ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

海軍兵学校同期会@江田島~「米軍機搭乗員の飛行靴」

2015-01-08 | 海軍

江田島の海上自衛隊第一術科学校で行われた海軍兵学校同期会の
「解散式」江田島ツァー、続きです。

この期生は終戦時兵学校生徒として在学していましたが、
この江田島ツァーの前夜行われた懇親会でもわかったように、
大所帯の学年で、江田島だけでなく分校に分かれていました。

兵学校生徒の学年数が時節の影響を受けて増え出すのは、
昭和10(1935)年以降のことです。
一学年が1000人を突破するのは昭和17年、昭和20年度の入学者は
4000人を超えていました。
 
このため分校を開校する運びとなったわけですが、
最初の分校は、現在海上自衛隊及び米軍海兵隊の基地となっている
岩国航空隊が、まずその場所として選ばれました。

それまで江田島にいた1号生徒73期の160名、2号生徒230名が
このときに岩国に移されたのです。
このときに入校した75期3480名の入校式は、大講堂に
全員が入らないため、校庭の「千代田艦橋」前で行われました。

今は撤去されてありませんが、昔は「いそなみ」の主錨があった場所に
「千代田」の艦橋が号令台として置かれていたのです。

入校式を終えたうち300名の生徒はそのまま岩国に移動しました。

そして、76期と77期、この学年の試験は昭和19年7月、
同時に行われて一挙に7,300名が採用されました。

7,300名!

つまり、一挙に採用して、生年月日を昭和3年4月以前と以後で分け、
76期、77期に振り分けたというわけです。


この学年は昭和17年以降の大量採用の真っ只中の在校生で、
だからわたしなど、

「この時期の兵学校生徒といっても玉石混合なのではないか」

などと失礼なことを今まで思っていたのだけど、実際に会に参加し、
その生ける証拠を目の当たりにして思わず

「すみませんでした!」

と土下座してしまうくらい彼らの戦後は錚々たるもので、
もちろんご本人たちの苦労や努力あってのことだったとはいえ、
戦後日本を牽引して繁栄を作り上げてきたトップ集団にいた、

という話を一度ここでしたかと思います。



とはいえ、急激に、千人単位で増えた生徒に対応ができるはずもなく、
折からの戦局の悪化もあって、物資面であまりにも困窮したことで、
指揮官を育てるための「ジェントルマン教育」は実質行き渡りませんでした。

戦局の悪化は、実務重視、即戦力にのみ目標を置くがごときとなり、 
江田島の誇りとも言える指揮官育成のための精神教育は二の次となり、
さらに三学年制となり、一号生徒の卒業時期は繰り上げられ、

十分な教育も訓練もされないまま、最後の頃の兵学校とは
ただ戦場に送り出すための人材即成機関のようになっていたことは否めません。

そんな時勢の中、少年たちは海軍兵学校への憧れを持って入校してきました。
憧れの遠洋航海、憧れの短剣、憧れの赤煉瓦。 

海外への遠洋航海は67期のハワイ航路で最後となっていましたが、
せめて腰に短剣を吊り、赤煉瓦の校舎で学ぶ自分を夢見ていた生徒の
多くが、分校勤務を命じられ落胆したと言われています。

しかも最後の77期生徒は、海軍士官の象徴の
短剣すら支給されず、
上級生のを借りて大講堂にすし詰め(雨だったので)の入校式を行う、

といった有様だったのです。


そして、終戦と同時に学業半ばで兵学校から去ることになったのでした。 



「大量採用・中断組」は
本当の江田島教育を受けていない、
と戦後「レッテル貼り」されて、
唇を噛んだ元生徒も
今回江田島を訪れた中には、もしかしたらいたのかもしれません。


しかし、戦局厳しく、呉上空にも米軍機が飛来するようになっても、
ここでは海軍軍人の基礎訓練として、入校と同時に短艇(カッター)
訓練は何をおいても行われていました。


戦艦「陸奥」の砲塔、「梨」の高角砲や魚雷発射管が展示されている
江田島湾を望む埠頭の並びに、短艇の吊るされたボートダビッドがあります。



こうやって見ると、張られたロープは完璧に並行線を描き、
その先できっちりと撓みなく巻き取られ結び付けられており、
現在の幹部候補生学校での短艇訓練も、海軍の頃からのやり方通り、
整然と行われているのが伺い知れます。



ボートダビッドの下で江田島湾を眺める元生徒のご令室。
(お一人なので未亡人かも)

彼女の足元に白い楕円が描いてありますが、これはおそらく
ボートを上げ下ろしする際にこのサークルの中に立つ、
みたいに決まっているのかと思われます。



学校時の短艇訓練は、号令により生徒はまず短艇に乗り込み、
それからボートは海面に降ろされます。
そして教官か一号生徒・最上級生の号令で櫂をを構え、
一斉に漕ぎ始めます。

最初にこの訓練が始まると、臀部の皮膚は座席との摩擦で皮膚が裂け、
白い作業着が血まみれになるという話を読んだことがあります。
海軍ならではの厳しさだろうと思っていたのですが、某大卒業生の口から

「皮がむけたお尻に互いに夜赤チンを(という時代の人)塗りあった」
「剥けてベロベロになったところがまた訓練でまた剥けて」

というホラーな話を聞いて以来、その伝統は連綿と現在の海上自衛隊に
受け継がれているらしいと知りました。



兵学校を撮ったことで有名な写真家、真継不二夫氏の作品には、
夕靄に煙るこの表桟橋付近を歩く作業着の学生たちの姿と共に、
沖を航行する当時の船舶が映し出されているものがあります。

明らかに現代のとは違う形とはいえ、同じ江田島湾を
一般の船が行き交い、やはりその湾内に若々しい生徒の
短艇を漕ぐ掛け声が溌剌と飛び交っていたのであろう瞬間が、
ここにこうやって立つと、ありありと想像されます。



その真継氏の写真に残る短艇訓練において皆が操るオールは

普通の木製に見えますが、どうもこの写真によると
現代のオールは素材がファイバー入りとかになっているのか、
細くて軽そうです。
海中に落としても見つけやすいようにか、赤い色がつけられています。

当時のカッターは長さ9メートル、幅2.5メートル、深さ0.8メートル、
重量は1.5トンとされました。
重量は随分軽くなっていそうですが、大きさは同じではないでしょうか。

毎年5月には三週間の「短艇週間」という集中時期があり、
この期間はたとえ雨天でも中止されない猛訓練が課されました。

そして、宮島遠漕というレースは、ここから宮島まで(!)
だいたい1時間半漕ぎ続けるという猛烈過酷なものでした。

短艇を繰ることは海を仕事場とする海軍軍人の基本。
力任せではうまく進まず、同乗者との息をぴったりにしないと
いい結果は残せない、つまり集団でことに当たる、
「船乗り精神」も学ぶことができます。

今でも防衛大学、そしてここ幹部学校ではカッターが必須ですが、
実際に現在の自衛隊で手漕ぎボートが実際に投入されることなど
まずありません。

なのになぜカッターなのか。
それは、何人かで一つの船を操ることで知る真の意味での
共同作業と、生身の人間では海の上で思うようにならない、
太刀打ちできない、ということを体に叩き込むためという説があります。

昔とは違って、今は海面に降ろしてから乗り込むようですね。


さて、この兵学校クラス会の後、わたしたちは縁あって、
ある元生徒にご交友を頂く僥倖に恵まれました。


ちなみに後日お宅に遊びにいったあと伺ったのですが、この方は、
実はこの大量採用の大人数クラスで、3号が終わった時
ハンモックナンバーが
5位だったということです。
それはどうしてわかったかというと、全てが序列で決まる兵学校、

3号が終わって2号になったとき、この方は

「501分隊の先任」

つまり、上から5番目であったことがこれに歴然と現れていたからで。

「ぼくは人生で後にも先にもあの一年ほど勉強したことはない。
皆が週末に倶楽部(民間の下宿)に行っているときにも
一人で自習室に残って勉強していたんです。
平日はどんなに頑張っても皆と同じだけの時間しか取れないから」

だから一目そのハンモックナンバーの書かれた資料をこの目で見たい、
と「わたしに」おっしゃったのですが、この話はまた別の機会にして、
その優秀な生徒さんが、この岸壁にいるときにある話をしてくれました。

それを書く前に、また例の「兵学校の七不思議」に戻ります(笑)



あれはいちいち話のツメが甘くて怪談話としてもイマイチだったろ?

とおっしゃる方、わたしもそう思いますが、話の構成上仕方無く。
 
七不思議最後はこういうものです。

7.砲術科講堂(「陸奥」主砲塔の並びにある建物)沖の海面 
 帝国海軍の煙管服を着た人影が多数浮かぶ。 
 兵学校沖で大破横転した艦の戦死者の霊が彷徨っているのかも知れない。


江田島湾が空襲に遭ったのは昭和20年、複数次にわたります。
この江田島近辺で「大破横転」した軍艦は全部で5隻。
まず「榛名」「 出雲」そして標的艦だった「摂津」。

いずれも多くの乗組員が戦死しているのですが、
「兵学校沖で大破着底した船」とは重巡「利根」と「大淀」です。


それにしても文中の「煙管服」、七不思議にしょっちゅう出てくるのですが、

そもそも煙管服というのは、炭をボイラーに放り込むための、
主に日露戦争当時の缶焚き(機関室)勤務の「つなぎ」です。
動力が重油に変わっても「掃除の時に」着用されていたそうですが、 
どうしてことごとく機関室の掃除の格好の幽霊ばかりが出るのかとまず疑問。
しかも日露戦争・・・。




ところで、元兵学校生徒の重大な歴史的証言を聞いてみましょう。
この方が戦後あるところに書かれたエッセイからです。

「自ら江田湾に座礁し砲台と化した巡洋艦、利根、
大淀と敵機の戦闘だった。
しばらく続いた戦いが終わってふっと静かになった時、
大勢の血みどろの負傷兵が運ばれてきた。
翌日、何事もなかったように晴れ渡って穏やかなポンツーン
の傍に、遙か太平洋を越えて渡ってきた高級な飛行服が
一つ半長靴を履いて浮いていた。」




「利根」と「大淀」は、兵学校の対岸である能見島側に、
3月の空襲で損傷を受けてから移動してあったのですが、7月24日、
そして7月28日の空襲の時には「浮砲台」となって米軍機動部隊と
激しく戦闘を行いました。

空母からやってくる艦載機は、目標地点上空に飛来すると、
空戦そのものはたった「4~5分」しか行わず、爆撃機は一度投下したら、
銃撃は行わず空中で待機して、全機揃って帰っていきます。
そしてそのあと「第二波」がやってくる、といった具合だったそうです。

兵学校の岸壁に挙げられた遺体は、その時に艦砲射撃によって
撃墜されて飛行機ごと江田島湾に墜ちた飛行士のものだったようです。


帰りのバス車中、後ろの席に座った同期生同士でまたその話が始まりました。

「あ、それ俺も見た」

ほとんどすべての兵学校の生徒たちにとって初めて見る敵国兵の戦死体でした。
片方だけの半長靴は新品らしくピカピカで、大変上等に見えたということです。
水揚げされた米兵を、皆が遠巻きに見るようにしていた中、
(兵学校生徒は立ち止まるどころか、視線を落とすことすらを許されず、
行進しながら目の端でで見ていたらしい) 兵学校の内勤をしていた女性が
ためらわずに屍体に触れ、運搬の用意を始めたのを見て、 

「女の人は強いなあとそれを見て思った」

と、先ほどとは違う生徒が、まるで昨日のことのように話していました。



ちなみにこの空襲で大破した「榛名」は、迎撃の際、B24「タロア」と
同じく「ロンサムレディ」を撃墜しており、この時に捕虜になった
「ロンサムレディ」の乗員は機長以外、全員広島の収容所に移されて、
10日後の原爆投下で全員死亡した、という話を当ブログで扱ったことがあります。

Bー24リベレーター ロンサムレディの乗員」 



さて、所詮面白おかしく(怪談だからちょっと違うかな)語り伝えられる
「七不思議」とはいえ、整合性がないと「真実味」とか、何より
(幽霊話に真実味もへったくれもないだろ、って?まあまあ) 
怪談としての精彩を欠き、あまり怖がる気にもなれないわけですが、
今後、もし、

「飛行靴を片方だけ履いたアメリカ兵の幽霊が岸壁に立つ」

という「不思議」が加わるようなら、
これだけはわたしが出処を保証しましょう。



元生徒はこの飛行士について話し終えた後こう言いました。

「アメリカに生まれた若者が、わざわざこんなところで
撃墜されて
屍体になって・・。
この男にも家族がいるんだろうにと考えましたね。
ちゃんと見られなかったので顔は覚えていませんが、
あの上等の飛行靴だけはは今でもありありと思い浮かびます」





続く。 


 

 



最新の画像もっと見る

27 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
カッターについて (お節介船屋)
2015-01-08 20:04:27
エリス中尉が記述された主要寸法、排水量とおり、現在も変わりません。昭和の終わり頃材質が木からFRPになっただけです。重量は木もFRPも同じにしてあります。
一部木の部分もあるようですが?
写真のC5170が平成3年頃、C5221が平成14年頃の製造と思います。
たしか静岡県の岡村造船の建造と思います。
外板は鎧張りと言う構造で木の時は一枚ずつ張っていたのですがFRPは雌型に繊維と樹脂で整形し、抜きます。
オールは昔は木でささくれだったり、折れたりしましたが現在は?ただ軽くはないと思います。
返信する
カッター! (雷蔵)
2015-01-09 05:44:17
砲術科講堂や魚雷発射管の写真が出て来るので、ポンド地区(ダビット)は出て来るのかなぁと思っていましたが、出ましたね!

カッターは、人の性格が見られる?面白い乗り物です。某大や江田島にある9mカッターは12人で漕ぎますが、全員のオールが水を叩くタイミングが正確に合わないとうまく進みません。遅れて叩くと逆に抵抗力になってしまいます。

船首の漕者がバウ、船体中央部は推進力を生み出すのでエンジン、船尾はペースを刻むストロークと呼ばれています。エンジンはたいてい背が高くて、力がある人。バウとストロークは小さい人。ストロークはさらにリズム感がいい人を当てます。

カッターは船尾に艇指揮と呼ばれる号令を掛けてリズムを取る(漕がない)人が座り、漕者は皆、艇指揮を見ながら(要するに進行方向に向かって後を見ながら)漕ぎます。船首に行くに従って座る位置が高くなっているので、全員が艇指揮とストロークを見ながら漕ぎます。バウは多少さぼっても、他の漕者には見付かりませんが、艇指揮にはバレバレです(笑)

逆にストロークは全員に見られているので、手を抜くと一目瞭然です。そのため、小さくてリズム感があり、持久力がある人を付けます。全員のペースを刻むのが役目ですが、推進力には、大きくは、寄与しません。

ストロークはある意味、孤独です。ストローク以外の漕者は他人がどれだけ頑張っているか見ながら漕げますが、ストロークは漕がない艇指揮しか見えません。自分はペースメーカーだし、他の全員に見られているから、手は抜けません。きついとついつい人の本性として、自分だけが頑張っているんじゃないのかなぁと不安な?気持ちになることもありますが、そんな邪念に捉われて手を抜くと、他の全員に罵倒されます(笑)

カッターが精神力?を付けるのにいい点は、このように「全員がお互いに影響力を行使し合いながら漕ぐ」ところと「全員が後を向いて漕ぐ」ところだと思います。後を向いてひたすら漕ぐので、ゴールは見えません。艇指揮が「櫂上げ」と言わない限り、漕ぎ続けなければなりません。そこら辺が陸軍の体力練成イベント「行軍」とは違って人間の本性に根差した海軍の嫌らしいところ(笑)なんじゃないかと思います。
返信する
海自と帝国海軍 (浜風)
2015-01-09 19:31:35
いつも楽しみにしながら拝見しています。
私も以前貴女様と同じような想い、視点で帝国海軍や海自に持っていましたので、親近感を持って読ませても頂いています。

私の考え、意見となるのですが、海自と帝国海軍は、似て非なる組織であり、海自が継承してる伝統は極めて形式的であり、本質的かつ継承すべき伝統は継承してない、または、継承したくても出来ていないと思います。
その原因の一つは、海自が名実ともに軍隊ではないからであり、これは政治ひいては国民にその原因、責任があります。

海軍士官であり、海自では将官までつとめた私の祖父や有名な方では兵学校主席で海幕長までつとめた中村氏も言われていましたが、海自奉職中に自分が海軍士官であることの誇りを感じたのは、アメリカ滞在中及び米軍をはじめとする諸外国軍と交流した時だけであると。
軍隊、軍人としての名誉や処遇は与えず、任務や責任だけは軍隊と同様であるという無茶苦茶な組織に、帝国海軍をダブらせて見たり、本質的な継承すべき伝統を継承することを求めるのは無理があると思います。

私が子供の頃に、招来祖父と同じように海軍に入ると言った際に、祖父が今は海軍はないし、海自は海軍ではないし、帝国海軍的な雰囲気や文化を期待しても海自には無いか形骸化してるから止めた方がいいと言われ幼いながらショックを受けましまたが、実に真実であると今は思っています。

帝国海軍には当然反省すべきことや継承してはならない文化、問題点は沢山あります。
帝国海軍が今にあれば、おそらく戦前の帝国海軍とは大きく変質していると推測されます。
保守的考えはありましたが、極めて変化と自己の組織を客観的に捉え、時代、目的にあわない事柄、伝統は躊躇なく改めるという事を美風にしていた組織ですから健全な組織運営がされていれば、今の海自以上に昔の帝国海軍の面影を見出すのは難しいくらい変格した組織になっているはずであり、同時に本質的かつ重要な文化、気風はしっかりと受け継いでいるとも思います。

海自が本当に実質的な意味で海軍であろうとし、また帝国海軍の後継者たらんとするならば、改めるべき問題や文化、伝統があるならば、ちょうちょせず改める気風と、階級の差なく言いたいことが自由闊達に言え、品性を重んじユーモアを大事にするということですが、いずれも海自にもっともない、または形式化、形骸化した気風、文化となっており、残念でなりません。

私は横須賀在住ですので、毎日のように海自を見ますが、だらしなく突っ立てるか私語ばかりの警衛、ポケットハンドしながら歩いたり、敬礼をしない曹士とそれを指導しない幹部。
米軍基地のゲードで、海自の基地のようにいい加減に、なあなあにして入ろうとして、米軍の衛兵に礼を尽くさず注意され、基地に入れてもらえない海自隊員の姿も珍しくありません。

書き出すときりがありませんが、海自よ、しっかりしろと声を大にして言いたいことばかり目にします。
返信する
コメント (エリス中尉)
2015-01-09 20:33:26
お節介船屋さん

船屋さんはこんな小さい船にも詳しくてらっしゃるんですね。
昔はオールのささくれで棘が刺さったりしたものなんでしょう。
FRPは今の掃海艇にほぼ全ての部分で使われているようですが、これも良し悪しで、
前タイプの掃海艇に使う金属なしの艦体を作る技術が無くなってしまうという話もありました。


雷蔵さん

「力を合わせなくてはいけない」というのは誰にでもわかりますが、「自分がストッパーになる」
という恐怖もあったとまでは知りませんでした。
これこそやった者にしかわからない世界ですね。
しかも、どこに行くかわからないけどとにかく漕ぐ。行き先も何も考えずに漕ぐ。
陸海空どこにいくかもわからない防大生、幹部候補生にカッターをさせるというのは
まさにカッターでしか得られない教訓を含むからなのだとよく分かるお話です。

浜風さん、初めまして。

「継承したくてもできていない」
厳しいお言葉ですが、義務と責任だけ追わせて名誉とそれなりの待遇を与えようとしない、
それはまさに我が意を得たりで、全く同感です。

以前お話しした元陸幕長は、「どうしてわたしがMに勤めないといけないのか。
外国の軍隊のように退職後の手当てを現役時代への慰労として与えられないのはなぜか」
とかなり憤っておられるやにお見受けしました。

しかし、そういったことどもが結局どこに起因するかというと、わたしに言わせれば
「自衛隊が憲法違反であるままである」というところなんだと思います。
集団的自衛権だって、「それより自衛隊という組織をきちんと『軍』にするのが先だろう」
(名称はともかく)と思っています。

浜風さんから見てたるんでいる海自隊員ですが、戦後の日本がそういう海軍と別の「何か」を
作らざるを得なかったのだとは考えられませんでしょうか。




返信する
海上自衛隊は (雷蔵)
2015-01-09 20:49:36
同じ任務に従事する者として、先輩たる海軍に敬意を払い、その伝統を継承している部分はありますが、海軍の継承者ではありません。

警衛がだらしなくても、海上自衛隊には国民の血税で作られた艦艇を爆沈させる不届きな隊員はおりません。
返信する
陸奥? (エリス中尉)
2015-01-09 21:16:17
もしかしたら「陸奥」のことを言っておられるのですか?
もしそうでしたら、「陸奥」の爆発原因は未だに解明されておらず、「誰かが爆発させた」
というのは幾つかある仮説の一つに過ぎないとだけ言っておきます。
返信する
掃海艇について (お節介船屋)
2015-01-09 21:19:55
過去日立造船神奈川と日本鋼管鶴見で建造していました。
毎年2隻の時代は船大工さんも多くいましたが、これが1隻になり2~3年に1隻となり、造船所も商船建造が減少し合併再編の時代になりました。
ユニバーサル造船京浜となり、鶴見のみの建造所となりました。
遂に船大工さんも少なくなり、大型木造船建造技術の継承が出来なくなりました。修理は曲がりなりにも実施していると思います。まだ10数隻の木造掃海艇がいますので。

現在はJMU鶴見でFRPとなっておりますがカッターや漁船のように雌型建造ではありません。
見学した事もありませんので、雑誌「世界の艦船」の受け売りですが大型なのでサンドイッチ工法と言って組み立て建造です。

前掃海艇も金属は多く使用していました。
木材を止めるボルト、コウチスクリュー、ビス等は真鍮、手すりはアルミ、チェ-ンはステンレス鋼等非磁性金属ですが。
ちなみにエンジンは三菱重工業相模原製の掃海艇専用機関で、非磁性率90%と聞いています。
FRP掃海艇の同様の非磁性金属を多く使用しているものと思います。

船屋として大変残念なのはこの木造大型船建造技術がなくなり、船大工さんは川船を数人で継承されている方は居られると思いますが大型船の船大工さんは現存されていても全く需要がないので、商船の内装に回られて継承もされなしい、育てる事も出来ない事です。
返信する
だらしなさ (浜風)
2015-01-10 10:31:00
エリス中尉

レスありがとうございます。

戦後日本は、物のの見事に、少し離れた距離で見ると完璧な軍隊に見えるけど、軍隊とは似て非なる組織を作り上げたと思います。

だらしない隊員は、擬似海軍であるからとも思いますが、3自衛隊の中で頭を抜いてだらしない隊員が多いのが海自ですから原因は他にもあるかもしれません。
私見ですが、単純に指揮官及び上級の海曹の指導不足が主たる原因だと思います。※警衛がだらしないのは、横須賀基地と自衛艦隊司令部がある基地であり、このような高級司令部の警衛がだらしないのは、全海自がだらしないと宣伝してるに等しいことでしょう。

例えば、敬礼を挙げるならば、欠礼するケースがある。→指導する→改善されない。又は指揮系統が違う場合は、直接指導はせず、指揮系統上の上官なり部隊に通報するが、煙たがられ、事後、しなくなる。→敬礼しないのが当たり前になる。という構図だと思います。

部隊にいけば楽になる。これは3自衛隊に共通して言われることですが、ようは面倒なことは形骸化させてやらなくていいようにし、自分たちが楽に過ごせるようにしてしまった結果が、だらしなさ、軍隊としての非常識さになったのだと私は思います。

真夏に暑いからといって上半身裸になる警衛とそれを誰も注意をしない組織。全てがこれしきとは言いませんが、帝国海軍の伝統継承どころか、最低ランクの組織のような有様になっており、由々しき事態です。。。
ちなみに、横須賀では防大生も非常によく見かけますが、背を丸めて自信なさげに歩く姿、制帽をアミダ被りする学生、上級者にタメ口または軽口をきく下級生などが散見され、街には多くの陸、海の隊員がいて防大生を見ているにも関わらず、気にもしない未来の幹部の卵たち。
隊員が防大出の幹部をバカにするのはもっともです。

一見ちゃんとしているが、実はだらしなくて実力がない。こんな部隊をパレード部隊といいますが、まさに自衛隊を軍隊にせず、似たような組織にしたまんまでいる自衛隊は、極論的ですが、全てがパレード部隊なのかもしれません。

余談ですが、所用で習志野駐屯地に行ったことがありますが、警衛の隊員が、完全装備で微動だにせず厳正に服務しており、駐屯地に入ると、ピリっ、キリッとした雰囲気が充満し、隊員もキビキビしていて、横須賀の海自隊員や防大生では見られない光景で溢れており、まるで自衛隊ではないようでした笑
返信する
火災 (浜風)
2015-01-10 10:38:27
書かれた意図がわかりませんが、

無許可で持ち込んだ冷蔵庫があろうことかCICで発火し、火災となり、あわや廃艦になりかけた事件は記憶に新しくあります。

警衛がだらしない軍隊などありえません。警衛が全てではありませんが。。。
返信する
お節介船屋さん (エリス中尉)
2015-01-11 16:19:45
以前掃海艇のFRPについて調べた時にそのようなことを知ってブログにも書いたことがあります。
船大工によって継承されていくべき技術が科学の進歩によってその受け手がいなくなる、
これはあらゆる分野に見られる淘汰の現実ですね。
一度途絶えてしまうと技術というのは消えゆくのみなので「仕方がない」という言葉で
済ませてしまいたくはないものですが・・。
返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。