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板垣征四郎の武士道精神

2012-07-31 | 日本のこと

           


東京裁判が国際法上違法で、戦勝国の報復裁判であるということがこれだけ言われてきてもまだ、
「戦犯」という言葉を平気で自らの国に対して使う国があります。

裁判の最高責任者であったマッカーサー元帥が、昭和25年トルーマンとの会談で、

「東京裁判は誤りであった」

翌年には公聴会の正式な発言において

「日本が真珠湾攻撃を行ったのは、アメリカの仕掛けた罠にはめられたからだ」

こう述べて極東裁判の不当性を認めたにもかかわらず、いまだに「A級戦犯」などという、
便宜上ふり当てられた「国家指導者」をカテゴライズする意味の「A」を、「最悪の罪」と誤解し、
靖国に合祀されていることにすら異論を唱える戦死者遺族がいる国、それが日本です。

それが連合国の日本に与えたプログラムだったとは言え、東条英機始め国家指導者たちが
「悪人だったから死刑になった」と信じ切っている国民がいまだにいる、というのは、
健全な国家として重大な戦後の負の遺産だと思うのですが、その話はさておき。


このとき処刑になったうちの一人に板垣征四郎がいます。
満州事変当時、石原莞爾の上官で関東軍高級参謀でした。
いわば満州国の建国はこの二人によってなされたというべきなのですが、ここで少し余談を。

小沢征爾という日本が生んだ世界的指揮者をご存知ですね?

この小沢征爾の父は満州で歯科医をしていた人物ですが、政治活動をも熱心にしており、
自宅には日本と中国の政治関係者が多く訪れていました。
そのなかに、この板垣と石原がおり、誕生した息子に「征四郎」の「征」、「莞爾」の「爾」を
一字ずつ取って名付けました。
それがマエストロ小沢征爾の名前になったのですが、小沢氏は自分の息子に
「征悦」(ゆきよし)と付けたので、板垣の方の「征」だけが小沢家に残ったというわけです。


さて、今日はその板垣征四郎についてお話したいと思います。

日本がドイツと三国同盟以前の防共協定を結んでいた頃。
1933年に首相になったヒットラーは、ユダヤ人の排斥運動の声明を公に行います。
その迫害に難民の海外流出が懸念され、それについてアメリカが声をあげる形で、
パリで国際会議が開かれました。
議題は、ユダヤ人難民を受け入れるか否か。

しかし、当時の国際社会は全ての国が「受け入れの余地ながない」という理由でそれを拒否。
いい恰好して声をあげたアメリカですら、自国の議会においてそれを拒否したのでした(笑)

「受け入れてもいい」と言ったのは二国のみ。
ただしカナダは「収容能力に限界あり」(あの広い国土で・・・)
イギリスの如きは「植民地であるアフリカのギニアで農業してくれるならOK」(おい・・・)

その前年、我が日本では、五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)において、
「ユダヤ人対策綱領」を決定していました。

これは、陸軍随一の国際通であった安江仙弘大佐が、「陸軍のシンドラー」としても有名な
樋口季一朗少将を補佐する形で推し進められました。

世界が受け入れを拒否したユダヤ人を、「八紘一宇の精神において受け入れる」
と表明したのは、つまり、世界でたった一つ、日本だけだったのです。
しかも、施策綱領には
「ユダヤ資本を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑止す」つまり、
ユダヤ人を人道的観点から保護するが、彼らの資産をあてにすることがあってはならない
というただし書きすらあるのです。

満州国の建国理念は「五族協和・王道楽土」でした。
天皇陛下の御心でもある「ユダヤ人保護」を決定したのは政府ですが、
この中で最もこの成立に熱心であったのが板垣征四郎であったと言われています。

日本は、三国同盟締結後のドイツの抗議すら毅然とはねつけ、亡命ユダヤ人を受け入れました。
(現在の日本政府の腰砕け外交ぶりからは信じられないこの強さ・・・・・)

戦前「人種平等案」を提案し、アメリカに退けられた日本。
統合し、あるいは植民地にした朝鮮、台湾の人民にも、教育を施し、インフラ整備をした
世界でも類を見ない宗主国だったのです。

板垣は、その後(昭和16年)朝鮮軍司令官になりますが、あるとき朝鮮の知識人に向かって
「朝鮮は近いうちに独立させなければならないね」
と語り、相手は唖然としたという話が残っています。


終戦間近、板垣はシンガポールの第7方面軍司令官に赴任しました。
そのころ、「阿波丸事件」が起こりました。
いまや一般には全く知られていませんが、アメリカの国際法違反事件、戦争犯罪の一つで、
緑十字をつけて運行していた阿波丸を、米軍潜水艦「クィーンフィッシュ」が魚雷攻撃、
沈没した阿波丸の乗客乗員は一人を除き2000人あまりが死亡したというものです。

もともと、阿波丸は、アメリカから依頼されて、
東南アジアに収監されているアメリカ人捕虜に届けるための慰問品を積んでいました。
阿波丸の付けていた緑十字は病院船の赤十字と共に、安導権(Safe-conduct)を意味し、
これを攻撃することは国際法違反であることは明確だったのですが、
そのアメリカ軍が何を思ったのか、自国捕虜への物資を海に沈めてしまったのです。

もしかしたら、馬鹿ですか?

まあ、この馬鹿艦長はその後軍法会議で有罪にはなっていますが、せいぜい「戒告処分」
で、この処分はあくまで物資を沈めたことに対する不注意を咎めたにすぎず、2千名の命を
一瞬にして海に葬ったことについての罪ではなかったようです。

(因みに、以前書いたことがありますが、中国で行方不明になってしまった
北京原人の頭がい骨が、この阿波丸で運ばれていたという説があります。
もし本当ならアメリカの犯した罪は一般人虐殺、物資の損失だけ留まらないということになります)

まさか緑十字が、しかもアメリカからの依頼で航行していた船が撃沈されたとは夢知らず、
日本軍は、当初必死で船の行方を捜しました。
かなり日数が経過してから事の次第が明らかになり、第7方面軍司令部は当然激昂しました。

会議の末、
「このような非人道的行為に対し報復するため、
捕虜に送られた慰問品を全て没収し、
海中に投棄して見せしめにすべし」
ということで衆議一決したのです。

当時板垣はここに赴任したばかりで、この決議の結果に裁可を下す立場でした。
しかし、この報告を聞いた板垣は、語気も鋭く、

「馬鹿もの!
敵の卑怯な振る舞いに対して、こちらが卑怯な態度で対応したら、
日本武士道の魂はどうなるのか。
捕虜の方々には丁重に慰問品をお配りせい!」

と一喝しました。
この一言に、興奮しきっていた一同ははっと目が覚めたように冷静さをを取り戻し、
戦地の異常な集団心理に突き動かされていたことを自省する機会を得たのです。

板垣征四郎がこれだけの人物なかりせば?

「アイヒマン実験」(特殊な状況下で人は良心より権威者の指示に従う、ということを、
被験者がダミーの高圧電流スイッチをを命令されて押すという方法で実験したもの)
に見るまでもなく、まず報復が諒となり、トップダウンでそのような行為が命令となり、
おそらく命じられた部下は嬉々として高圧電流のスイッチを押し続けた被験者のように、
嬉々として慰問品を海に捨てる行為に身を投じたことでしょう。

そしてもしそれが行われていたら、確実にそれは戦後、アメリカ側の行為の因果とは無関係の
「悪辣な戦争犯罪」として、何人かの命が戦犯裁判で失われるという悲劇を呼んだでしょう。

第二次世界大戦後、「命のビザ」の外交官杉原千畝、「陸軍のシンドラー」樋口季一郎
そして先ほどの安江仙弘は、イスラエル建国功労者の名簿である「ゴールデン・ブック」
その名を刻まれています。

板垣征四郎。
ユダヤ人たちに救いの手を差し伸べた一人でありながら、杉原たちのように顕彰されることもなく、
ただ「A級戦犯」としてその名を呼ばれるこの人物が、人の道を重んじ、
「ユニバーサルブラザーフッド」を願い、そして何よりも
日本の武士道精神の継承者であったことを知る日本人がどれだけいるでしょうか。



*おまけ*



閣議の席で米内光政海相と雑談する板垣征四郎
盛岡一中の先輩(米内)後輩で、ウマが合い、仲がよかったそうです。
そういえば、今も残る盛岡一中の校歌は「軍艦」のメロディを使用していましたね。
(当ブログ『笑ってはいけない行進曲軍艦』参照)