ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

江田島村の人々と兵学校の「兵隊さん」

2012-07-19 | 海軍

先日、呉に行き三度目の旧兵学校見学を果たしました。
呉が「海軍と共にあり、海軍と共に発展した街」であることも肌で感じました。
今日は、その中でもおひざ元として、その名が即ち「海軍兵学校」を意味するようになった、
江田島の人々と、兵学校の結びつきについてお話します。

冒頭画像は明治百年史蔵書の付録?に付いてきた、兵学校の往時の地図です。
20分の一位の縮尺なので字が全く読めませんが、この地図には教育参考館がありません。
大講堂(水色)の近くにある長細い二つの建物、その手前(赤)が赤レンガの生徒館、
上部に位置するオレンジ色で囲ったのが第二生徒館ですが、
それまで同居していた海軍機関学校が舞鶴に移転し、この校舎が空いたため、
ここに兵学校の貴重な資料を展示することになったのです。

ですから、旧兵学校の見学をした人は、この地図の下三分の一、
この地図では空白に見える部分だけを建物に添って歩いて見学したことになります。
見学コースを黄色の線で書いておきました。
全体のほんの少ししか公開していないというのがわかりますね。

その後、ここに現在も残る教育参考館が完成したのが昭和11年三月。
その直後の昭和11年四月には、67期生徒が入学してきます。(笹井醇一中尉の期です)
この67期240名の学生は、入校特別教育として、第一種軍装を着用の上、教育参考館において
東郷元帥の遺髪、ならびに戦死者、公死者の名碑に参拝することを最初に行いました。
以降、兵学校生徒は、入学して最初の海軍教育を、参考館の参拝から始めることになったのです。

因みに、この地図で緑で囲った部分には剣術道場、砲術教授所、事務所などがあるのですが、
この後これを移転して、そこに現在も残る新生徒館が建てられました。
完成は12年4月で、68期(鴛渕孝大尉、酒巻和男少尉、大野竹好中尉)からの生徒は、
このできたばかりの生徒館に入った最初の生徒です。

余談ですが、大野中尉は卒業時のハンモックナンバーは36位、その大野中尉を「秀才だ」と
自著で誉めていた作家の豊田穣氏ですが意外や意外?288名中の69位で上位。
優等生タイプに見える鴛渕大尉も、52番と、予想通り上位に位置しています。

さて、それまで何もなかった瀬戸内の漁村だった江田島に海軍兵学校ができて以来、
江田島の人々は兵学校と共にその生活を営んできました。

近隣の人々は、兵学校の始まりと共に起き、生徒が総員起こしの直後に行う号令練習が
まだ明けやらぬ朝の風に乗って聞えてくるのを時報のように聞き、
やがて空が白んでくると兵学校にある唯一本の煙突からまっすぐ煙が上がるのを認め、
「生徒さんたちは食事をしておられる」などと思いをはせたものだそうです。

先日の江田島訪問のとき、いまだに「下宿制度」が士官候補生たちの間に受け継がれている、
と聞いて、心から驚きました。
それを今日も「倶楽部」と称するのかどうかまでは、聞きそびれました。

下宿制度は、週末の休暇となったとき、江田島の民家が家を兵学校の生徒のために開放し、
我が家にいるように寛いですごすためにもてなした制度で、そこを倶楽部と呼びました。

兵学校の生徒は通常許可なく外出することができず、休暇日でもでかけられるのは江田島と
能美島だけ、買い物で商店に入る以外には、倶楽部しか立ち入ることができませんでした。

この倶楽部は学校が厳密に調査をした学校周辺の民家が指定され、生徒たちはそこで
囲碁や将棋に興じたり、読書をしたりして過ごします。
残された写真を見ると、みんなきちんと軍服のままで、なぜかアルバムを見ている人多数。

アルバムを見るのが面白い、というよりなにより、学校内の緊張から解き放たれて一息つける、
こういう時が、彼らにとって何よりの楽しみだったのでしょう。
そして、何と言っても下宿となった民家心づくしの食べ物。
食べざかりの彼らには、それだけでもありがたいものだったようです。

この倶楽部に「お金を払った」という話を一度どこかで読んだことがあるのですが、
それは後期のことで、最初の頃は島民の「好意」だけで賄われていたのではないでしょうか。
ある江田島島民で、家を倶楽部に解放していた人の話です。

「取り決めがあったわけではないが、いつの間にかそうなって、
そこで土曜日にはその準備で大変じゃった。
うどんを打ったり豆腐を作ったり、すし、汁粉、ぜんざい、餅、ミカン、芋、卵、白いご飯、
勿論お金なんかもらったことは無い。
分かるか。あの生徒さんたちは皆、将来日本の柱になるひとじゃからの。
楽しく食べてもらうのがただただ嬉しかった」

このように接待してもらう生徒も、礼儀正しく、島民に感謝を欠かしませんでした。
それだけではなく、例えば村に火災が発生すると、村民は手押しポンプで消火活動をしながらも
今に兵学校が来てくれるぞ、もう来るぞと待ち望んだものだそうです。
決して彼らは兵学校に救援を要請などしないのですが、何も言わなくとも彼らがそのうち
助けに来てくれることを固く信じていました。
そして、村民の信頼を裏切らず、兵学校の屈強の若者たちが隊列を組み、喇叭の音と共に
まさに地響きを立てて乗り込んでくると、皆は歓声をあげて道をあけ、
「もう大丈夫だ。兵隊さんが来てくれた」
といって、頼もしい彼らに全てを任せたのだそうです。

兵学校は日頃から地元の人々と緊密な信頼関係で結びついており、
当然のこととしてこのような時は後片付けまで完全に処理し、我がことのように誠心誠意、
村民のために働いたのです。

台風の季節には、江田島は被害を受けることが多々ありましたが、そんなときも、
翌朝には兵学校では必ず内火艇を出して海岸線を見て回り、島民の姿を認めると
「おーい、大丈夫か。変わったことは無いか」と声をかけました。
村民はまたも兵学校が来てくれたといって、海岸にたくさんが走り出てきます。
そして手を振り、声をからして「ありがとう」を繰り返し、そこに立ちつくしたのでした。




江田島の人々はこのように兵学校と共に在り、その存在を愛しました。
この地で幼少期を過ごした人の話によると、その卒業式の日になると、母親は、
参列することは勿論、中を垣間見ることもできないのに、子供に一番良い着物を着せ、
「静かにしているように」
と言い聞かせたのだそうです。

「いくら騒いだって兵学校まで聞えはしないのに」
内心子供心にそう思っていると

「今日は兵学校の卒業式のために天子様がこの江田島においでになるんじゃ。
もう少ししたら白い軍艦に乗られて、それを迎える練習艦が21発ずつの礼砲を撃つぞ。
びっくりせんように静かにここで見ておれ。
わしは式の終わる昼まで畑にも出んのじゃ。
鍬や鎌の音をガチャガチャさせては申訳ないからの」


明治生まれのこの父親の言は、当時の江田島の村民の、
兵学校に対する気持ちの一端を表わしているともいえましょう。

呉の駅前を写した一枚の写真には、たった一つ、どこかの菓子店が建てたと思われる
大きな看板があり、それに「海兵団子」と書かれていて微笑ましく感じます。

江田島だけではなく、呉の人々にとってもここに海軍兵学校があることが、
彼らの、そして郷土の誇りであったことが覗い知れます。