊~高砂義勇隊の戦士たち

2012-07-11 | 陸軍

彫りの深い顔。意志的に結んだ口許。
力強い眼差しは何を見つめているのでしょうか。
肩に下げた不思議な形の刀は彼ら高砂族独自の武器。
彼らは日本人として戦い、そしてその命を賭して空挺特攻を行いました。

台湾が日本の植民地になったのは、1895年のことです。
当時の台湾は「化外の地」とまで言われた文明未開の地で、日本の接収に対しては住民はじめ
在台清国官兵といたるところで反抗がありました。
激戦すらあったこのような抵抗を平定後、日本政府はまずマラリヤの駆除に始まり、
台湾の治安維持、次いで教育、通信始めインフラ整備を進め、近代化を推し進めました。

このお正月に台湾旅行をしたときに感じた「台湾人の精神形成の基となっているのは、
もしかした教育勅語ではないのか」という仮定を述べてみたことがあります。

その後、このような本を見つけました。
「嗚呼大東亜戦争」 鄭春河、元皇民 上杉重雄著

驚くべき正確な日本語で切々と、日本の統治の正しさと、大東亜戦争の意義、
そして戦後の日本―ただ自虐史観に塗れ、精神の輝きを失ってしまった日本に、
もと日本人として、振り絞らんばかりの哀切の気持ちと叱咤をこめて苦言を呈している労作でした。

この本については、また稿を別に是非お話したいのですが、ここで鄭氏は、こう断言します。


日本政府は異族台湾人民を日本国並みに育て上げようと努力したことは
世界史上その例を見ない。

特筆すべきは日本人の精神生活の原点である教育勅語を徹底的に普及したことである。
我々は誠実にそれを信仰し実践した。


おそらくそうであろうと考えていたことが、現に統治下の日本国民であった台湾人によって
このように記されていたことに、わたしは強く感動を覚えました。
昭和16年に台湾で志願兵制度が導入されたとき、当時600万人足らずの人口であった台湾の
青年のうち45万人が、1000人の募集人員に対して殺到し志願しました。

このことについて、鄭氏はこう記します。

たまたまシナ事変から大東亜戦争となり、義勇奉公の時がきた。
そして時こそ今とばかり争って、陸海軍軍人軍属を志願した。
このように植民地台湾の青少年が、祖国日本のために従容として死地に投ずることが
できたのは
教育勅語の薫陶に依る外ならない。


「ほれだから教育勅語は廃止して正解だったのだ。軍靴の足音がどうしたこうした」

とサヨクな日教組などが鬼の首でも取ったように騒ぎだしそうな文言ではありますが、
戦争を起こすことと、国を守るために起こってしまった戦争に志願することの間には、
全くベクトルの違う論理が生ずるのであって・・・・・まあ、連中にはわからんでしょうが。

因みに、鄭氏はこうも言っています。

既に半世紀、教育勅語が今もなお台湾に脈々として生き続けているのも、
台湾教育五十年の成果であった。


台湾には政府の認定するだけで14の原住民がおり、その中に今日お話しする高砂族がいます。
この部族の名前も、日本が統治してから、正式な分類が始められ、命名したのも日本です。
国を統治するにあたって、異なる民族間の共通語などを制定し、日本語をも教えたのです。

クリント・イーストウッド作品、「グラン・トリノ」(名作です)には、台湾の部族の一つ、
サオ族の家族と、引退した頑固爺さん(クリント)の触れあいが描かれていましたね。

高砂族ばかり140人、それに日本人の士官、下士官、衛生の特技者を加えた特殊部隊が
レイテに上陸した敵航空の活動を抑えるために投入されたのは昭和18年12月24日のことです。

彼らは伝統的にジャングルの中の自活と戦闘法を祖先以来受け次いで来ており、
首狩りの風習さえ持っていた戦闘部族でもありました。
また、夜目が利き、素足で音もなく暗闇を駆けまわることができる身体能力は勿論のこと、
野草の食べ方や野宿の方法、全てに渡って「都会人」で構成された日本人士官下士官の
助けになったということです。

しかし、高砂族の部隊が実際に作戦決行後、どのような働きをし、あるいはどのように
死んでいったのか、全く資料が残っていないのが現状です。

昭和19年の11月の時点で、フィリピン駐在の大使が寺内総司令官から聞いた話として、
高砂部隊は爆弾を背負って敵中に突入する特攻部隊であるということが書かれているものの、
そこでどのような訓練が行われていたのかも、その文章(日記)には記されていないそうです。

11月22日、「薫空挺部隊」と名付けられたこの部隊を、
ブラウエン飛行場に強行着陸させるという作戦が下命されました。
作戦名は「義号作戦」。決行は4日後の26日です。

中重夫中尉以下40数名の薫空挺隊員は、輸送機でブラウエンに向かいました。
しかしながら、彼らの足取りがつかめているのはここまで。

この日の深夜零時、軍司令部が東方の山系を望むと、盛んに火の手が上がっているのが
見えたと言うことですし、さらに一時間後、ブラウエン上空に偵察機が侵入したところ、
いつもは撃ってくるはずの激しい対空砲火が全くなかったそうです。

これをもって彼らがブラウエン飛行場に着陸成功し、対空砲火も撃てないほどのダメージを
この部隊に対して与えた、と断定することはできませんが、米軍の記録では、
近隣の海岸付近に飛行機が二機着陸し、乗員はそのまま闇の中に消えて行った、
というものがあるそうです。

しかし、この乗員たちがその後どんな働きをしたかも、今では明らかではありません。

高砂義勇隊は7度にわたって編成され、合計1,800-4,000名の原住民が参加したとされます。
以前お伝えした、陸軍のパレンバン空挺作戦、海軍のメナド空挺作戦においても、
その成功には高砂義勇隊の力が大であったと言われています。

彼らは、先祖伝来の蕃刀でジャングルを切り開き、日本人よりも死を恐れず、
軍属でありながら軍人のように戦って、そして死んでいきました。


ここからが問題です。
戦後、台湾が日本ではなくなってから、日本政府は台湾人を戦後補償の対象から外してしまいました。
元軍人・軍属やその遺族に対して障害年金、遺族年金、恩給、弔慰金、
また戦争中の未払い給与、軍事郵便貯金等の支払いを一切行わなかったのです。

しかも、彼らは戦後「日本への協力者」として中華民国政府から厳しく扱われることになります。



今、韓国が、戦中日本軍に連行された慰安婦の数を、20万人(笑)と決定し、
日韓条約で既に決着済みの賠償を日本にさせるため、主にアメリカで運動しているそうです。

軍関与の証拠は全く無く、彼女らは民間の業者に親によって売られた、というのが実態ですが、
日本政府は「国の強制徴収ではなかった」という証拠が出せないまま、裏取引に応じてしまい、出してはいけない「河野談話」を出すことで相手にカードを与えてしまいました。

これを嵩にきて、今、韓国は次々と、国内やアメリカに「慰安婦の像」を建て、韓国政府は
「これ以上建てられたくなかったら」と恐喝までして、さらなる謝罪を要求してきています。
公式にはそれを拒否しながらも「道義的に計らう」などと、恐喝に屈してかあるいは別の理由か、
いずれにせよたわけたことを言う政治家が、この日本にはいるからでしょう。

証言もはっきりしない、年齢も整合性のとれない自称「慰安婦」、即ち売春婦です。
こんなものに払うお金があれば、日本は高砂義勇軍の生存者や遺族への補償をするべきです。

強く出るもの、声の大きなものには、たとえそれが真実でなくても腰をかがめ、
立場の弱い(台湾とは国交が無い)者にはあくまでも高姿勢で接し、見てみぬふりをする。

いつから日本はこんな卑怯な国になったのでしょうか。


そう、卑怯な、そして自虐で卑屈な国になってしまった戦後の日本。
前述の鄭氏は、はっきりこう言いきっています。

台湾近代化は日本統治50年の成果である。

しかも、戦後の腰ぬけ日本に対して鄭氏は

今こそ異国民ではあるが、当時大東亜戦争を共に闘った台湾の我々は殊更に絶叫する。
一、当時の祖国日本はそんな国ではなかった。
二、我々は侵略戦争に参加した覚えが無い。

そして、現代の日本人に対しては

明日の日本を担われる皆さんの責任は重大であることを自覚して、
祖国日本の現在を再確認し、日本国民としてどうあるべきか、
さらには歴史の真実を探求して、大東亜戦争を観直してください。

そして、心理改革、教育改革につくしてください。
同時に日教組を消滅させ、すみやかに教育勅語を復活して失われた日本精神
(大和魂)を
取り戻して下さい。

一旦緩急のときは民族の誇りにかけて祖国日本をお護りください。


高砂義勇隊の崇高なる犠牲に、戦中戦後を通して全く報いることをしなかった、日本と言う国。
烈々たる激しさで、しかし愛を以て日本を叱咤する鄭氏のような「元日本人」に対しても、
こんな日本では、到底顔向けなどできないとさえ思うのです。

にもかかわらず、台湾の人々は今や日本を許してくれている。
地震の後台湾から送られた世界一多い寄付金は、彼らの気持ちの表れだと思ってもいいでしょうか。
だとすれば、我々のすべきは、彼らの温情心の広さにただ甘えることなく、
彼らの愛してくれた「かつての立派だった日本」の姿を一日も早く取り戻すべきでしょう。


とはいえ、尖閣問題に対する関心の強さや、あるいは民主党政治や日教組、
マスコミに対する不信とその批判のなかに、「日本人の覚醒」もまた包括されてはいないかと、
わたしは一抹の期待を持たないでもありません。