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「ながせばはないことながら」~海兵67期の青春

2012-07-29 | 海軍

  

記事が書きたくてアップする項と、絵が描きたくてアップする項があります。
そして今日はお分かりのように後者です。

この笹井醇一少尉の写真は、ブログ開設間もないころ、
鉛筆で画像を作成していた頃に一度描いています。

描きながらそのとき、おそろしく綺麗な眼をしたひとだなあ、と思ったのですが、
今回この画像を描いているときもそのときの感激を思い出しました。
このブログはもともと、というか当初、笹井中尉のことが書きたくて始めたようなものなんですよね。
始めてみれば他に書きたいことが多すぎて、特に最近すっかり忘れていましたが(笑)

今日は、笹井中尉のいた海軍兵学校67期が、どのような少尉生活、
主に航空学生生活を送ったかをお送りしましょう。

兵学校生活について書かれた本には、いかに戦争中の、しかも軍人であっても、
青春を謳歌する溌剌とした様子、「箸が転げても可笑しい」といった風の若者らしい明朗さ、
そして時には、自分がどう見えるかを気にする「お年頃の男の子」ぶりがうかがえて、
なかなか微笑ましいのですが、たとえば。

兵学校の最初の夏休み。
純白の白い第二種軍装、腰に短剣姿で颯爽と帰郷することになるわけです。
「海軍兵学校に入って本当に良かった」と、彼らは入校以来おそらく初めて実感したでしょう。

兵学校生徒の短ジャケットと錨のマークは、世間の、特に女性の憧れの的でした。
帰郷途中にすれ違う人々は、ほぼ例外なく彼らの凛凛しい生徒姿に目を留め、
はっきりとした羨望や憧憬の様子を浮かべるのですから。
これが、青年たちにとって晴れがましく誇らしい瞬間でなくて、なんでしょうか。

これを、67期のある生徒は
「エリート的な気分に浸った一カ月」
と称しています。
しかし、浮かれまくって、「休暇日誌の記載を慌ててしたが、不完全なままで列車に乗り込む」
こういうところは、エリートというより、夏休みの子供です。

そして、冬休みの帰郷をするときは「ネイビーブルーの外套と白手袋」を着用します。
このマントも、本当に素敵ですよね。

先日、知覧の特攻平和記念館の一室に、旧軍の軍服がずらりと飾ってありました。
エリス中尉の近くで、数人のグループが見学していましたが、その中の最も年配のおばあちゃまが

「これこれ!このマントがねえ!これきてる人が素敵でね~!」

と、海軍外套の前で立ち止まって、うっとりと呟きました。

わかる!わかるわおばあちゃん。もっとその話聴きたい!
と思いながら耳をダンボにしていたのに、彼女の連れ(戦後世代)が
「へえー」の一言で話を終わらせてしまったので、そこまででしたが。
皆さん・・・・もうちょっと、お年寄りの話に耳を傾けましょうよ・・。

「あの外套と白手袋が、故郷の人たちに、また若い男女に印象的だったらしい」

非常に人事のような、恬淡とした書きぶりですが、実は、

「特に女学生に憧れの眼差しで見つめられてしまうこと多数で、実に誇らしかった」

というのが実際ではなかったかと、僭越ながら勝手に解釈してみました。

因みに、白手袋は海軍士官のトレードマークでしたが、都会出身のスマートを自認する生徒は
「いつでも白手袋をしているのは地方出身者(田舎者)」などと言っていたようです。(某海軍士官談)
何が粋なのか、って、どのあたりで決まるんでしょうね。

因みに笹井中尉は都心も都心、東京の青山生まれ。
現在プラダ始め、ブランドショップがずらりと並ぶ南青山の青南小学校卒です。
ちなみに、学校の向かいにあるのはヨウジ・ヤマモトです。(どうでもいいけど)

この後兵学校卒業、艦隊乗り組み、そして少尉候補生からめでたく少尉任官と相成るのですが、
この笹井少尉の写真は、少尉任官記念に撮られたものであろうと思われます。

さて、少尉任官と言えば!
そう、レス(料亭)への出入りと、エスプレイ(芸者遊び)が許されるのです。

「任官祝いには母港で初めてレスの酒を味わい、エス(芸者)なる者の存在に、
目の前に花が咲いた思いをするなど、生まれて初めての経験を」

遊び堂々解禁の、ヤング・オフィサーにとって最も楽しい季節が始まるわけです。
そして、笹井中尉67期の場合は、任官から半年後の昭和15年11月に、飛行学生となります。

勿論、訓練は厳しいのですが、給料をもらいながら飛行機の勉強をする毎日。
責任ある配置でもないし、なんといっても独身ですから、俸給と航空加棒は使い放題。
三人部屋の個室には従兵がつき、週末は東京その他へ外泊も自由です。

そして何より、
「シナ事変その他で海軍航空隊の盛名愈々高く、
我々のモテ方はご想像に任せよう」

ちょっと言ってみました風ですが、これもきっと、控えめに言っているに違いありません。
ただでさえモテる海軍士官、さらにモテたのが飛行機乗りと言われているではありませんか。
モテの相乗効果でMMKです。

しかし、モテて遊んでいるばかりが航空士官ではありません。
この間も、着々と訓練は進みますが、楽なことばかりでは勿論無いのです。

例えば筑波颪の吹きすさぶ寒さの中。
飛行機を手入れするときは、揮発油でまるで手が切れそうな辛い思いをします。
あるいは初めての単独飛行、皆が最初のそのときは解放感に両手を離して万歳したり、
大声でわけのわからないことをわめいてみたりするのですが、わめいているうちに、
筑波山ヨーソロで飛んでいるつもりが、よく見たら富士山だったなどという失敗も多数。

肥田大尉の後ろの偵察専攻学生が飛行中「肥田、ここはどこだ」とのたまい、
「バカッ!貴様が偵察ではないか」と喧嘩した話も、この頃の出来事です。



そしていよいよ卒業飛行は、赤トンボの「全員による大編隊飛行訓練」です。
それが終われば機種決定となるわけで、戦闘機志望の多い飛行学生は悲喜こもごもで
この結果を聞きます。

「数十機を撃墜してエースの名に輝き、ガ島上空に散った笹井が
機種決定の日に小躍りして喜んだ姿が今も眼に浮かんでくる」

筆者(同級生だった田中一郎氏)は、そのときの様子をこう書き記しています。
そして、このようにも。

「今思い出しても、一生にあんなに楽しい生活はなかった」

目の前に迫る戦雲、時局の不穏さは、少尉の彼らにもじゅうぶん察せられたでしょうが、
そういった「戦いの秋」を控え、真剣な訓練に励みながらも、彼らは若者らしく、
「酒保のうどん屋のナイス(美人)に、学生舎までうどんを運ばせる秘訣」や
「霞ヶ浦のカモを飛行機の脚の張線に引っ掛けて取る方法」や、
「利根川の鉄橋の下を中錬で通れるか」
などといった問題について、真剣に?討論したりしていました。

「不安定な赤トンボで高高度の宙返りができるかどうか」が討論されたとき、笹井少尉一人が
クラスでたった一人、できる!と言い張り、クラス全員と五銭の賭けをして見事成功したものの
教官には油をしぼられた、という「宙返り事件」も、この頃のことです。

クラスの誰かが「ながせばはないことながら・・」と失言するや、
それが瞬く間に流行語になったりするようないかにも伸び伸びとした日々、
それが六七期飛行学生の送った少尉生活でした。


飛行機乗りは戦死や事故による殉職が特に多い配置です。
67期の飛行学生には、プロペラに頭を刎ねられ死亡した者が一名います。

そして開戦するや、笹井中尉のいた三十五期戦闘機班は全員が戦死、
艦攻乗りの肥田真幸大尉のいた陸上機班も、45名中40名が戦死しています。



しかし、このような青春を思う存分満喫する時間が、若い彼らにあったのです。
平和の時代に歳を重ねたかつての67期生徒たちが、
「それでも人生で最もあのころが楽しかった」と口を揃えていう、輝くようなときが。