ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

滞在ホテルとアメリカの景気

2012-07-15 | アメリカ

ボストンに着いてからあっという間に三週間が経ちました。
全く、特に快適な時間というのはどうしてこう早く過ぎ去ってしまうのでしょうか。

ボストンではいつも、二か所のホテルに宿泊します。
どちらもキッチン付き長期滞在用のホテルで、アメリカにはどこにもある「スイート」というタイプ。
前半は思いっきり安い、その代わり何かと「ざっくばらん」な方にチェックインし、飽きたころ
もう一つの少しだけ豪華なホテルで出世した気分を味わうというわけ。

冒頭画像は最初のお安いホテルですが、このソファはベッドにもなります。
立て掛けているチェロは、こちらで借りました。
去年までは楽器が分数サイズ(子供用の縮小)の2分の1だったので、
結構大変な思いをして飛行機に持ち込み、持ってきていました。
勿論預けるわけにいかないので、手荷物で持ちこみ、
「クローゼットに入れていい?」と(できるだけ当たり前のように言うのがコツ)と頼むと、
エコノミークラスでない限り、快く乗務員のクローゼットに入れさせてもらえたのです。

しかし、昨年の秋、息子がフルサイズを使うようになったので、もう持ち運びは無理。
チェロの先生も「本当に飛行機は大変です」とおっしゃっていましたが、
どうもフルサイズは一人分の席を買わなくてはいけないらしいのです。
(だからって、席にシートベルトをさせて載せるわけじゃないんですが)
わたしも息子も楽器にこだわるほどのレベルでもないので、こちらでチェロは借りることにしました。

これも嬉しいことに、アメリカは何でもレンタルできます。
一カ月借りても最低貸出期間の三カ月分のレンタル料を払わなくてはなりませんが、
国際線より手荷物の持ち運びにうるさい国内線に、フルサイズのチェロを持って乗ったり、
ましてやそのためにファーストクラスを取らなくてはいけないことを考えると、安いものです。

最初のホテルにチェックインしたときに、フロントのデブラが「あら~、また来たのね!」
と熱烈歓迎(する振り)をして、迎えてくれました。
アメリカ人というのは実にこういうとき愛相がいいというのか、あまりにも嬉しそうにするので
日本人などはつい照れくさくなってしまうのですが、実はこの態度はアメリカ人のサービス業
特有のもので、次の瞬間、大抵彼らはそんなことなど忘れてしまっているのが普通です。

今年は、外壁の塗り替え作業をずっとやっていて、日本であればチェックインのときに何か一言
あってしかるべき状態だったのですが、当然のように何のお断りもなし。
ドアの近くに車を止めていたら「クレーンの邪魔になるから動かしてくれ」と言われたり、
メキシコ人の作業員がずっと泊りこみで作業していて、その家族らしいのがうろうろしてたり、
最も最悪だったのは、ホテルの部屋。
ペンキがかからないように窓をすっぽり覆って、全く外が見えない状態でした。

「日本のホテルなら平身低頭、ってところだけど・・」
「外が見たいよ~」
なんとチェックインしてまるまる一週間、窓をふさがれた状態でした。



ところが最初の日曜日、かけられたビニールが下からはがれてきて・・・。



おじさんが作業を。
この日以来、一応外は見られるようになりました。

掃除は一週間に一度、足りなければ何でも自分で取りに行かなくてはいけない、
ディスポーザーは壊れているしコーヒーメーカーは水が漏る。
去年はなんと部屋の隅からアリが出てきて、「アリが(アント)いるんだけど」と電話すると、
「アント?アントって何?ああ、エァーントね」
って、ああどうせ発音の悪い日本人ですよーだ。

まあ、そんなこんなで、フロントの面々にもほとんど会わないまま20日過ごし、
チェックアウトのためにフロントに行くと、「あらーまだいたの」
まだいて悪かったね。
というかホテルの従業員が客に向かって言うセリフかしら。
というようなところではありますが、まあ、長年のよしみで、気が楽なんですよ。

そして、今日「また来年ね~」とチェックアウトしました。
次のホテルに行く前に、例の「ハウザー砲」のあったところに行ってみました。



教会の近くのいかにも歴史のありそうな墓地を見ておくためです。
思った通り、ここは非常に古い墓石ばかりで、ほとんど墓碑銘も読めなくなっているくらい。
墓の横に立てられているのは、いわゆる「ベッツィ・ロスの旗」。
そういう名前の女性が独立戦争のときに裁縫して作った旗です。
つまり、これが立てられているのが、独立戦争のベテランのお墓なのでしょう。



例えばこれですが、墓碑の文字は全く読めなくなっているのに、VETERANと、
明らかに後世に刻印された部分が見えます。
独立記念日には、この13星旗を横に立てることが慣習化されていることが分かりました。
この旗の多さを見ると、この墓地は、独立戦争のヴェテランのために作られたのかもしれません。

次のホテル、マリオット・レジデンス・イン。




名前は一緒ですがあの超高級JPマリオットではなく、長期滞在型キッチン付きバージョンです。

フロントに行ったところ、なんと、
「あなたは昨日チェックインの予定です」(^O^)/
「え?今日木曜日じゃなかった?」(?_?)
「金曜日です」(^O^)/
「・・・・・一日間違えてた」((+_+))
「昨日の宿泊代はすでにチャージされています」(^O^)/
「・・・・・・はい」(ToT)

というわけで、国際免許に続き、やってしまいました。
JPマリオットでなくて、ほんっとーに良かった。
皆さん、これは別にブログネタのためにわざとやっているんじゃないんですよ。

気を取りなおして部屋に入ります。

  

ここは前のホテルの二倍のお値段。
でも、日本でこの広さ(二部屋でワンベッドルーム)の部屋を借りることを考えるとタダみたいなもの。
そうですね、東京のシティホテルシングルの値段くらいかな?
それだけに毎日掃除が入りますが、今年は
「連泊する人のシーツは毎日替えません」というお報せが部屋に貼られていました。



朝食はコンプリメンタリーのちゃんとしたものがロビーで食べられますし、例年、
夕方もサラダとちょっとした一品が出され、小食の我々などそれですませていたものですが、
今年はそういう食事サービスが無くなっていました。

うーん・・・。

今回、実はアメリカに来て、この一年で経済の悪化による変化を色々感じてはいましたが、
ここもまた、どうやらかなり苦しいようです。
そういえば、従業員の数がめっきり少なくなっているようでもあります。

息子の学校のサマースクールの参加人数も少ないみたいだし、
ダウンタウンに出てもウィークエンドだというのに活気が感じられないし、
相当数のお店が無くなっていたり、別の店に変わったりしていました。

世界中が今そんなもんだよ、と電話でそれを言うと、TOはそう言いました。
勿論日本だけではないし、むしろ日本などまだましな方、というのも分かっていたつもりですが、
今までわりと「安定的に豊かなアメリカ」を見てきただけに、何かとても残念な気がします。







帝国陸軍軍楽隊とフランス人気質

2012-07-14 | 陸軍



今日はキャトルズ・ジュイエですね。
・・・てなんだ?と思われた方。
「パリ祭」ですよ。
フランス独立記念日です。
昔、日仏学館に通っていた頃、この日にはちょっとしたパーティが行われたものです。
「踊れ」
といわれてダンスの相手をしたら、自分より背の低いフランスオヤジに、くるくるとまわされて、
「踊れないのに、わたし踊ってる~」これすなわち、
「あなたのリードに島田も揺れる~」という「芸者ワルツ」?
フランス人と踊りながら、この一節が脳裏をよぎったのは、何年前のことでしょうか・・・。

というわけで、唐突ですが、今日はフランスと我が帝国陸軍に関連した記事をお送りします。


昭和6年9月満州事変発生。
戦火は次第に拡大して13年10月、武漢三鎮の占領へと展開していきます。
本日写真は中支における日本軍軍楽隊の行進の様子。
この当時中国大陸にあった、ある陸軍軍楽隊のお話。

軍楽隊に初めて動員令第十号下命という出動命令が出されたのは、昭和12年のことです。
昭和16年には、このシナ事変で活躍する軍楽隊を紹介したドキュメンタリー映画が製作され、
南京や蘇州の各地で、ときには敵前数百メートルの位置で演奏する
軍楽隊の「戦い」が国民に紹介されました。

ありがちなことですが、この映画の題名、「戦う軍楽隊」の、「戦う」が気にいらず、
「武器も持たないのに『戦う』とは何事だ」と文句をつけてきた陸軍の馬鹿参謀がいたそうです。

しかし現に、広い中国で、軍楽隊は兵士の慰問演奏や住民の宣撫のため演奏し続けていました。
ある時は楽器を銃に持ち替え、ある時は敵陣に決死の突撃をするに至り、
文字通り血みどろになって戦っていたと言っても過言ではなかったのです。
しかし、今日お話しする軍楽隊は、外国軍を「無血降伏」させた、最強の部隊です。


中支派遣軍総司令部軍楽隊は、昭和13年10月27日、漢口に進駐しました。
当時の漢口には、イギリス、フランスの租界がありました。
その租界を接収するに当たり、日本軍はあくまでも武力を濫用することなく、
平和裡に事を進めることに注意を払っています。
「日本軍は入城すべからず」というのが軍部から出された命令で、
ひっそりした城内には、陸戦隊の一部と憲兵が入っているのみでした。

そのときフランス租界接収の交渉をまかされたのが陸軍少佐田島清
田島少佐は国際連盟の日本側随員としてフランスに5年いたことがあり、
フランス人の気質というものをはなはだ良く知る立場にあったそうです。

フランス人気質。

みなさん、ご存知ですか。フランス人の気質というものを。
フランスと言う国が文化に優れた魅力的な国であるということに異論を唱えるものではありませんが、
フランス人と言うものをわずかでも知っている人は、
こんな厄介な人種が世の中にいることもまたごぞんじかもしれません。

わたくし、大学ではフランス語を選択し、4年間日仏学館に通い、ちょっととはいえパリに住み、
少しとはいえフランス人気質を知っているつもりですが、一言で言うと

1、意地悪

もう一言加えると

2、ケチ

につきます。
あと、皮肉屋である、無意味にプライドが高い等々、
まあ、良いとこもあるにはあるけど、あくまでもそれは個人的な資質における「良さ」で、
全体としてはどちらかというと、かなりお付き合いにもスキルが必要。
それがフランス人と言うものです。

田島少佐もこのあたりは百も御承知。
駐留していたコラン領事以下、居留民たちは、日本人をもともと馬鹿にしきっており、
かつ野蛮で何をするかわからないと、恐怖におののいていたわけです。
(昔もそうですが、日本文化人気の今現在ですら、そう思っている節がありまして)
こういう人たちと交渉するには全く一筋縄ではいかないわけで、とにかく武力はちらつかせず、
根気よい説得によって

フランス租界内の通行権
軍用電線の架設権
日本側への協力要請

などと取りあえず認めさせました。
しかしながら、何の根拠もなく東洋人など一段劣る民族であると信じて疑わないおフランス人、
相変わらず疑いの白い目でこちらを見ている様子が見え見え。

田島少佐は一計を案じました。
長らくの籠城生活で娯楽、ことに音楽に飢えているに違いない彼らに、軍楽隊の演奏を聴かせて
心を少しでも和らげてやれば、ひいては日本軍に対する印象も変わってくるのではないだろうか。

コラン領事に提案してみると、喜ぶどころか
「それは困る」
フランス人ならこうくるだろうと、田島少佐は予想していなかったということでしょうか。
甘い。
先ほどの性格に

3、ひねくれている

を入れるのを忘れていました。
コラン領事に理由を問うと
「演奏を聴かせると言いながらデモ、つまり日本の国威誇示みたいなことをするのだろう」

あ、4、疑い深い

も付け加えましょう。
かてて加えて、頭から日本人を見くびっているので、軍楽隊といっても
支那の楽隊のような、サーカスのジンタかチンドン屋の楽隊みたいなものだと
勝手に決め付けているのがこれも丸わかり。つまり

5、視野が狭く井の中の蛙

なのですね。こういうところは。
そこで田島少佐、一計を案じ、提案をこのように変更しました。

「日本租界で音楽界を開きます。
その際、フランス租界を通過するので、フランス守備隊司令部前で敬意を表して、
フランス国家を演奏させていただきたい」

コラン領事、「それならばお好きにどうぞ」と、あくまでもフランス人らしく

6、お高くとまっています

さて、帝国陸軍軍楽隊の、いや日本の音楽界の名誉を担って、山口楽長以下60名、
守備隊の前でまずはフランス国歌を演奏しました。
その素晴らしさに驚く守備隊フランス人。
ぜひもう少し聴かせていただきたい、との所望に対し、
彼らがかねてから用意していたフランス音楽をサラサラっと演奏すると、
ぞろぞろとどこからともなくフランス人が集まってきました。
そして、拍手喝さいでアンコール、アンコール。
しかし、田島少佐、ここで一芝居打ちます。

「いや、せっかくのご所望なれど、
先だって、
わざわざこちらかから御慰問申し上げようと存じたのに対し
お断りを受けたわけで。

日本軍楽隊は辻芸人ではござらぬ。
さらばごめん!」


さっさとトラックに乗って引き揚げてしまいました。
田島少佐は大いに溜飲を下げ、逆に相手方は慌てます。
「前の失礼は幾重にも詫びるから、ぜひあらためて演奏会を催してほしい」
平身低頭、手をすり合わさんばかりにコラン領事は申し入れてきますが、
いや、こちらにも都合が、とかなんとかじらしにじらして、15日目に、やっと承諾。
田島少佐もなかなかに人の悪い。

フランス人倶楽部で催されたその演奏会では、
なんと、フランスの音楽学校に留学していた山口楽長が音楽解説をするというものでした。
これを目の当たりにしたフランス人の驚きは想像に余りあります。
なぜなら彼らは

7、フランス語を話せる民族こそが文明人であると信じている

からです。
彼らは実際、どんな下手でも、外国人がフランス語でしゃべりだすと、がらりと態度を変えます。
英語が判っても英語で返事をしない、という都市伝説もありますが、基本的にそれは嘘。彼らは

8、良いかっこしい

なので、英語が全く分からないということを隠すために
「英語なんて」という態度を取ってみせるのです。(体験談)

・・・・というフランス人ですから、この計らいにまず茫然。
続いてレベルの高い軍楽隊の演奏に、まさに聴衆は感激興奮の渦。
二時間にわたる演奏会の間、彼らは身じろぎもせず、神妙に聴き入っていました。
それからというもの、彼らが日本軍を見る目はがらりと変わったそうです。
これは、軍楽隊がフランス人を制圧したと言っていいのではないでしょうか。

ところで、このフランス国家ですが、余談として少し。




昔フランス語の授業で全文翻訳し、歌わされたのでいまでも空で歌えるのですが(自慢)
その際このコーラス部分の最後の一文がことに印象的でした。

「進め!進め!敵の汚れた血で 我らが田畑を潤すまで」

最後の「nos sillons」(ノシヨン)というのは田畑のあぜのことです。
君が代を歌うことを拒否した菅前首相が
「君が代は暗い感じがする。フランス国歌のようにもっと明るい歌が良いと思い」
と、いかにも教養のない言い訳をしていますが、
おフランス国歌とは、このような「軍靴の足音聞こえまくり」な内容なんざんす。(byイヤミ)

でも、妙な思想信条を振りかざし、学校の教師が卒業式で立つの立たないので大騒ぎ、
一部の人間およびマスコミもそれをいつの間にか応援しているかのような最近の日本に比べれば、

9、国旗国歌を心の底から誇りに思っている

フランスの方が、この点まし。
まあ、これはフランスに限ったことではなく、ただ日本が異常なだけなんでしょうけど。







呉鎮守府司令長官官舎

2012-07-13 | 海軍

先日、艦上正餐で出されたフランス料理のコースをアップしてみましたが、
あの模型が飾られていたのが、この呉鎮守府司令長官官舎です。

そのときにも説明しましたが、官舎そのものは鎮守府が置かれてすぐにこの地に建てられ、
それがゆえに、ここは「長官山」と地元の人々が呼ようになりました。
しかし芸予地震で建物が損壊。
すぐさま建て直しされたのが、この現在残っている呉鎮守府司令長官官舎です。

ここの説明をする前に、どんな長官がここに住んだのかをざっとご紹介します。
第7代長官有馬真一中将から、第32代長官沢本寄雄大将まで、約40年の間に26人。
有名どころを何人か挙げると・・・・

加藤友三郎 中将:1909年12月1日 -

伊地知季珍 中将:1915年9月23日 -

加藤定吉 中将:1916年12月1日 -

鈴木貫太郎
中将:1922年7月27日

野村吉三郎 中将:1930年6月11日 -

山梨勝之進
中将:1931年12月1日 -

嶋田繁太郎
中将:1938年11月15日 -

豊田副武 大将:1941年9月18日 -

南雲忠一 中将:1943年6月21日

最近の日本国総理官邸よりは少しはましとは言え、鎮守府長官の任期というのは
だいたい一年から一年半が相場であったらしく、主が頻繁に変わっています。

さて、この冒頭画像を見てお分かりのように、この建物はイギリス風です。
木造の骨組みを見せるように、間をレンガや漆喰でい埋めるという建築構造。

中世からヨーロッパに流行りだした様式で、フランスなども、郊外などに行くと、
今でもこういう様式の古い建物がプチホテルになって泊ることができたりします。
この様式は「ハーフ・ティンバー」と呼ばれるもので、神戸にある「うろこの家」と同じく、
屋根には天然のスレートをここもうろこのような形に切って置いてあります。

こうやって写真を見ると正面はまったくの洋館ですが、
この後ろには純和風建築の棟があり、廊下で繋がっているのです。

つまり、司令官として公式の接待や会談、会食や会議は洋館の部分で行い、
居住は全て後ろの勝手知ったる和式で行われたということですね。
いかに海軍は英国式といえども、ここに住まうのは江戸時代生まれだったりしたわけですから、
すべて洋風では困る、という要望があったのかと思われます。

海軍は組織を作り上げるにあたって、まずイギリス海軍をお手本にしましたし、
「世界の一等国」として先進国の文化を取り入れた日本の、さらに先端をいく
科学的組織としての矜持から、衣食住をすべて西欧風に整えていたわけですが、
「仕事中は仕方ないけど、プライベートでは着物を着てたたみで寝て箸でご飯を食べたい」
というのが、海軍の偉い人たちのホンネでもあったに違いありません。

芥川龍之介の「舞踏会」という話を思い出しますね。
鹿鳴館でダンスの相手をした日本の少女を見て、
「この娘も、紙の家に住んで竹の箸で米をつまんで食べているのか・・・」
という感慨を持つフランス人士官が、のちの作家「ピエール・ロティ」だった、という話。

さて、この洋風建築の表入口は、ガラスのはまった開き戸なのですが、これをご覧ください。

     

すりガラスに施された、海軍のモチーフ錨と植物を絡ませた模様が、実にエレガントです。
やはり、日本の意匠デザインのセンスは繊細ですね。
このガラスは一度も破損していない、つまり当時作られたものが現存しているのです。



執務室と応接室。



たしかこの椅子は当時のものですが、ほとんどの家具はレプリカです。

これ、なぜだと思います?

戦後、呉はオーストラリア軍を中心とする英連邦軍の占領地区となり、
この官舎は占領軍の司令長官官舎として使われました。
偏見で言うわけではありませんが、所詮これがオーストラリアの田舎者ですから(言ってるし)、
この建物の歴史的経緯など全く敬意を払うことなく、好き勝手な改造をして住み、おまけに
帰国の際は家具を持って帰ってしまったというのです。(ボランティアの解説の方談)

部屋の中も外壁も、真っ白のペンキを塗りたくり、組み木の床には
上にリノリウムを被せ、通路を作り、扉を加え、と改装しまくって帰ったわけです。
負けた哀しさ、何しろ向こうは占領軍ですから、改装にあたって日本側の許可を取るなど、
おそらく全くせずに行われたと思われます。

この応接室のピアノは当時のもので、現在もここでミニコンサートが開かれるのだそうですが、
この部屋の壁を見てください。
美しい金色をベースとした、立体的な壁紙が貼られているのがお分かりでしょうか。



これを、金唐紙といいます。
大きな木の、粉伸ばしのようなローラーの表面に手彫りで連続模様を施し、皮革や壁紙を
プレスしてできるエンボス加工によりこのような立体模様をつけます。



このように彩色したものもあり、明治時代の高級洋館建築の壁紙としてよく使用されていました。
この手法が流行ったため、明治時代にはこの壁紙を作る工場は15ほどあり、
「芸術産業」としてこの壁紙は輸出もされたようですが、
その後時代の移り変わりと共に、すたれた手法となりました。

とにかく、この貴重な金唐紙がふんだんにこの庁舎の内装に使われていたのですが、
モノを知らない田舎者ののオージーは、これを白いペンキで上から塗りつぶしてしまいました。

ハーフ・ティンバーの外壁も、同じくです。
その特徴である木の梁部分にも、遠慮会釈なく彼らは白ペンキを塗ってしまったのです。

昭和31年、日本政府に返還された後も、重要文化財として官舎はそのまま展示されていました。
しかし、その後老朽化が進み、修復を検討しているときに、建築当時の資料である
「明治38年 呉鎮守府工事竣工報告」が発見されました。

これを受けて、1991年から5年かけて、調査、解体、修復を行い、できるだけ当初の姿に
戻すべく、金唐紙もペンキを塗る前の状態に復原することに成功したのだそうです。

ちなみに、この金唐紙が壁紙として現存する建物は、全国でもわずか数か所で、
なかでもこの官邸には、洋館部のいたるところにそれが見られ、非常に貴重な資料となっています。
金唐紙の復元にあたっては、「金唐紙研究所」の職人の協力をあおぎました。
職人は、国選定保存技術保持者という特殊技術を持っているそうです。

 天井の照明器具は多分そのときのまま。

 正餐メニューの乗っていたダイニングテーブルの脚。

この猫脚細工もまた美術品レベルの貴重なものだそうです。
これは持って帰らなかったんですね。オージー。
大きすぎたってことかしら。

 

感心にも、和風建築部分を大幅に壊して改装するような不埒な真似はしなかったようですが、
それでもところどころ、鴨居の上の欄間を取ってしまっていたりして、
「これもガイジンさんがやったんですよ」(苦笑い)と説明の方はおっしゃっていました。
当時は畳の上にじゅうたんを敷いていたのかもしれない、と思ったり。



永年の使用ですっかり溝が摩耗してしまった敷居。
ガラスなどは全く破損しなかったらしく、当時の
「向こうが歪んで見え、ときどき気泡が入っているいびつなガラス」
がまだはめられていました。

  

便所(もちろん修復したもの)と当時のままの浴室のガラス戸。
洋館部分には見ることはできないものの、洋式の(たぶん)トイレットがありました。

このすりガラスは、長年の使用のうちに湯気が桟にたまって、その部分が透明になっています。
この窓を眺めながら、歴代長官はお風呂に浸かって謡いなどウナったのかなあ、などと想像。

 この官舎前の敷石も、当時のものです。

歴代長官を乗せた車がこの敷石の上を静々と走る様子が目に浮かびます。



ところで、最後に余談ですが、呉鎮守府の第34代長官は、岡田 為次少将です。
勿論この官舎に住まうことなど無かった、日本海軍最後の呉鎮守府長官です。
実に不思議なことに、呉鎮守府長官に昭和20年の11月15日に就任し、
わずか15日後の11月30日、鎮守府の廃止と共に退任しています。

呉鎮守府を廃止するにあたって、形だけでも長官が必要だったのでしょうか。

岡田少将は予備役に編入された直後、充員召集されてこの長官職に就かされました。
その後、呉の復員局で仕事にあたっていたのですが、
GHQのBC級戦犯裁判にかけられ、死刑判決を受けました。
岡田少将の刑は昭和22年9月、ラバウルで執行されています。







「ハウイッツァー」の謎

2012-07-12 | アメリカ

先日、独立記念日のときに、タウンホールの前に鎮座している大砲状の武器の写真を挙げました。
独立記念日に備えて周りを国旗でデコレーションしてあったので、何も考えずに
「独立戦争のときのキャノン」と書いたのですが、そこで
「ちょっと待った~!」
の物言いが付きました。
非公開コメントを下さる方のお一人です。

「あれはどう見ても独立戦争のものに見えません」

そういや車の中からしか見たことは無いけど、独立戦争のときにしては砲身が細いような。
でも、ホイールは木でできてるし、大した違いはないんじゃないの~?と、
比較的武器そのものについては鷹揚というか、無関心(いい加減?)であるところのエリス中尉、
「細けえことはいいんだよ!」
とばかりにバックレようとしたのですが、いかにこのような細々と公開されているブログとはいえ、
世間に対してそれなりに、発言者の責任というものもございます。

考えてみれば、独立記念日に旗を飾り立てていたからといって、独立戦争に使われたとは限りません。
これは、タウンホール横の柵に囲まれた芝生の中に置かれていて、説明を見ようと思えば、
柵を乗り越えて接近しなくてはいけないのですが、このご意見を受け、本日意を決し、
勇気を振り絞って柵を乗り越え芝生内に侵入し、写真を撮ってきました。
それが冒頭の写真でございます。

「どこが独立戦争のキャノンだ?おら」

という声が、この画像を見ただけで、瞬時に、兵器オタク軍事・武器に詳しい方々の口から
モニターに向かって投げられた様が、はっきり浮かびます。ああ浮かびますとも。

この手前には、さらにこのようなプレートがございまして・・・・



第一次世界大戦のときにドイツ軍から分捕ったもの、って書いてあるやないかい!

いやはや、ちゃんと見ている人は世の中にいるもんですね。
柵を乗り越えているところをメキシコ人のガーデナーにガン見され怪しまれてたみたいだけど、
思いきって写真を撮ってよかった。
こんな機会でもなければ、わたしは一生この、息子の学校の横にあるこれを
「独立戦争時代の大砲」
と呼んで終わっていたに違いありません。
まあ、たとえそうであったところで大勢に問題があるでなし、という考え方もありますが。

部屋に帰って写真を見ながら、

「第一次大戦にキャプチャーしたドイツの・・・・ハウイッツァー・・・・・?」

何気なく呟くと、机の向かいで公文の連立方程式の問題をでれでれとやっていた息子が、
やおら自分のipod touchを黙って取り上げ、触ること数秒、「はいこれ」

画面にはHowizerの画像があるではありませんか。

「ちょ・・・どうして知ってるの?」
「知ってるよー、それくらい」
「だいたい、何なの?はういっつぁーって」
「だから、こういうウェポンのこと」
「それ、一般常識?それとももしかして息子って武器オタク?」
「俺は結構モノを知ってるんだよ。こう見えても」

まあ、息子も12歳で男子だから、こういうことに詳しくても不思議ではないかもしれない。
女子が一生知らずに終わることを、すでに知っているのかもしれん、と軽く驚きつつ、
さらに、グーグル先生にお聞きしてみたところ、howizerとはcannonと同じ一般名称で、
わたしが予想したように、それはドイツの武器会社の名称ではない、ということが判明しました。

これ、常識?

キャノン=大砲、に対し、howizerは、榴弾砲。
大砲の一種ですが、榴弾砲の定義は

砲口直径に対する砲身長(口径長)が短い
低初速、短射程である
軽量でコンパクト
高仰角の射撃が可能である

ということである、ということも、実は息子が教えてくれました。

もっとも息子もこのhowizerをわたしと同じく「ハウイッツァー」と読んでいたので、だからこそ
わたしの呟きを耳に留めたのですが、これは英語では「ハウザー」と読むようです。
そういえば聞いたことあるなあ。ハウザー砲って言う言葉。

息子にいうと「なんでハウザーだよ!『i』が入っているのに」と納得いかない様子でしたが。

プレートを見ればこれも書いてありますが、この榴弾砲は1919年、つまり第一次世界大戦が
終わってすぐに、アメリカ・レジオン(在郷軍人会)が地元に寄付をしました。
そして、おそらく永年どこかに(ここに?)展示されていたのですが、1991年、
有志何社かがこれを修復し、あらためてここにこの姿を遺すことになったようです。

「第一次世界大戦のベテランを偲んで」

中央部分にこのような文章がありますが、このベテランとは、アメリカにとって特別の存在。
老後の保障、福利厚生なども手厚く、いわば特別待遇です。


この榴弾砲が置かれているその横は、
このような市役所があり、さらにその隣には


  

このような立派な教会があります。
この教会の裏手に、見るからに古い墓石の並ぶ墓地がありますが、それはもしかしたら
プレートのいちばん最後にある「ベテランズ・グレイブ」つまりベテラン専用の墓所かもしれません。

さて、せっかく一つモノ知りになったので、ついでに調べてみましたが、
この冒頭の榴弾砲と同じタイプのドイツ製のものの写真をウィキで見つけました。

 これですよね?

15 cm sFH 1315 cm schwere Feldhaubitze 13)とは、
1913年にドイツ帝国が制式採用した重野戦榴弾砲である。(wikipedia)


第一次世界大戦後、この榴弾砲は戦後賠償の一環(現物賠償?)として、
ベルギーに接収され、オランダが購入しているということです。
冒頭のハウザーは、アメリカに分捕られたおかげで、残ることになったとも言えます。

それにしても、ふと思ったのだけど、ドイツって、結構このあたりから散々だったのに、
今や日本と並んで「世界にいい影響を与えている国」「技術力のある国」「経済安定している国」
で、すっかり世界の安定した勝ち組ですよね。
戦争に負けるって、意外と国にとって焼き畑農業みたいな効果があるのかな?
それとも、戦勝国には無い謙虚さと、「0からのやり直し」みたいな復興パワーが、
かえって国を安定させるのかしら。



これも、そうかな?少しこちらの方が大きいようにも見えますが。

ボストンは、この前もお話したように街の至る所、街そのものが歴史的遺産です。
息子の通う学校も、(といっても息子は単なるサマーキャンプですが)
実はアメリカでいちばん古いボーディングスクールだそうですし、いまだに



こんな道案内が現役で使われています。

写真の教会も市役所も、おそらく百年は経っている歴史の古いものですが、
彼らはこういう景観を大切にしますから、いつ帰ってきても街の風景は同じです。
(ボストンには地震はありません)
たとえ、ベテランたちの魂がこの街に帰ってきても、全てがかつてのままなのですから、
彼らはさぞ安らかに眠りにつくことができるのではないでしょうか。


・・・というわけで、実は、この指摘を下さった方は
「(アメリカという国は、年代を間違えることについて)そこまで大雑把な国柄なのですかね?」
とまで書いておられたわけですが、アメリカの名誉のためにいうと、
アメリカは、ベテランを遇する態度に現われるように、こういうことは几帳面に、きっちりと対応します。
なんたって、国のために戦った者の名誉をなにより重んじるのも、またアメリカ人であるからです。


つまり、大雑把だったのはアメリカ人ではなく、単にエリス中尉だったと・・・・・・(自爆)



薫空挺隊~高砂義勇隊の戦士たち

2012-07-11 | 陸軍

彫りの深い顔。意志的に結んだ口許。
力強い眼差しは何を見つめているのでしょうか。
肩に下げた不思議な形の刀は彼ら高砂族独自の武器。
彼らは日本人として戦い、そしてその命を賭して空挺特攻を行いました。

台湾が日本の植民地になったのは、1895年のことです。
当時の台湾は「化外の地」とまで言われた文明未開の地で、日本の接収に対しては住民はじめ
在台清国官兵といたるところで反抗がありました。
激戦すらあったこのような抵抗を平定後、日本政府はまずマラリヤの駆除に始まり、
台湾の治安維持、次いで教育、通信始めインフラ整備を進め、近代化を推し進めました。

このお正月に台湾旅行をしたときに感じた「台湾人の精神形成の基となっているのは、
もしかした教育勅語ではないのか」という仮定を述べてみたことがあります。

その後、このような本を見つけました。
「嗚呼大東亜戦争」 鄭春河、元皇民 上杉重雄著

驚くべき正確な日本語で切々と、日本の統治の正しさと、大東亜戦争の意義、
そして戦後の日本―ただ自虐史観に塗れ、精神の輝きを失ってしまった日本に、
もと日本人として、振り絞らんばかりの哀切の気持ちと叱咤をこめて苦言を呈している労作でした。

この本については、また稿を別に是非お話したいのですが、ここで鄭氏は、こう断言します。


日本政府は異族台湾人民を日本国並みに育て上げようと努力したことは
世界史上その例を見ない。

特筆すべきは日本人の精神生活の原点である教育勅語を徹底的に普及したことである。
我々は誠実にそれを信仰し実践した。


おそらくそうであろうと考えていたことが、現に統治下の日本国民であった台湾人によって
このように記されていたことに、わたしは強く感動を覚えました。
昭和16年に台湾で志願兵制度が導入されたとき、当時600万人足らずの人口であった台湾の
青年のうち45万人が、1000人の募集人員に対して殺到し志願しました。

このことについて、鄭氏はこう記します。

たまたまシナ事変から大東亜戦争となり、義勇奉公の時がきた。
そして時こそ今とばかり争って、陸海軍軍人軍属を志願した。
このように植民地台湾の青少年が、祖国日本のために従容として死地に投ずることが
できたのは
教育勅語の薫陶に依る外ならない。


「ほれだから教育勅語は廃止して正解だったのだ。軍靴の足音がどうしたこうした」

とサヨクな日教組などが鬼の首でも取ったように騒ぎだしそうな文言ではありますが、
戦争を起こすことと、国を守るために起こってしまった戦争に志願することの間には、
全くベクトルの違う論理が生ずるのであって・・・・・まあ、連中にはわからんでしょうが。

因みに、鄭氏はこうも言っています。

既に半世紀、教育勅語が今もなお台湾に脈々として生き続けているのも、
台湾教育五十年の成果であった。


台湾には政府の認定するだけで14の原住民がおり、その中に今日お話しする高砂族がいます。
この部族の名前も、日本が統治してから、正式な分類が始められ、命名したのも日本です。
国を統治するにあたって、異なる民族間の共通語などを制定し、日本語をも教えたのです。

クリント・イーストウッド作品、「グラン・トリノ」(名作です)には、台湾の部族の一つ、
サオ族の家族と、引退した頑固爺さん(クリント)の触れあいが描かれていましたね。

高砂族ばかり140人、それに日本人の士官、下士官、衛生の特技者を加えた特殊部隊が
レイテに上陸した敵航空の活動を抑えるために投入されたのは昭和18年12月24日のことです。

彼らは伝統的にジャングルの中の自活と戦闘法を祖先以来受け次いで来ており、
首狩りの風習さえ持っていた戦闘部族でもありました。
また、夜目が利き、素足で音もなく暗闇を駆けまわることができる身体能力は勿論のこと、
野草の食べ方や野宿の方法、全てに渡って「都会人」で構成された日本人士官下士官の
助けになったということです。

しかし、高砂族の部隊が実際に作戦決行後、どのような働きをし、あるいはどのように
死んでいったのか、全く資料が残っていないのが現状です。

昭和19年の11月の時点で、フィリピン駐在の大使が寺内総司令官から聞いた話として、
高砂部隊は爆弾を背負って敵中に突入する特攻部隊であるということが書かれているものの、
そこでどのような訓練が行われていたのかも、その文章(日記)には記されていないそうです。

11月22日、「薫空挺部隊」と名付けられたこの部隊を、
ブラウエン飛行場に強行着陸させるという作戦が下命されました。
作戦名は「義号作戦」。決行は4日後の26日です。

中重夫中尉以下40数名の薫空挺隊員は、輸送機でブラウエンに向かいました。
しかしながら、彼らの足取りがつかめているのはここまで。

この日の深夜零時、軍司令部が東方の山系を望むと、盛んに火の手が上がっているのが
見えたと言うことですし、さらに一時間後、ブラウエン上空に偵察機が侵入したところ、
いつもは撃ってくるはずの激しい対空砲火が全くなかったそうです。

これをもって彼らがブラウエン飛行場に着陸成功し、対空砲火も撃てないほどのダメージを
この部隊に対して与えた、と断定することはできませんが、米軍の記録では、
近隣の海岸付近に飛行機が二機着陸し、乗員はそのまま闇の中に消えて行った、
というものがあるそうです。

しかし、この乗員たちがその後どんな働きをしたかも、今では明らかではありません。

高砂義勇隊は7度にわたって編成され、合計1,800-4,000名の原住民が参加したとされます。
以前お伝えした、陸軍のパレンバン空挺作戦、海軍のメナド空挺作戦においても、
その成功には高砂義勇隊の力が大であったと言われています。

彼らは、先祖伝来の蕃刀でジャングルを切り開き、日本人よりも死を恐れず、
軍属でありながら軍人のように戦って、そして死んでいきました。


ここからが問題です。
戦後、台湾が日本ではなくなってから、日本政府は台湾人を戦後補償の対象から外してしまいました。
元軍人・軍属やその遺族に対して障害年金、遺族年金、恩給、弔慰金、
また戦争中の未払い給与、軍事郵便貯金等の支払いを一切行わなかったのです。

しかも、彼らは戦後「日本への協力者」として中華民国政府から厳しく扱われることになります。



今、韓国が、戦中日本軍に連行された慰安婦の数を、20万人(笑)と決定し、
日韓条約で既に決着済みの賠償を日本にさせるため、主にアメリカで運動しているそうです。

軍関与の証拠は全く無く、彼女らは民間の業者に親によって売られた、というのが実態ですが、
日本政府は「国の強制徴収ではなかった」という証拠が出せないまま、裏取引に応じてしまい、出してはいけない「河野談話」を出すことで相手にカードを与えてしまいました。

これを嵩にきて、今、韓国は次々と、国内やアメリカに「慰安婦の像」を建て、韓国政府は
「これ以上建てられたくなかったら」と恐喝までして、さらなる謝罪を要求してきています。
公式にはそれを拒否しながらも「道義的に計らう」などと、恐喝に屈してかあるいは別の理由か、
いずれにせよたわけたことを言う政治家が、この日本にはいるからでしょう。

証言もはっきりしない、年齢も整合性のとれない自称「慰安婦」、即ち売春婦です。
こんなものに払うお金があれば、日本は高砂義勇軍の生存者や遺族への補償をするべきです。

強く出るもの、声の大きなものには、たとえそれが真実でなくても腰をかがめ、
立場の弱い(台湾とは国交が無い)者にはあくまでも高姿勢で接し、見てみぬふりをする。

いつから日本はこんな卑怯な国になったのでしょうか。


そう、卑怯な、そして自虐で卑屈な国になってしまった戦後の日本。
前述の鄭氏は、はっきりこう言いきっています。

台湾近代化は日本統治50年の成果である。

しかも、戦後の腰ぬけ日本に対して鄭氏は

今こそ異国民ではあるが、当時大東亜戦争を共に闘った台湾の我々は殊更に絶叫する。
一、当時の祖国日本はそんな国ではなかった。
二、我々は侵略戦争に参加した覚えが無い。

そして、現代の日本人に対しては

明日の日本を担われる皆さんの責任は重大であることを自覚して、
祖国日本の現在を再確認し、日本国民としてどうあるべきか、
さらには歴史の真実を探求して、大東亜戦争を観直してください。

そして、心理改革、教育改革につくしてください。
同時に日教組を消滅させ、すみやかに教育勅語を復活して失われた日本精神
(大和魂)を
取り戻して下さい。

一旦緩急のときは民族の誇りにかけて祖国日本をお護りください。


高砂義勇隊の崇高なる犠牲に、戦中戦後を通して全く報いることをしなかった、日本と言う国。
烈々たる激しさで、しかし愛を以て日本を叱咤する鄭氏のような「元日本人」に対しても、
こんな日本では、到底顔向けなどできないとさえ思うのです。

にもかかわらず、台湾の人々は今や日本を許してくれている。
地震の後台湾から送られた世界一多い寄付金は、彼らの気持ちの表れだと思ってもいいでしょうか。
だとすれば、我々のすべきは、彼らの温情心の広さにただ甘えることなく、
彼らの愛してくれた「かつての立派だった日本」の姿を一日も早く取り戻すべきでしょう。


とはいえ、尖閣問題に対する関心の強さや、あるいは民主党政治や日教組、
マスコミに対する不信とその批判のなかに、「日本人の覚醒」もまた包括されてはいないかと、
わたしは一抹の期待を持たないでもありません。








特攻 最後の証言

2012-07-10 | 日本のこと

この本を手に入れたのは、先日訪れた知覧の特攻平和記念館の売店です。
特攻について書かれた本の中でも、特に選んだものばかりを揃えてあるように思われました。


今まで、色々な戦争ノンフィクションを読んできましたが、この
「特攻 最後の証言」ほど、証言ものとして価値があると感じた本はありません。

元特攻隊員、あるいは隊員として間近に特攻を見てきた人々へのインタビューが中心です。
その内容は

第721空桜花隊  鈴木英男海軍大尉 桜花特攻

第二回天隊     小灘利春海軍大尉 回天特攻

第122震洋隊   黒木豊海海軍第一等飛行兵曹 震洋特攻

第71嵐突撃隊   海老澤善佐雄海軍上等兵曹 伏龍特攻

八紘第六隊石腸隊 吉竹登志夫陸軍大尉 陸軍九九式襲撃機 陸軍特攻

海上挺進隊第三戦隊 皆本義博陸軍中尉 マルレ 陸軍水上特攻

神風特別攻撃隊第三正気隊 江名武彦海軍少尉 九九式艦上攻撃機 神風特攻

神風特別攻撃隊第九筑波隊 木名瀬信也海軍大尉 海軍特攻
第二〇三空戦闘三〇三飛行隊 土方敏夫海軍大尉 特攻直掩

以上の方々が、それぞれの立場でインタビューに答えています。

この本をわたしが非常に高く評価する理由はいくつかあります。

まず第一に、インタビュー内容は証言者によるチェックを受け、手を加えずに載せていること。

インタビュアーは、多くを語らず、証言者の話の流れを妨げず、かつ証言者の語ることを受け
その内容に即した質問をただ控えめに行うのみ。
その質問も記載されており、「仕立てた」内容になっていない。

テレビのノンフィクションものなどに顕著ですが、このような題材を扱うとき、そこには必ず
「作り手」(聞き手)の意見や考え、甚だしきは思想すら介入することがあります。

取材した元特攻隊員たちの真実を、できるだけ歪みなく、本人の語りたいことを
曲げることなく伝えるには、取材する側の思い入れや、感情移入による過剰な表現を避けた、
このような方法が最も適切であると、前書きで著者は語っています。

第二に、その「著者」に名前が無いこと。

ノンフィクションライター、どこそこの誰、ではなく、この本の製作者は
「特攻 最後の証言」制作委員会です。

編集の責任者は一人ですが、インタビューは三人で分担して行い、さらにインタビューの構成
(おそらく言い間違いや、話し言葉の不明瞭な点を読みやすくするだけの作業と思われる)
は二人、という「チーム」、それがこの本のライターなのです。

文学的表現や、ドラマチックな描写、そのような、真実をともすれば曲げかねない要素は
一切排除されているわけです。

戦争について書かれた「ノンフィクション」には、ときとして
「そこが己の統べる天地」とばかりにライターが歴史を語ったり、作戦参謀の気持ちを類推したり、
さらにはもう語りつくされている作戦を評価したりといった
「ノンフィクションと言いながら実はフィクションである部分を持つノンフィクション」があります。
こういうのはまさに気づかぬうちに「歴史の歪曲」の加担ともなりかねない危険すらあります。

(大空のサムライがノンフィクションだと思っている人はまさかここにはいませんね?)

ましてやライターが「自分がどう思った」という、史実にとって全く意味がない駄文を加えたり、
最初から結論ありきの思い入れで「ヒーロー賛美」仕立の記述をするなど、もってのほか。

制作チーム代表者が言うように、インタビュアーがインタビュー時にも、その発表においても
「黒子」に徹しているこの方法は、読み手にとって実にストレートに発言者の意図が伝わる、
合理的でかつ読みやすい手法であると思われます。

第三に、スタッフが戦争マニアでも特攻マニアでもない、「素人」であること。
当初半分以上のスタッフが、陸軍と海軍の区別もできなかったそうです。

これは、「特攻」の本を制作するうえで、絶対的なハンディでしょうか。

彼らは「戦争や軍について詳しいことは知らない、が、そこで何が起きたか知りたい」
この一心で取材を続けました。
参考文献をスタッフで読み、ディスカッション、インタビュー方法の予習、さらには復習と反省会。
このような視点からのインタビューは、「馴れ」のような著者の思いこみを排除しており、
少なくともこの本を読む限り、旧軍人たちはインタビュアーにマニアックな知識が無いことを
むしろ歓迎するようにも思える丁寧さで、体験を語っているように見えます。

しかし、ただ何も知らないものが誰もがする質問を繰り返すのではなく、インタビュアーは、
当時の隊員の心境は勿論、彼らの語る現在の日本への苦言から若者に対するメッセージまでを、
流れを邪魔すること無くインタビュイーに答えさせることに終始しています。

第四に、彼らが「勉強をしながら、取材を続けた」という体験からの発案であると思われますが、
インタビュー記事の下段に、用語解説を設け、自分たちが理解を深めたプロセスをそのまま
資料として掲載していること。

特攻に興味があるからと言って、戦争や軍隊に詳しい人間であるとも限りません。
この当たり前の事実に対応するために、当時の日本の状況をあまり知らない読者に向けて
理解するためのコーナーを、同時掲載しているのです。

これは、「初心者」には実に有効な「参考書」となるわけで、このあたりも、彼ら製作者たちが
「マニア」でないからこその発想ではないかと思われます。

この本の最後のインタビューは、二人の予備学生飛行士官の特攻証言です。
二人に対談のように会話してもらうことで、時にはこんな会話も・・・・。

木名瀬「特攻のマニュアルを飛行長が作ったんですが、
   突入角度を60度と書いてあった。

   これは艦爆の角度です。零戦でそれをやるのは大変です。
   零戦でやると浮いちゃって加速がつくから操縦かんが利かなくなる。
   敵艦の側までいった特攻機がボチャンボチャンて海に落ちる場面みたことあるでしょ。
   あれは操縦桿が利かなくなるからです」
土方「その飛行長、戦闘機乗り?」
木名瀬「そうだよ」
土方「そいつはバカだよ。
   60度というのは、体感で言えばほぼ垂直に落っこちるようなものだね」

木名瀬「そ、そ、本当にそう」

(因みにこの飛行長は「横山たもっつあん」とのことです)

このような、本当に乗っていたものにしか分からない証言あり、
そうかと思えば、予備学生ならではの「娑婆っ気」談話もあり。



ここで語っている旧軍人たちの述懐には、なべて共通点があります。
後年、映画や出版物などで描かれるように「自分が死ぬかも知れない」ということを、
皆あまり深刻に考えていなかったらしい、ということです。

あの、非人道的作戦の極致とも思われる「伏龍特攻」の隊員ですら、
「死ぬことにしても今と感覚が違った。
ちょっと旅行でもしようかな、という程度の受け取り方です。
ひょっとしたら神様になるのかな、と言った軽い気持ちだったんじゃないですか。
靖国神社で会おうと、半分冗談のような会話になっちゃうんです。
深刻さは無かったし、私たちも特攻隊と言われても、ピンときませんでした」
などと語っているのです。

戦後の世代を見つめてきた彼らが、今の日本を見てこの現状に、
「今向こうに行ったら、先に往ったやつらに『何やってたんだお前は』と言われそうだ」
という感慨を持つのは当然のことに思われます。
何人かの証言者はそのように語っています。

しかしだからといって、全員が全員口をそろえて
「若い人に向けて何かメッセージはありますか」というような質問に対して、
「死んでいった者のためにも国を愛してほしい」などと言っているわけでもありません。
「(日本は)別に今のままでいいんじゃないですか。
ニートだって歳とれば人生損したなと振り返るわけですし」
などと、のんきなことをいうような人もいる、というのが妙に現実的です。



「結論ありきの誘導」はない、ときっぱりこの本の制作者は言いますが、あえて言うとこの書は
「事実を、誰の意見の介入も無く知り、判断を自分自身でしてほしい」
という目的があって作られたものだと思われます。

わたしがときおりこのブログで嘆くところの「思考停止しかもたらさない結論ありきの平和教育」
に疑問を呈するところから、この考えは発生してきているともいえるでしょう。

特攻についての証言だからと言って、ただその非人道を伝えたり、ついでに
「こんなことが二度と起きてはいけない」というような説教を読まされるのが嫌で、
この手の本を避けてきた方、ぜひ、一読をお勧めします。

ヘンな言い方ですが、特攻に往ったのもまた当時における「いまどきの若いもん」―
世が世ならニートになっていたような―普通の若者の一人だった、ということが
不思議に納得できる証言集です。






海軍艦上午餐会

2012-07-09 | 海軍


呉訪問で、元自衛官の掃海艇艦長氏が計画してくれた、「呉海軍ツアー」の〆は、入船山でした。
と言っても、艦長氏本人は自分は知っているので、と、入船山の前で我々と夫人を降ろすと、
そのままさっさと車で去っていったわけですが。

我々を案内するために予定を立て、きっちり時間まで筆ペンで書き込んだ予定表を
車のダッシュボードにテープで貼り付けて、その通りに行動するという、
徹底的な海軍体質であったこの艦長氏ですが、またそれも仕事がらか人柄か、無口で無愛想。
美味しいお好み焼き屋も、TKG(卵かけご飯)の美味だった料理屋も、
全て自分はバックれて、奥さんにアテンドを丸投げです。

というか、そういう方が我々のために「そこにいくと往時を思い出して気が重くなる」
旧兵学校見学にまで連れて行ってくれるなど、貴重な時間を費やしてくれた、ということを
今さらながらありがたく思いだすわけですが・・・・・。


さて、艦長抜きで見学に訪れた入船山。
ここは呉市の史跡に指定されています。
海軍の健軍に伴って呉鎮守府が置かれ、古代から亀山神社が鎮座していた入船山、
通称「亀山」に、洋風木造二階建ての軍政会議所兼水交社が建てられました。
1892年(明治25年)から、ここは呉鎮守府司令長官官舎として利用されていました。
そのころから通称は「長官山」となりますが、戦後はまた「入船山」と呼ばれ今日に至ります。

最初の官邸は、日露戦争直後の明治38年(1905年)、震源を安芸灘とする、
マグニチュード7.2の芸予地震が起こり壊滅的被害を受けたため、新しく建て替えられました。

それが現在ものこる、この司令長官官舎です。




この入船山の史跡については、また稿を改めるとして、今日のテーマは、
この長官官舎の内部に展示されていた、往時のダイニングテーブル(冒頭画像)の上の

午餐会のメニュウ

殺伐とした話題が続きましたので、今日は優雅に美味しく参りたいと存じます。

帝国海軍はイギリス海軍をお手本に作られたので、制度を始め、用語など、いたるところに
その名残が見られるわけですが、こと料理に関しては、海軍が熱心に導入したのは
イギリス料理ではなく、フランス料理でした。
このことは、良いものだけをこだわって取り入れるという海軍の慧眼と趣味の良さを表しています。

ここに見られる午餐は、昭和5年(1930年)装甲巡洋艦「出雲」艦上で、実際に供されたもの。
金の海軍マークのついた食器に、美しく盛られた料理の数々は、
実際の料理法に忠実に、おそらくこうであっただろうという予想のうえ再現されています。

復元については、明治41年に発行された『海軍割烹術参考書』を元に、
海軍料理研究家の高森直史氏が総合監修をしました。
それでは始めましょう



1、前菜  ソモンと西洋野菜のテリーヌ

サーモンのフランス読みがソモンです。
これはテリーヌですが、ゼリー寄せのようですね。
「Saumon Fume」はスモーク・サーモンのことです。



2、 澄羹汁  アスペラガース・スープ

澄んだあつものの汁。
スープ、という言葉が一般的でないころは、これを「ちょうかんじる」と呼んでいたのでしょうか。
コンソメスープに沈むアスペラガースが美しい。
ただし、フランス語でアスパラガスは「アスページュ」と発音します。
料理法はともかく、表記は英仏混合で行われたようですね。
基本は英語、ときどきお洒落にフランス語を使ってみる、というのは今も同じ?

3、 鱒蒸煮  ボイルド・フィッシュ(コールド・フィッシュ)

フランス語ではポワレ・ドゥ・トリュイ・ドゥ・リヴィエール、(川鱒のポワレ)。
このポワレとは「蓋をした底の深い銅鍋に、少量のフォン(だし)を入れ蒸し焼きにすること」です。
いまなら「蒸したマスの冷製」というところでしょうか。

4、 雛鳥洋酒煮込重焼  シチュード・チッキン・付合 香草

メインディッシュだというのに写真を撮り忘れました。
なぜだ・・・。
英語で「チッキン」です。
この「ッ」が、当時の日本人の英語の日本語表記へのこだわりを表わしています。
チキンは味が薄いので、洋酒と香草で煮込むのはきっと美味しいでしょう。
ただ、この料理、どうみても「鶏」の胸肉の料理だったし、英語でも「チッキン」なのですから、
それが漢字表記で「雛鳥」というのはなんだかヘンですね。
チッキンの雛鳥、ってひよこでしょ?



右から

5、  牛肉蒸焼附野菜  ローストビーフ 附合 クレソン、ホースラディッシュ

ローストビーフも、この名称が定着するまでは「牛肉蒸し焼き」だったのですね。
ん?ローストビーフって、蒸し焼きするわけではないのになあ。
外側を焼いて、内部にじっくり火を通すから、蒸し焼きと言えないこともありませんが。
それにしても、ローストビーフって、宴会で出されて美味しいと思ったことがないのですが、
何故かしら。

6、  冷菓子  レモン・アイスクリーム

7、  雑菓果  タピオカプリン 黒豆添え

8、  コーヒー

タピオカが昭和初期にデザートに使われていた、というのに少しびっくりです。
黒豆、というのは当時も「和風スイーツ」としてこのように使われていたのでしょうか。

先日エリス中尉が護衛艦「さみだれ」で頂いたのと同じカップである、最後のコーヒーですが、
おそらくこのような正餐の場合は、デミタス・カップで出されたのではないかと思うのですが、
いかがなものでしょうか。


この正餐が行われたとき、1930年当時の「出雲」艦長は星埜守一大佐
「出雲」では秋山真之(1910年)や伊地知季珍(1903年)が大佐時代艦長を務めていました。
もともとイギリスで建造された「メイド・イン・イングランド」のフネで、
日本海海戦でも活躍しましたが、1945年、終戦のわずか一か月前に米軍艦船の攻撃により
転覆着底し、同年11月、除籍されています。


この艦上正餐に舌鼓を打ったのは、当時の「出雲」の艦長以下、幹部の皆さん。
おそらく、司令などを迎えてのものであったかもしれません。
だとすれば、当然、この午餐には音楽がつきもの。
海軍軍楽隊によるBGMが、この日の卓に興を添えたはずです。

最高位である司令がナプキンを取り、最初のテリーヌを食すためにフォークとナイフを取った瞬間、
入り口でそれを見ている下士官が、階段上の軍楽下士官に眼で合図、
さらに軍楽下士官は、指揮者(軍楽隊長)に合図。
食事開始とほとんど同時に、音楽が始まるというわけです。

本日は西洋料理ですので、軍楽士官であるエリス中尉が皆さまのために特に選曲したのは、
優雅な
「美しき青きドナウ」、アン・デア・ショーネン・ブラウエン・ドナウ
(ヨハン・シュトラウス二世作曲)
でございます。
選曲にあたっては特別に、この艦上午餐会の行われた頃、1932年の演奏を見つけて参りました。
カルロス・クライバーのファーターである巨匠エーリヒ・クライバーの
「時々何もしないで見てるだけ」指揮ぶりが一見の価値ありです。

http://www.youtube.com/watch?v=m0r4YnJ4-x0&feature=related

それでは、音楽スタートと同時に、どうぞ召し上がれ。





陸自ヘリ放水に思う

2012-07-08 | 日本のこと


海外赴任中の読者、新さんのコメントです。
まずはこれからお読みください。

昨年3.11の直後の3.18に、駐在員が集まる定例食事会がありました。
参加者の中に、独立行政法人に天下った、元原子力安全保安院の人が居まして
彼が その晩、非公式に現状報告をしたんです。
彼は六ヶ所村原発廃棄物処理場を自ら設計したエンジニアでした。
1時間ほどの独壇場でしたが、拝聴していた全員 が、完全に食欲を失いました。

それほど、大変危険な状態だったんです。
日本人には知らされておりませんでしたが・・・。

福島原発は、第一世代の旧型設備 (30年前?)で、設備内容を熟知している現役は、
保安院にも東電にも一人もいなかったそうです。

震災直後から東京に対し
「今は、水で冷やすしかない。それが出来る特攻隊長が居ない。
私が行くから」と保安院に申し出たそうですが、断られたそうです。
そして、13日には、水素爆発してしまいました。
彼は、涙を こらえながら、悔しがっておりました。
駐在員の大半は、家族を日本に残してきているので、食欲が無くなるのも当然です。

(中略)

五木寛之氏が言っておりました。
「敗戦後日本に引き揚げて来て、国破れて山河あり、と感じたが、今回は、山河破れて国あり」だそうです。

では、失礼致します。 (`´)ゞ


あのときの気持ちがまざまざと蘇ってきました。
「今何が起こっているのか全く分からない」
この状況で、関東圏に留まっていて大丈夫なのか。
取りあえず関西に避難し、ホテルに宿泊しながらも、
我々は情報が何一つ明らかにされないことに、心底不安でした。

あの日、我々は取りあえず関西に避難するために、最寄りの駅で切符を買いました。
そのときにはまだ空席があったのですが、わずか30分後、新幹線乗り場についたときには
コンコースを埋め尽くすほどの切符窓口に並ぶ行列ができていて、驚きました。

さらに驚いたのが通路にも人が立つほどの、満員の新幹線車内。
一つの車両の4分の1ほどの乗客が、外国人駐在員と思しき男性とその家族だったのです。

「日本人には知らされていないけど、海外では自国民にすでに避難勧告を出しているのか。
決定的なことを何も言わないのは、ただ集団パニックを起こさないためで、
実はもうすでに恐ろしいことが起こっているのでは」
という想像は、後から考えると実は当たっていたのです。

新さんのコメントによると、日本人には知らされていないことを、外国では、
そして外国に住む駐在員であれば知ることができたとのことです。

夫君がイギリス人で、親戚が海外に住んでいる知人は、すぐさま海外に逃げていましたし、
横須賀の米軍基地勤務のアメリカ人知人が、
「もし、本当に危険になったら国は自国民に必ず避難勧告をするから、そうなれば必ず教える」
と約束してくれていたため、我々はそれをあてにしていました。

もし海外にいるとき同じようなことがあったら、日本は自国民にこのような対応をするだろうか。

明らかに被害は甚大なのに、それを全く秘匿し続け、
「ただちに健康に影響は無い」と繰り返す政府に、不信感といら立ちが高まる一方、
アメリカ人である彼がこのときは無性に羨ましく思えたものです。


さらに驚いたのが二週間後でした。
ホテルから親せき宅に避難場所を移すことになり、そのために最低必要な荷物を取りに
一瞬自宅に帰ったときですが、駅からタクシーに乗って車窓から見る景色は、全く平常。
公園や学校の校庭では子供が遊んですらいて、不思議なくらい危機感の無い様子。
運転手に「全く普通なんですね」と話しかけると、運転手は
「はあ・・・」
何を言っているのか、と言った語調でした。


最悪の場合を考えて、関西の学校を見学したり、住居について調べたりしてもいたわたしは、
普通に生活しているように見える関東圏の人々の姿に、半ば唖然とすると同時に
「政府が何も言わなければ、皆大丈夫だと信じるしかないし、またそう信じたいのだろうな」
と、暗澹たる気分になったものです。


避難して、大阪のホテルにいるとき、3月17日のことですが、
陸上自衛隊の、あのヘリ放水をテレビで見ました。
息を飲むようにして見つめる映像では、7トンもの水がまったく霧のように散るだけで、
誰の目にも何の効果もなさそうなのは明らかでした。

政府や東電の無策が情けなく、もどかしく、反面、こんなことをさせられている自衛隊員が哀れで、
わたしは、ただただ彼らのために涙を流しながらこの映像を見ていました。

この作戦に参加した陸自の第一ヘリ団のヘリコプターは二機。
機体に放射線を防ぐタングステンのシートと鉛の板を敷き詰め、
隊員は防護服の上に鉛の板が入ったチョッキの着用しました。
そして、隊員は全員ヨウ素を服用のうえ任務にあたったとのことです。

これだけ防護したとしても、水素爆発した炉の真上が危険でないはずはありません。
全ての日本人がこの様子を見たとき「特攻」という言葉を脳裏に過らせたのではないでしょうか。

政府の無力のために、絶体絶命に陥った国を、若い武人がただ使命感に燃え、
自分の命の危険を顧みずに任務を遂行する。
しかしその行為は、その危険と引き換えにするには、あまりにも僅少な効果しかもたらさなかった。

そのままあの戦争における特別攻撃隊の構図ではないでしょうか。

頂いたコメントの中にある
「特攻を申し出たが断られた」
というのは、元保安院の「原子炉の事情を知る人間」だった、ということですね。

このように申し出る関係者、少なくとも原子炉を熟知しているはずの関係者が、
取りあえず駆けつけ、現場に投入されるというような特殊措置がもし行われていたら、
水素爆発は起こらなかったかもしれません。
もちろん、後からはなんとでも言えることですが。

この日本で、あまりにも日本的な社会を熟知するなら予想できたように、
規則や縦割りや縄張りや慣例などでがんじがらめの現場は、するべきときに的確な、
しかし異例の決断など、下せなかったでしょう。


原子炉を廃炉したくないがゆえに、米軍の援助を当初断ったのも、
「そこまでの最悪の事態」を皆がどこかで「想定したくないから想定しなかった」のでしょう。
キスカ島撤退を説明した時にもちらっと話した、あの「心理バイアス」が、
政府、東電関係者にもれなくかかっていたといえるかもしれません。

そして、次々とチャンスは失われ、遂に水素爆発はおきました。
どうしようもなくなってから、このような「特攻作戦」が行われたのです。

これを決定したのは、直接的には自衛隊の制服組と防衛大臣だということになっていますが、
実際のところはどうだったのでしょうか。
一説では、この発案は菅総理で、しかし北沢防衛大臣はそれを決定することができず、
結局、自衛隊幹部に最終的な決定をおしつけた、いう話も当時どこかで見ました。

絵柄的に「日本はまだあきらめていない」ということをアピールするつもりだったのが、
見るからに効果のない様子が放映されたとたん「菅発案説」はなりを潜め、
そのかわり新聞は
「効果は期していなかった。日本の本気をアメリカに見せるためだった」
などと言いだしました。

現に、ヘリ放水の22分後、日米首脳電話会談が行われています。
まるで首脳会談で「日本はとにかくやっています」と
アメリカに報告するために大急ぎで間に合わせたようなタイミングでした。

そして、その通り、この、誰が見ても効果の無いヘリ放水は、
日本のアリバイを証明するために行われ、アメリカは取りあえずそれに納得し、
その意味だけでは一定の「効果」があった、ということにされています。
この直後、東電の株価も上がりました(笑)

どちらにしても、そんなことのために

「あまり思い出したくないくらいの緊張感だった」(前原敬徳機長・37歳)
「放射能という目に見えないものへの不安はあったが、
与えられた任務をこなすことだけを考えた」(加藤輝紀機長・41歳)

というような思いで自衛隊員は危険な任務に就いたのです。

一日の考慮の猶予を与えられ、断る自由があったにもかかわらず、
隊員たちは誰一人任務を拒否しませんでした。
当然のように、使命感に燃えて、淡々と命令を実行したのです。



「特攻には、私が行く」

しかし、そういう声をくみ上げるシステムも臨機応変さも、この国にはおそらくありません。

そして、予算を削り、コケにするが如き扱いをし、遂には「暴力装置」呼ばわりまでした自衛隊に
どうしようもなくなってから、自分たちの無策のつじつま合わせのために、
危険な命令を下して恥じることもないのが、当時の菅内閣だったのです。


特攻を申し出たのは、おそらく新さんがお話を聞いたその方だけではなかったのではないか。
わたしは今にして思います。
国が危険にさらされたときに、危険を顧みず名乗りを上げる。

わたしは、そういう人々が必ず出てくるのが日本であると思います。
たとえ山河破れても、そこに住むのが日本人である限り、国は何度でも立ち上がると。




帝国海軍と七十七

2012-07-07 | 海軍

       


元々歴史が好きだった人間が、ある時期から海軍に惹かれ、探求を始めました。
そして、それだけでは終わらず、ブログを立ち上げました。
「ネイビーブルーに恋をして」です。

その世界を形作る様式美、求めるものの精神性、機能を重んじた合理性と闊達さ。
勿論全てが上手くいっていたわけではありませんが、帝国海軍という組織が、今も昔も、
憧れの対象に足るスマートな集団であったというブログ主の考えには、
とくにここに来て下さる方々であれば賛同して下さるのではないでしょうか。

美は細部に宿る。
海軍的なものの美点の一つはその意匠の巧にもあると思います。
たとえばこの軍艦旗。

陸軍の旭日旗が、日の丸が中央にあるのに対し、軍艦旗は
この写真を見ても分かるように左側に日の丸が寄っているでしょう。
この絶妙なバランスが、何ともいえず美しい。
計算された粋です。

映画「バトルシップ」の自衛隊旗を見てお隣韓国が(笑)旭日旗と間違え大騒ぎしたそうですが、
日本人でもこの違いが分かっていない人が結構いるみたいですね。
詳細は避けますが、テレビ局関係者などには特に多いようです。

下写真は、先日護衛艦見学をしたときに、「さみだれ」の前方にいた、護衛艦「さざなみ」。
画面の奥に国旗と軍艦旗じゃなくて自衛隊旗がありますね。
手前の自衛官旗は、毎朝ちゃんと掲揚の儀式によって揚げられます。
この写真の海自旗ですが、何だか変なので「こんな旗あったっけ」
と画像を探しまくった結果、普通の旗がそう見えているだけというのが判明しました。
というか、ここは艦尾なので、普通に軍艦旗を揚げなくてはいけない場所なんですね。




さて、今日は旭日旗の話をするためにこの写真を挙げたのではありません。
海軍のことを色々調べている段階で、ある偶然に気づいたのです。
今日が
七月七日
であるというそれだけの理由で、今日のテーマを決めました。

「日本海軍と77」。

言っておきますが、無理やりです。あまり期待しないように。


その1

帝国日本海軍が生まれたのは明治元年。(1868年)
太政官制のもとに、海陸軍務課によって健軍とあいなりました。
そしてそれから77年後の昭和20年(1945年)、海軍は消滅しました。

つまり、日本帝国海軍の寿命は77年であった、というわけです。

ちょっと待て、ということは日本陸軍の寿命も77年ではないのか、と思ったあなた。
あなたは正しい。
しかし、今は海軍における77という数字の偶然の話をしているので陸軍はそっちにおいといて。
海軍が海軍省の機関になったのは1873年(明治5年)のことですが、ここから計算すると、
77という数字が出て来ないので(笑)明治元年を、この際海軍元年とします。

その2

前回、旧軍の大将に相当する海将たる海上幕僚長は、
16人いる海将のうちの一人である、という話をしました。
昭和27年(1952)の海上警備隊総監である山崎小五郎を初代とすると、
設立後の60年間に、我が海上自衛隊は30人のアドミラルを戴いてきたことになります。
これは平均すると任期二年という計算になります。

比して帝国海軍はどであったかというと、
77人が大将として信任されました。

制度的に大将はきっちり任期が一年ずつというわけではありません。
同時に何人かが存在していたり、「死後特進」として大将になった提督もいますし、
任期中に病死した提督(川村純義)もいたりするわけですから、
この77年で77人の海軍大将、というのは偶然とはいえ、不思議な一致です。

因みに初代海軍大臣は西郷従道
西郷隆盛の弟ですが、最初から大将であったわけではなく、
海軍大臣に就任後、大将に信任されたという変則人事でした。

「最後の海軍大将」というと何と言っても井上成美の名が浮かびます。
それが井上成美の言わば枕詞にもなっているのですが、
井上成美と同時に大将に昇進した人物がいます。
塚原二四三(にしぞう)です。
また、大和の艦長であった伊藤整一も、菊水作戦の後大将に「特進」していますから、
(井上、塚原より一か月前)言わば伊藤は「最後の特進大将」と言えましょう。


その3


海軍兵学校の第一期生は1870年(明治3年)に、兵学寮生徒として入校しており、
その終了は1945年(昭和45年)ですから、その歴史は通算75年。

兵学校は77期が最後の学生となっています。

ここで、「兵学校の最後の期数は78ではないのか。小沢昭一だって78期だったぞ」
と思われた方、あなたは正しい。
しかし、実はこの兵学校78期というのは正式には「予科生徒」という扱いなのです。

この期は総員4048名の大所帯。
本科だけでは、短縮された期間で教育課程を終了させることが難しくなったので、
本校生徒に必要な諸準備を完成させるために、前もって予科として人員を確保したのです。
78期生徒の入校は77期の本生徒より一週間早い日に行われました。

つまり、最後の兵学校生徒は、78期ではなく、77期なのです。


海軍の歴史が77年なんだから、大将の数も兵学校の期数も似たような数字になるだろうって?

はい、おっしゃる通りです。
ですから、この稿は、単なる「こじつけ」ですので、軽い気持ちで読み流してくださいね~。

その4

ここで質問。
日本に海軍を作った生みの親は誰でしょうか?
そう、ご存じ勝海舟ですね。

海軍兵学校の裏門の文字は、勝海舟の書の中から抜粋されたもので、
今日それも、校内の資料館で見ることができます。

勝海舟は、1823年文政6年旗本の家の長男として生まれました。

安政2年(1855)33歳のとき、長崎海軍伝習所の開設と共に入所、
海軍への第一歩を踏み出し、幕府海軍の創設に尽力します。

明治5年、海軍省の設置によって海軍大輔として明治政府に迎えられた勝海舟は、
日本海軍の創設に力を尽くし生みの親といわれ生涯を海軍に捧げました。
そして、

1899年、明治32年77歳で他界。

自らの作った日本海軍が世界に驚嘆された日本海海戦の6年前。
この海戦における圧倒的な勝利を見ることなく亡くなったのでした。

というわけで、さすがにネタが尽きたので、これにて打ち止め。
それでは皆様、ハッピー・7・7・ナイト!




パイレーツ・オブ・ソマリア

2012-07-06 | 自衛隊


しばらくコメント欄で「引き寄せの法則」ということについて対話していたのですが、
「あることに関心を持っていると、何故かその情報が向こうから飛び込んでくる」
というちょっとした「(情報)引き寄せの法則」を実感したことのある方はおられませんか?

昨日、「ロータス7」という車の話題をコメント欄に頂きました。
このことについて返事を送って、何となくテレビをつけると、
チャンネルではちょうど「ロータス」のエンジニアのドキュメンタリーをやっていました。

   

勿論、この番組の車は、話題になっていたオールドカーのロータス7ではありませんが、
テレビをつけるなり「ロータス」と聞えて来た、そのあまりのタイミングの良さに驚きました。
しかし、驚くのはこれで終わらなかったのです。



この「トラベル・チャンネル」では、広いアメリカのそこここで起こる色々な事象、
話題の人物や地域の施設や事件なども紹介する番組が多いのですが、
なぜかこの「ロータスのエンジニア」の直後に紹介された話題が、

「ソマリアの海賊に襲われて、ネイビー・シールズに救われた船長と、
現在そこに展示されているそのときのライフボート」

という話題だったからです。

今回、呉で護衛艦「さみだれ」に乗艦して、説明を聞き。
「さみだれ」もまたソマリアに派遣されていたことを知ったというのは大きな収穫の一つでした。
その記事に対して、読者の新さんから興味深いコメントをいただいたばかりでもあったので、
続けざまに軽くびっくりしてしまいました。

この時いただいたコメントは、他にも皆さんにお伝えしたいことが書かれていたのですが、
それについてはまた稿を別にすることにし、
今日はこの「パイレーツ・オブ・ソマリア」について、まずお話をしたいと思います。

まずは新さんのコメントからご覧ください。

ソマリアの海賊について も、放射能と無関係ではない事、中尉殿はご存知ですか?
ある先進某国が合法で、ソマリヤ沖の海峡に放射性廃棄物を大量に投棄したとの事。
そのせいで、ソマリヤの漁民は漁業による生活が出来なくなり、パイレーツになったとの事。
しかし、ホルムズ~ソマリヤ沖は、最重要オイルラインですから、
一体誰が、そんな所 に投棄したんだか・・・。
信じられません。

民主議員の平田健二が(太字にしているのは、この議員の選挙区民へのアピールです)
「お話の中の出来事」とのたまったことについて、非難したこのわたしですが、しかしながら
「なぜ近年このような問題が起きてきたのか、なぜ彼らが海賊になったのか」
までは深く考えたことがなかったので、この話には驚愕いたしました。

今「海賊」となっているソマリア人は、もともとは輸出用のマグロなどを捕って生活していました。
ソマリアの内戦で中央政府が無くなり、そういった魚類の輸出ラインが途絶えてしまった後に、
とくにヨーロッパの船団がやってきて、彼らの漁場で捕獲をするようになり、
すっかり彼らは生活の糧である漁業を失ってしまった、というのが当初の理由です。

そのころ、ソマリアの軍事政府が、おそらくは外貨獲得のために、欧州の企業との間に
「ソマリアの沿岸に産業廃棄物を投棄しても良いという条約」を結んでしまいました。
合法で、内容物を問わず産廃を投棄していいのですから、大国にとってはもっけの幸い。
自国で処理困難な産廃放射性物質含む、を捨てまくったというわけです。

コメントにも書いてありますが、この放射性物質が、決定的に彼らを叩きのめすことになります。
漁民を中心に地域民数万人がこの影響で発病したと言われ、
残った者は海賊になるしか仕方なくなったというわけです。

テレビは、タンカーが海賊に襲われて、船長がライフボートで人質として拉致されそうになった話、



ネイビーシールズが船長を救いだしたヒロイックな行為を紹介していました。



結果として海賊の手から船長は救われ、めでたしめでたしの結末となっていました。
ところで、ここでもう一度我らが海上自衛隊の話に戻すと・・・。



護衛航路はこのようになっています。
実際は海賊の出没地域はほとんどアデン湾であることがわかりますね。
艦船による護衛だけでなく、海自はP-C3二機などの哨戒機を出して、警戒監視をしています。




海賊などに対応するための、米軍との合同訓練における我が海上自衛隊の写真。
映画の撮影の合間に撮られた写真、といっても信じてしまいそう。
それにしても、
圧倒的ではないか我が軍は。(イケメン率が)



これは一般船を空と海から護衛する自衛隊の雄姿です。
ぴったりと寄り添う護衛艦の姿は、守られている人々にはどんなに頼もしく映ったことでしょう。


ところで、今年の1月、ソマリア海賊が貨物船だと思い込んで攻撃した船が、
実はスペイン海軍の艦船でした、という話がありました。
慌てて逃走したパイレーツ・オブ・ソマリアでしたが、軍艦に逆らって勝てるわけもなし。
あっという間に拿捕され御用になってしまっています。

そうかと思えば、あの、ロシア海軍が、小さな漁船程度の海賊船を、
あらゆる武器を総動員して、無茶苦茶に破壊しつくす映像もありますね。
このロシアに見つかったが最後、海賊はもうこの世とお別れの覚悟をしなくてはいけません。
一リットルの水だけ与えられて、舵を壊されたボートで「インド洋に放置の刑」にされ、
別の国の船発見されたとき、海賊は全員死に絶えていたという話もあったそうです。

おそロシア・・・・。


このように、おおむね情け容赦ない世界の海軍さんたちですが、
もし海賊が捕まったのが我が自衛隊であったら、彼らはどうなるのでしょうか?

まず、国際協定に則って、海賊たちは日本の裁判を受けることができます。
身柄拘束中はエアコン付きの快適な房で、三食ご飯付き、勿論拷問なし。
もしかしたら、海賊をしているよりずっと穏やかで満たされた生活が送れるかもしれません。
日本食が口に合えば、の話ですが。
もともと彼らは自分たちが食べないマグロを生活のために仕方なく捕っていたわけですから、
魚の煮つけなんか出されても食べられない可能性は大いにあります。

イギリスもパイレーツと戦ってきた国ですが、何と言っても紳士の国ですし(冗談ですが)
本家「パイレーツ・オブ・カリビアン」でも書かれていたように、海国であるイギリスは
むしろ海賊を圧迫しながらも利用し、雇う側でもあったわけですから、理解があるのか?
これも法律に則った、それなりのちゃんとした待遇で彼らを処するようです。
アメリカは、裁判までは一緒ですが、刑務所生活がかな~り過酷であるとのこと。
中国は・・・・海賊?そんなものいましたっけ?見たことないなあ(独自に解決?)だそうです。

このように、アデン湾での各国の海軍による護衛、反撃活動が広がりを見せるに従い、
海賊たちは活動範囲をインド洋側に移していっているそうです。

今回、こんな画像を見つけました。



「第150合同任務隊」
左からドイツ「F-213 アウクスブルグ」
日本「DD-106さみだれ」 
ニュージーランド「F-111テ・マナ」
日本「DDG-175 みょうこう」 イタリア「F-573 シロッコ」
不明「オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート」
アメリカ「CG-55レイテ・ガルフ」
日本「AOE-422 とわだ」
アメリカ「DD-985 クッシング」

見よ堂々の大艦隊。

ここでふと、以前「陸軍潜水艦まるゆ」について書いたときに挿絵を拝借した、
小沢さとる先生の潜水艦漫画「青の6号」を思い出してしまいました。
国際連合潜水艦隊が、悪の世界組織マックスと戦う、というあの構図。
まさに、現在それがここに実現しているではないですか。

国際組織「マックス」も、「パイレーツ・オブ・ソマリア」も、「絶対的な悪」であり、
せん滅すべき世界共通の敵、という世界の認識のもとに存在しているわけです。

しかし、ここでもう一度、新さんに頂いたコメントに立ち返ってみましょう。

「放射性物質を不法投棄した大国」

これはどこのことですか?
そもそも、最初に、ソマリアが政情不安の無秩序状態であるのをいいことに、
マグロなどを無茶苦茶に乱獲てソマリア漁民の生活を奪ったのは、一体どこの国?

そして、我が日本も、ただ被害者だけと言いきれない部分があります。

これだけロシア始め非情な各国の軍の皆さんが、情け容赦なく海賊退治をしているのに、
どうしていつまでも海賊が無くならないのだと思われませんか?

海自が護衛を派遣することに、案の定、国内でああだこうだとやっている間、
日本所有の船は狙われ放題でした。
一説では、このとき日本は海賊に身代金を三度にわたって350億~600億円の身代金を払い、
この巨額の金で海賊はビジネスとして完全に成り立ち、成長すらした、というのです。

護衛をつける費用は高額で、おそらく、日本に限らず、
「海賊への身代金」=「ヤクザに払うみかじめ料」
というように割り切って支払ってしまう国が多かったという現実もあったでしょう。

とにかく、海賊ビジネスは三日やったらやめられない、ということになってしまったのも、
気前よく身代金を払ってしまう日本のような国のせい、と言えないこともありません。

(そしてそのツケを払うために危険な任務に就かされるのが自衛隊・・・・)


しかし、こうして考えると、海賊にならざるを得なかったソマリア人の事情も大いに同情できますし、
海賊がいつまでも無くならないのも、ロシア軍のように徹底的にやれない日本をはじめとする
多くの国々が、そんなソマリア海賊に対して「アマい」から、とも言えます。
勿論、彼らに対する同情からというわけでもないでしょうが、どちらにしても、
この複雑な世界には、「根源的な理由の無い絶対悪」など存在しないものなのです。
たぶん。


絶対的な悪の組織とされる漫画「青の6号」の「マックス」にも、
パイレーツ・オブ・ソマリアのように、そうなるべき理由があったのかもしれません。
だからって、どちらもやっていいことと悪いことがあるでしょって話ですが。





海自の階級~護衛艦「さみだれ」乗艦記

2012-07-05 | 自衛隊

「さみだれ」見学が終わり、「さみだれ」から「いなづま」に移るラッタル(というのかな)を、
真っ先に降りたエリス中尉。
自衛官の皆さんがこうやって敬礼しているところを写真に撮るためです。

いちばん向こう側にいるのがが「さみだれ」艦長。
一度説明しましたが、二佐(中佐)です。

ここで、写真を拡大してみましょう。



まん中の方は同じ肩章に見えますが、制帽にあの「スクランブルドエッグ」が付いていません。
この方は三等海佐、ルテナン・コマンダー即ち旧軍の少佐です。
肩章はよく見ると、三本線の真ん中が細いでしょう?
少佐は砲雷長、機関長、飛行長などの「長のつく仕事」。

呉を案内して下さった元艦長氏は、掃海艇の艦長であったので、この三佐で退官したようです。
艦長氏は防衛大学卒でではなく、下士官からの叩き上げでここまで昇進したのでしょう。
(このあたりのことは聞かなかったので、状況から推理)

この写真の三佐は、これも状況推理ですが、もしかしたら「さみだれ」副長?
そして、いちばん手前の肩章の無い方は、海曹(旧下士官)であるとおもわれます。
ちょうど腕章で隠れていますが、海曹の階級は左腕にあります。
ちらっと見える階級章から、おそらく二曹(伍長)か三曹(兵長)で、腕章は当直海曹の印かと。


・・・・・というような面々の敬礼に見送られて下艦したわけです。

今回、このような敬礼が行われている様子を何度となく見る機会がありました。
当ブログ「省エネ・省スペース」という稿で、海軍式敬礼、つまり

右手を右斜め前方から上に曲げ
揃えた指の食指と中指の中間が、帽子のひさしの中央から幾分右寄りのところに、
水兵帽であってもペンネントの下線の同じ位置に当たるところに挙げ、
掌(たなごころ)は内側に向けて相手に見えないようにする


というやり方を説明したこともあるエリス中尉が、これら「本物」の敬礼を注視しないわけがあろうか。
これも写真を見ていただくと分かりやすいですが、今から敬礼をしようとしている艦長、
既に敬礼している二人とも、掌が内側を向いているでしょう?

これも「省エネ・省スペース」でお話したように、海軍では狭いフネの中が基本行動の場なので、
このように肘を張らない敬礼になったわけです。

肘を張る陸軍式を海軍がやってしまっていても、相手が大俳優や気難しい俳優で注意できず
そのままになっていると思われる映画がしばしば存在するわけですが、
戦争映画にかかわる方たちは、どんな事情があっても、きっちりと、妥協せず、敬礼だけは
「海軍式」を守っていただきたい、と切にお願いします。


さすがに本物の海軍さんたちは、上は艦長から、下は教育隊の学生に至るまで、
一人の例外もなく正しい海軍式敬礼をしていたわけですが、
それをいちいち、目を皿のようにして確認する見学者というのもあまりないと思われます。

 

前回冒頭写真の、東郷平八郎の書に自衛隊旗をバックに写された「さみだれ」上層部の写真。

上は艦長。
右下は副長で、左下は海曹長。一曹の上、つまり兵曹長です。

この写真で分かったのですが、「さみだれ」は副長も二佐でいらっしゃいます。
そういえば冒頭写真のまん中の方は、この写真の二佐ではありませんね。
まん中の方は「船務長」といったところかもしれません。


「何か質問はありませんか?」

説明会が終わって、艦長が我々にこう聞いて下さったとき、質問がとっさには思い浮かばず
「ありませんか、それではこのへんで」
とお開きムードになったのですが、立ちあがった瞬間、エリス中尉、

「この間、バトルシップって言う映画を観たのですが・・・・」

うわあああっ!何を言い出すつもりだエリス中尉!
よりによって本物の護衛艦艦長に何を聞く気だ?

しかし、とにかく、この機会に何でもいいから何か聞きたいということしか考えていないため、
質問を考える前に脊髄反射でこの口が動いていたのでございます。

「ご覧になりました?あの映画」
「いえ・・・・・・」

皆さん、すくなくとも護衛艦「さみだれ」艦長は「バトルシップ」を観ていないことだけは判明しました!
隣のイケメン・エンスンはデートでこの映画を観に行ったりしなかったのかしら。
黙っていたのは「サイレント・ネイビー」だから?
それとも上官の話には口を挟まないという軍隊社会の規律?

「あの映画で『みょうこう』と自衛官が登場していたのですが。」
「はあ」
「あの映画で『みょうこう』の艦長は若すぎるのではないかと思ったのですが、
イージス艦の艦長の階級は普通何なんでしょうか」
「イージス艦も二佐ですね」
「何歳くらいから二佐にはなれるものですか」
「早い者で、40歳くらいから二佐はいますね」

じゃやっぱり『みょうこう』の艦長が浅野忠信というのは若すぎってこと?
少なくとも殴り合いをするような血気盛んな年代では無理、というのは確実のようです。
もっとも、殴り合いをすること自体、自衛官としてもうすでにアウトとも言えます。

このときの艦長のお話によると、二佐はだいたい40歳から48歳くらいの幅があるそうで、
防衛大学、一般大学卒の幹部自衛官は取りあえずここまでは必ず昇進できるそうです。
このH艦長はお見かけしたところ40代半ば、まずは順調な昇進スピードなのではと思われました。

それにしても、予想していなかった展開で、質問を用意していなかったのが悔やまれます。
日頃何のためにこういうブログをやっているんだか。
おなじ映画「バトルシップ」についてでも、
「『みょうこう』がやられてしまうのを今回自衛隊がOKしたのは、なぜだと思いますか?」
くらいのことを聞けばよかった、と後で悔やむことしきり。
まあ、「さみだれ」艦長に答えられる問題であるとも思えませんが。

それから、海自でも同期のことを「貴様」と呼びあっているのか、聞くの忘れた・・・。
「海上自衛隊」というグラフ雑誌で「貴様!」と呼んでいるようなことが書いてあったのですが。
誰かご存じの方、おられますか?



因みに、二佐には幹部自衛官は全員昇進しますが、一佐になれるのは同期のうち半分弱。
すでにここで半分がふるい落とされます。
そして、海将補、旧軍の少将になれるのはクラスの数人のみ。
つまり旧軍で言うところの「恩賜の短剣組」くらいしか海将補にもなれない、ということでしょうか。

そして海将、旧軍の中将も、昔と同じくここまでいけるのはその中でも一握り。
何しろ海上自衛隊全体(4万5千人)の中で海将は16人しかいないのですから。
せいぜいクラスヘッドと次席、
漫画「ジパング」の52期で言うと滝栄一郎と草加拓海しかここまでこれません。

海上自衛隊の階級はこの海将が一番上です。
旧軍の「大将」に相当するのが「海上幕僚長」。
これは大将のように階級ではありません。
幕僚長は「海将」という階級のままで、海上自衛隊4万5千人のトップです。

第11代海上幕僚長である中村悌次は兵学校67期のクラスヘッドですが、
国内外にも、その将器、人格を高く評価された名幕僚長であったと言われています。




見学が終わってから、この士官がまたお迎えにきてくれたので、話をしながら、
この通路を逆に戻って帰りました。

どうしても話は「自衛隊そのものが政治的に圧迫を受けている話」になっていきました(笑)
国防ということについて、いつもこんなことでいいのか?と憂慮しているエリス中尉は、

「わたしがもし絶対的な権力を持っていたら、国防と防諜にもっと予算をつぎ込みますよ」
ついには
「自衛隊はちゃんと軍という組織になるべきだと思います」

ついつい雑談に紛らせてこんなことを言ってしまいました。
士官さんは、勿論そうだともそうでないとも言わず、黙っておられました。

まあ、これも自衛官の立場としては一般人に考えを言うべき問題ではないでしょうね。
そういう反応が必ずあると分かっていたけど、一応こんな一般人もいる、
という表明として言ってみた、というところです。

現実には、今の日本において組織がドラスティックに変わる可能性はあまりなく、
「憲法改正」と同じくらい、あるいはそれ以上に、一般に変化を好まない日本人には
高いハードルを超えた向こうにあるものであることは百も承知の上ですが。


しかしこんなことを、しかも子連れの女性に言われて、きっとこの士官さん、面食らっただろうな。





国を護る人々~護衛艦「さみだれ」乗艦記

2012-07-03 | 自衛隊




画像は、護衛艦「さみだれ」で、我々が紹介映像を見た会議室にかけられていた、
「東郷元帥の書」の額。
ご存じ日本海海戦のときの「各員一層奮励努力セヨ」です。

この時に見せていただいた映像は、東日本大震災での自衛隊の活動が主でした。
あの震災の後、救出活動にあたった自衛隊に対する感謝の声は圧倒的でした。
しかも、過酷な作業中、被災者に気遣って暖かいものも口にせず、入浴すら控え・・・。
文字通り身を削って黙々と任務にあたる自衛隊員たちの姿に、
思わず胸を熱くした方も多かったのではないでしょうか。



この時の説明によると、3月11日の2時46分の発災以降、防衛省に対策本部設置が20分後。
総理大臣の防衛大臣への指示が40分後。
大規模震災災害派遣命令の発令が、なんと194分後の6時です。

まあ、このあたりの管内閣の不手際も、それに次ぐ原発への対応があまりにも酷過ぎて、
これと比べると責めるにもあたらないことに思えてくるのが異常と言えば異常ですが、
このあまりの初動の遅さ。
これだけで本来ならば、総理大臣と防衛大臣は不信任案を出されるレベルです。



ところが我が海上自衛隊は、
発災後わずか11分後の14時57分に、大湊航空基地から救難ヘリ
14分後の15時に対潜哨戒ヘリ、
そして、19分後の15時4分には館山基地から救難ヘリ、
一時間以内に9機が離陸し、逐次増強していったそうです。

そして、艦船も、発災後53分後に横須賀を出航した護衛艦「さわゆき」を始め、
13日までには約60隻の艦船が現地に派遣されました。。



この下のボートの写真には、ちゃんと自衛隊旗が立てられていますね。
「スクリューにロープが絡んでも」という右下の写真は、一体誰がどうやって撮影したのか。
隊員は勿論命がけですが、これら自衛隊の活動を記録する係も、さぞ大変であったかと・・・。



浮いている漂流物を飛び越えている自衛隊員。
この写真では分かりにくいですが、隊員の胸には大きな錨のマークが付けられています。



震災二日後に漂流していた男性を助けた、ということもありましたね。
このように、初動から、救助活動の終焉までを簡単にまとめたものを、
米軍「トモダチ作戦」のことにも触れながら説明していただきました。




ところで、この地図をご覧ください。
「海賊なんていうのはお話の中でしか聞いたことが無くイメージがわかない」
などと言う失笑ものの発言をして物議を醸したのは、民主党の平田健二という議員ですが、
実際には脅威となっているソマリア沖の海賊対策のため、国際貢献の一環として
自衛隊は商船の護衛をするために、2009年に現地に派遣されました。

この「さみだれ」も、その任務にあたり、その航路はこの地図に見える通り、
沖縄―大阪間に相当する距離。
呉を出航して一カ月後、マルタ船籍の商船を追尾していた不審船に対し、「さみだれ」はソマリ語で
海上自衛隊の艦船であることを名乗り、それをやめさせています。
この他、日中国境海域でも警戒監視任務についています。

今回のシリーズに対し頂いたコメントの中にまさに現段階でもソマリアに派遣されている護衛艦
勤務自衛官の奥さんの話がありました。
マスコミは全く報じませんが、これは現在も続いているのです。



いつも非公表でブログの感想をお寄せくださる方が、少し前に、
作家の曽野綾子氏のこんな体験を教えてくれました。

曽野氏が、まだ米ソ冷戦時代に或る頃、青森方面へ取材か講演で訪れたときのことです。
取材は大湊の海上自衛隊基地でした。
うちあげに一杯飲み屋に繰り出した一行は、基地で昼間説明をした防衛責任者を呼びだしました。

ところがその方は一杯飲み屋だというのに車でやってきて「飲めない」と言う。
なぜかと不審に思った一同が問うと
「女房がわたしが酒を飲むことにうるさくて」

実はこの人はすでに胃がなかったというのです。
胃潰瘍か何かで胃を切除してしまっていたのでした。
この方は、当時のソ連潜水艦の探知・追跡の任務にあたっていました。
任務の困難さと責任感、そのストレスからこの方は胃腸を壊し、手術後は
お酒を飲むことを奥さんからかたくいましめられていたのです。



カンボジアの復興のために汗と埃にまみれて土砂を掘っている自衛隊の前に現われて
「それだけ掘って環境への影響は?」と指つきつけた辻本清美とピースボート。
北朝鮮がミサイルをこちらに向けて撃つと表明し、ミサイルが今にも飛んでくるかもと
緊張する市中に、非常事態に備えて配備された自衛隊の銃と迷彩服を見て
「子供が怯えている。銃がこちらに向けられそうで怖い」
などと真顔でで言う沖縄の人間。
また、それを嬉々として、ここぞと報道する朝日新聞。
九条さえあれば自衛隊などなくても誰も攻めて来ない、攻めてきても戦争するくらいなら
日本など占領される方がましだ、と公言する福島みずほ。

 

こういう人々でさえも、自分たちの日々の安寧は、
実はこういった任務に就く人々によって護られているという現実を、
かれらは一体どれほど認識しているのでしょうか。

ソマリアの国際貢献も、「日本には関係の無い地域」などとは言っていられません。
日本船籍の船だけではなく、護衛を依頼する外国船の数はピーク時には殺到したと言います。
こういう貢献が「日本」に対する信頼を深め、ひいては国際的な地位を高めるのですから。

前述の元大湊地方隊の防衛責任者の話ですが、曽野氏は
「こうして誰かがやらねばならぬことを黙々と果たしている人がいるということが解ったことは、
私に或る感動をもたらさずにはいられなかった」と書いています。


平和な日本の、呉の港にその艦体を休め、人々にその姿を見せてくれる護衛艦。
この護衛艦に乗り、あの震災で、そして海外の、我々がていないところで、
命がけの任務にあたってきた自衛官たちの姿は、精悍で颯爽としてはいましたが、
それ以外はあくまでも普通の人々に見えました。

そんな姿と、護衛艦にこれでもかと搭載された最新の武器の数々。
そのものものしさとの、奇妙なくらい不思議なギャップ。
何の疑問も持たず享受している日本の平和の裏側には、このような自衛官たちの働きと、
彼らを愛する彼らの肉親たちの思いがあるのだということをあらためて思います。


この稿を最終回にするつもりでしたが(笑)もう一回、あと一回だけ、
書きそびれたことなど書いてみようと思います。(やっぱり終わらなかった・・・)
今度こそ最終回に続く。










海軍コーヒー~護衛艦「さみだれ」乗艦記

2012-07-02 | 自衛隊

本文に入る前に少し気になったことがあったので報告です。
以前「返事が無かった」というコメントを頂いて、送ったはずのコメントが消えたことに気づいた
という事件がありましたが、また昨日、「コメントに返事が無い」というメールを頂いてしまいました。
またもや頂いたはずのコメントがどこかに消えてしまった模様です。
特定の漢字(新しいという字とか)が弾かれるのかもしれない、と言うのがその方の推理です。
もしかして今まで「コメントしたのに返事が無かった」ということがあった方、
何度も申し上げているようにエリス中尉はコメントには必ず目を通して、基本的に返事しますので、
消えてしまったという可能性もまたご考慮くださるとありがたいです・・・って、
全く何を言わせるんだgooメールは(怒)


さて本文。

せっかく男前の自衛官二人ですが、ブルース・ブラザーズ風にサングラスをかけていただきました。
広報の仕事をしている自衛官だから、公人扱いしても良かったのかもしれませんが、一応ね。
それにしても、お二人とも、半袖から見えている腕のたくましいこと・・・・。
特に右側の青年、カッター漕ぎで鍛え上げられたばかり、ってかんじの腕ですね。

左はこの護衛艦「さみだれ」艦長のH二佐。
二佐とは中佐のことで、憧れの艦長になれるのもこの二佐からです。



この艦長の帽子を見ると、ひさしに飾りがついているでしょう?
これは通称「スクランブルド・エッグ」(色と形ですね)というそうで、二佐から上の制帽につきます。
個人的にエリス中尉は、このスクランブルド・エッグはあまり好きではありません。
旧軍の軍帽には無かったからというそれだけの理由ですが。

幹部自衛官は、この地位までは(速さに差はありますが)全員昇進できるそうです。

右の洗いたてのような?爽やかな好青年は、肩章から見るとエンスンです。
旧軍時代から学校を卒業し、候補生を経て最初に任官するのがこの三尉(旧軍少尉)。
艦の中では、「士配置」につき、士官としての訓練が始まったばかり。
この「士配置」は「サムライ配置」と読むそうで、「水雷士」「機関士」などのこと。

この人は、晴れて幹部になったものの、生活全てこれ勉強、の真っ最中といったところです。
我々の情報は、前もって彼らに伝わっていたらしく、彼は最後に
「僕も(あなたがたと)同じ地域のなんですよ」とこれも爽やかに話しかけてきました。
これから経験と知識を身につけ、立派な幹部になってください。


さて、護衛艦が入港中の任務は三つあります。
それは、

一、整備
二、補給
三、広報

の三つ。
一つ目の整備については、前々回「外壁を塗装しようとする人」の写真を挙げましたが、
他にもこんな光景を目撃。



休日も黙々と一人で砲身を手入れする水兵さん。
「さみだれ」艦内は、どこもかしこもピカピカに磨きあげられ、ちりひとつありませんでした。

そして、三つ目の「広報」、これに注目。
整備、補給と並ぶくらい大切な任務が、この広報であることに、今さらながら驚きました。
日曜日に護衛艦を一般公開しているのも「サービス」ではなく自衛隊の「任務」であったとは。

ですから見学者のある日は、艦内いたるところに一般人用の説明パネルが並べられるというわけ。



このほか、「機関室の仕事」なんてパネルもあったのですが、
その数ある写真の中からエリス中尉が皆さまのために一枚セレクトしたのが、これ。



今に始まったことではありませんが、ぶれていて済みません。

「防火指揮所で応急訓練を指揮する応急長」

この、応急長の指さしのポーズ、構えた腰、隊員の躍動感あふれるポーズが素晴らしい。

この後、我々は広い会議室に通されました。
テーブルクロスのかかった(アクリルの滑り止めでカバーしてましたが)長机のある会議室は、
実際に幹部がここで会議をする部屋らしく、正面に大きなプロジェクタがあります。



各自のテーブルに置かれた「さみだれ」「と「海上自衛隊」のパンフレット。
我々が席に着いてから、自衛隊の活動についての映像を、艦長自ら解説してくれました。

(これもまた「特別」ってことなんですよね?そうですよね?)

画像切り替えは、冒頭画像のイケメン・エンスンが助手としてパソコンを操作してくれました。
まずは自衛隊の組織についての説明から入ります。

 ここは「呉地方隊」です。

つまり旧軍の「呉鎮守府」でしょ?
なぜ、鎮守府を「地方隊」なんぞというつまらん名称に変えてしまったのか。
「くれちん」「よこちん」「さちん」
この、味わい深い略称も共に消えてしまったとは・・・。

地方隊を「鎮守府」に戻すことを国民の一人として(略)



「さみだれ」が、艦隊の第4護衛隊所属であるという説明。
上から「いせ」「はたかぜ」「さみだれ」「うみぎり」、これらが同隊所属艦です。



高速ターン中の「さみだれ」。
エリス中尉、恥ずかしながら駆逐艦がこんなにも巨大なものだとは正直思っていませんでした。
ですから、その大きさを知ってからこの航跡を見ると、
いかにもの凄いスピードでターンしているか、よくわかります。

そして、このあと映像解説はこの「さみだれ」の国際貢献への参加、
そしてあの大震災での海上自衛隊の救助活動に続くのですが、それはまた別の日に。


今日いちばんお話したかったのが、これ。



我々がテーブルに着き、艦長の説明が始まったとき、なんと!

従兵が、扉の奥からコーヒーを運んできたのです。
この海軍印のついたコーヒーカップを。

コーヒーを運んできたのは、勿論従兵ではなく恰好からおそらく賄いの係だと思われます。
艦長はじめ士官の食事の用意をする人でしょうか。

それはともかく、おそらく東郷司令も山本司令も、コーヒーを飲んだのです。
この桜に錨が金で描かれたコーヒーカップで・・・・・・・。

艦長の説明が続いているのに目の色を変えて写真を撮るエリス中尉。
このカップを何とかして持って帰る方法はないかと、真剣に考えた瞬間でした。

「特別見学」のどこが特別なのか、いまいちわからないままここまで来ましたが、
ここで初めて「さすがに皆コーヒーまでは出してもらっていないのでは?」と、気づきました。
つまりこのコーヒーカップが「特別の印」?

護衛艦の艦長はじめ幹部は、入港中も艦をカラにすることは決してありませんので、
彼らはフネの中で食事をします。
我々が見学を終わって護衛艦の並ぶ桟橋を歩いていると、どこからともなくいい匂いが・・・。
肉じゃがかな?
美味しいと評判の護衛艦のレシピを、ぜひ一度味わってみたい!

いつか、超特別扱いに出世して、海軍マークのついた食器の並ぶフルコースを、
できれば軍楽隊のBGM付きでいただいてみたい!という野望が、
このときエリス中尉の胸にむくむくと湧きあがってきたのでございます。


「さみだれ」乗艦記、今度こそ本当に最終回に続く。






護衛艦の居住性~護衛艦「さみだれ」乗艦記

2012-07-01 | 自衛隊

護衛艦「さみだれ」、搭載武器を次々に紹介しております。
写真は、これも前回エリス中尉が「さみだれ撃ち」などと口を滑らせて場を気マズくさせたところの
62口径76ミリ速射砲が、一分間に100発の弾丸を「せつなさみだれ撃ち」しているところ。
(ごく一部の人しか分からない『ぎなた言葉』すみません)



この速射砲、弾をご覧のように人が補給します。
水兵さんのイラストがなんだかレトロですね。
この絵だと、甲板で作業しているように見えますが、
実際はこの速射砲のある地下部に作業現場があるのでしょう。
冒頭写真は、撃ち殻薬莢が表示通り外に放出されている様子も映っていますね。

それでももの凄い轟音と震動があると思われます。
これをやっているところ(作業の方)を見てみたいなあ。

ところでこの速射砲の射程距離ですが、

1万6千300メートル。

16キロ先の、敵艦をピンポイントで狙えるということですね。

近代戦では、肉眼で見えない敵を、見えないまま攻撃して、その戦果も目にしない。
こういうことでしょうか。

 

そして、最後にご紹介するのは

垂直式アスロック発射装置(VLS for Anti Sumarine Rocket)

このチョコバー状の蓋があいたら、垂直に(VLS)飛ぶのです。
何が飛ぶのかって?
魚雷ですよ。
魚雷が垂直に、空に向かって飛んで行くのだ!
しかも潜水艦を狙って。

すげー。

英語を見ると分かりやすいのだけど、これは潜水艦を攻撃するシステム。
近距離の潜水艦に対しては、3連装短魚雷発射管から魚雷を撃てばいいのですが、
遠距離の場合は、海中より空中を飛ばした方が精度は上がる、ということだと思います。

魚雷の後部にはブースターロケットが装備され、ここから発射されます。
垂直に撃ちあげられた魚雷には飛翔用のロケットが装備されており、20キロ先の潜水艦を
目がけて滑空、目標手前で海中に落下し、そこから海中の潜水艦に向かっていくのです。

潜水艦にとって恐ろしいのは、ロケットが空中を行く速さのみならず、海中からは
上空で何が起こっているのかレーダー補足できないうちに魚雷が迫ってくるということでしょう。
しかも艦長によるとこれは「百発百中」。

現代でも、やっぱり潜水艦勤務って、怖そうだなあ・・・。


今回、艦船における武器をこうやって見学し、今まで知らなかった世界がそこにあるのに、
ただ驚くばかりでした。
無機的で合理的で、システマティックで「間度」は確実に進化している武器の数々。
こんなものを生身の人間に対して使う戦争だけは、何としても避けるべきだと思います。

しかし、これらの槍を完璧に装備してこそ、それが国の護りの盾にもなるのだということもまた、
あらためて実感できた気がしております。


さて、次は艦橋の操舵室見学です。



操舵室から見た前方の眺め。
白い20mm機関砲の頭が見えていますね。



どんなにコンピュータ制御になっても、舵はこの形。
だって、いまだに「面舵」「取り舵」「ようそろ」ですからね。
舵には滑り止めのマクラメ編みのようなカバーが掛けてあります。
この滑り止めは、狭い館内の階段の手すりなど、全てにかけられており、艦長によると
「各艦工夫をこらしていろいろやっているんです」とのことです。

 艦長の椅子。右舷側にあります。

このツートーンには何か意味があるに違いない。
と思ったらやはり、「赤と青のカバーはこの『さみだれ』の艦長の位が二佐である印」
であることが判明。
もし艦長が一佐であれば赤一色なのだそうです。
ということは、もし三佐なら青一色ですか?

この反対側の左舷側には、白いカバーの椅子がもう一つあります。
艦長より上位の者、司令などが乗艦したときのための「上席」だそうです。
司令であった場合は黄色、一佐であれば赤をかけるのですって。
うーん、いろいろと決まりごとがあるんですね。



艦橋から前方を眺めれば、そこには三隻の掃海艇が。
今回呉を案内して下さった元艦長氏は、こういう掃海艇の艦長でした。



操舵室にこんなファイル発見。
護衛艦には海上救難部署が設けられており、救助用器材も装備しています。
艦上救難員、潜水士、降下救助員も乗艦しているのです。

つまり、船舶火災、溺者救助、航空機救難、曳航などの救難任務にも対応できるのですが、
このあたりの海保との住み分けはどうなっているのか、ふと思いました。

ここで操舵室の横デッキに出て・・・・、



タダものではない倍率の双眼鏡を覗かせてもらいました。



案内のH艦長。
「さみだれ」艦長ともなると、刊行物に名前と顔が載っているくらいなので、
目隠しする必要はないかと思いましたが、一応「肖像権」みたいなことに気を遣ってみました。
実はこの写真、艦長ったら、ばっちりカメラ目線なんですよ~。

ところで、ウィキペディアの「さみだれ」の項で確認してみたのですが、そこに記載されている
現在の艦長の名前が、確かこの方からお聞きしたお名前と違っているのです。
話しかけたときに名札を確認し、少し変わったお名前だったので記憶しているのですが。
これは、単にウィキペディアが情報を書き変えていないというだけのことなのでしょうか。




この見るからに爽やかな自衛官の調整しているのが、距離測定器(だったかな)。
首にストラップを必ずかけて、まん中を覗きこみます。

こうやって、先にフネの装備を外で見てから艦内に入ったのですが、これは艦長の計らい。
お天気が怪しかったので、降りださないうちに外を見てしまう、ということになったようです。
本当は、先に内部を見るのだとか。

というわけで、いよいよ艦内に入っていきますよ。



この急峻な階段を見よ。

ほとんど垂直。ほとんど梯子ではないですか。
運動靴でこういう場合に備えて覚悟をしてきたエリス中尉も、これにはびっくり。

しかも、この護衛艦「さみだれ」のパンフレットには、最初にこのように書いていあるのです。

装備の近代化だけでなく乗員の居住環境も大幅に改善され、
快適な生活をおくれる護衛艦となっております。

うーん。
快適な生活を送れる、ということを護衛艦のウリにするのも、なんだか突っ込みどころだけど、
それほど快適になったといいながら、十分狭い気がするんですが。

それはさておき、この艦長の動きを見よ。
あっという間に階段を駆け下り、さらに画像がブレる目にもとまらぬ素早さ。

 通路。天井も壁もパイプだらけですね。

あまりにもエリス中尉がもたもた階段を下りているので
「あれ?着いてきてないし」とばかり、立ち止まってこちらを振り返る艦長。
だから、あなた方ほどさっさと行動できないんですってば。
艦長、歩くのもやたら速い。
やっぱり鍛えるのが仕事の自衛官だけのことはあります。

 鍛えると言えばこのデッキ。

白いラインで書かれた通路ですが、この部分は滑りにくい材質の床になっており、
航行中、乗組員は皆でここをランニングするのだそうです。
フネの中ではどうしても運動不足になってしまうから、とのことです。
海軍体操みたいなことはやらないんですかね。
しかし、こんな狭い通路や階段を上ったり下りたり、一日身体を張って訓練訓練の艦隊勤務、
月月火水木金金。
これで運動不足なら、たいていの娑婆のひとはどうなる。


先ほどの「快適な生活」という記述ですが、一般向けのパンフレットの冒頭に書かれています。
武器の性能などを差し置いて、居住環境の良さをなぜこんなところで強調しなくてはいけないのか?

と思いつつ、いろいろ調べていると、あるところで、

むらさめ型等の新鋭艦は、従来艦より大型化されたために居住空間が広くなり、
生活環境は改善されている。

という一文を見つけました。
この「さみだれ」、むらさめ型の新鋭艦として、わざわざこのことを自画自賛するほど、
優れた居住性が特徴的であったということらしいです。

何しろこれが初めて内部を見た護衛艦なので、「階段、せまっ!」などと思いこそすれ、
この後案内された会議室が、言われてみればフネの中にしては異様に広いのにも、
これを読むまで全く気づきませんでした


またもや紙幅が尽きました。
次回、最終回(になる予定希望)に続く。