イスラーム勉強会ブログ

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心の強化プログラム【3】

2015年08月13日 | 心の強化プログラム
断食をするにあたっての困難をどのように耐え忍ぶかについてと、残っている質問の回答を行います。

前回まで、”断食における効用”を見てきましたが、やはり、断食には困難が伴うものです。

ムスリムの中には、体力の問題ではなく、意志の弱さのために断食に耐えられなくなって、食べてしまう人がいます。そういうことがないよう、意志を強くするための考え方を持つべきです。

私たちの日常生活の中で、目的のために何かを犠牲にするということはよくあることです。例えば、父親が大好きな妻や子どもを置いて、生活の糧を得るために遠くに旅に出るという困難に耐える場合があります。人間は、代償がないなか耐え忍ぶことができません。

さきほどの父親のように、断食する人は、断食を耐え忍べば報奨があるという確信があるため、飢えや喉の渇きを耐えしのげるようになります。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)の言葉に、断食の報奨がとても大きいことを示すものがあります。アッラーに代わって彼(アッラーの祝福と平安あれ)が語られた、ハディース・クドゥスィー:《断食はわれのためであり、われこそがそれに報いる。》→善行の報奨は通常、10倍になりますが、断食は数が決められておらず、アッラーが御好みに応じて倍加してくださる、つまり無制限に増えるということです。

断食は、他の崇拝行為に比べて報奨が多いのには理由がありますが、それは、それが隠れた崇拝行為だからです。例えば、礼拝は他人に見えますし、ザカーも、受け取った人がいくらもらったか分かりますが、断食は、した本人とアッラーにしかわかりません。

表面的には、のどが渇いて辛そうかもしれませんが、彼の心の中では、約束されている偉大な報奨で喜びに満ちていて、それが原動力になっているかもしれないのです。

断食の初心者などは、他の人よりも断食をより困難に感じるでしょうが、その分報奨が多いです。それは、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)がアーイシャ様(彼女にアッラーのご満悦あれ)に次のようにおっしゃった通りです:《あなたの困難に応じて、あなたの報奨は多くなります。》

学者たちは、断食に耐え忍んでいることを表に出さないことを奨励しています。自分がこれだけ頑張っていること、苦しんでいることを人に知らせない方がいいとうことです。そうしたからといって報奨が無くなるわけではありませんが、断食は、自分とアッラーとの親交を他人に知らせてしまうことで、また、アッラーとの内面的なつながりを人にさらけ出してしまうことで、”アッラーとつながっている”という感覚が少し薄れてしまうことになってしまいます。

ここからは、皆さんからの質問に答えます。答えきれない分は、次回以降に延ばします。

質問:いろいろある宗教はすべて善へと誘うものですが、なぜイスラームでないといけないのか、なぜイスラームを信じなければならないのか。

答え:まず、イスラームという単語の意味の解明をします。イスラームとは、”完全なる服従、帰依”を意味します。

つまりムスリムは、”己の創造主に完全に服従する人”のこと意味します。

イスラームの元になっている、”アスラマ”という動詞は、”完全にまかせる”という意味を持っています。

注意していただきたいのは、イスラームという言葉が、ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ)の時代に生まれたわけではない点です。アラブ人なら、イスラームが、単なる宗教の名前ではなく、もともと語源的な意味を持つことを知っています。しかし問題は、後世になって、外国の人たちが入信することによって、単なる宗教の名前・固有名詞のようなものになってしまっていることです。実際にはそうではなく、イスラーム以前のさまざまな天啓宗教にも、イスラームという名前が使われていたのです。

預言者ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ)以前のさまざまな預言者たちによってもたらされた天啓宗教は、しもべたちのアッラーに対する完全な服従・帰依という意味でイスラームという言葉を使っていました。

أَمْ كُنتُمْ شُهَدَاءَ إِذْ حَضَرَ يَعْقُوبَ الْمَوْتُ إِذْ قَالَ لِبَنِيهِ مَا تَعْبُدُونَ مِن بَعْدِي قَالُوا نَعْبُدُ إِلَـٰهَكَ وَإِلَـٰهَ آبَائِكَ إِبْرَاهِيمَ وَإِسْمَاعِيلَ وَإِسْحَاقَ إِلَـٰهًا وَاحِدًا وَنَحْنُ لَهُ مُسْلِمُونَ

「ヤァコーブが臨終の時,あなたがたは立ち会ったか。かれがその子孫に向かって,「わたしが亡き後,あなたがたは何に仕えるのか。」と言うと,かれらは,「わたしたちはあなたの神,イブラーヒーム,イスマーイール,イスハークの神,唯一の神(アッラー)に仕えます。かれに,わたしたちは服従,帰依(ナハヌ・ラフ・ムスリムーン)します。」と言った。 」(雌牛章133節)

رَبَّنَا أَفْرِغْ عَلَيْنَا صَبْرًا وَتَوَفَّنَا مُسْلِمِينَ

「主よ,わたしたちに忍耐を与え,ムスリムとして死なせて下さい。」(高壁章126節)

使徒ムーサーの言葉。
قَالَ الْحَوَارِيُّونَ نَحْنُ أَنصَارُ اللَّـهِ آمَنَّا بِاللَّـهِ وَاشْهَدْ بِأَنَّا مُسْلِمُونَ

「弟子たちは言った。「わたしたちは,アッラー(の道)の援助者です。わたしたちはアッラーを信じます。わたしたちがムスリムであることの証人となって下さい。」」(イムラーン家章52節)

過去の使徒・預言者たちが、イスラームという言葉を使ったことがわかるアーヤは、ほかにもたくさんあります。

イスラームというのは、創造主アッラーの命令に完全に従って帰依するということです。”さまざまな使徒・預言者を遣わし給うて、私たちがアッラーに完全に従うために道標となる啓典をくださったアッラーに完全に従う”、ということを示しています。

イスラームというのは、宗教の名前ではなく、唯一神アッラーに完全に従うという意味を持つ言葉なのです。

以下の2点をもとに、解明を続けます。

1. 天啓宗教の中でなぜ預言者ムハンマド様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)の教えなのか?

2. 天啓宗教以外の、人間が作った宗教ではだめなのか?

1について。簡単に言うと、イスラームは、ユダヤ教とキリスト教を否定するものではなく、補完するものであるということです。なぜなら、ユダヤ教とキリスト教には、後に来る使徒(ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ))に従えとの教義があるからです。

根拠:「وَرَحْمَتِي وَسِعَتْ كُلَّ شَيْءٍ ۚفَسَأَكْتُبُهَا لِلَّذِينَ يَتَّقُونَ وَيُؤْتُونَ الزَّكَاةَ وَالَّذِينَ هُم بِآيَاتِنَا يُؤْمِنُونَ الَّذِينَ يَتَّبِعُونَ الرَّسُولَ النَّبِيَّ الْأُمِّيَّ الَّذِي يَجِدُونَهُ مَكْتُوبًا عِندَهُمْ فِي التَّوْرَاةِ وَالْإِنجِيلِ」

「またわれの慈悲は,凡てのものにあまねくおよぶ。それ故われは,主を畏れ,喜捨をなし,またわが印を信じる者にそれを授けるであろう。かれらは文字を知らない預言者,使徒に追従する者たちである。彼はかれらのもっている(啓典)律法と福音の中に,記され見い出される者である。」(高壁章156~157節)

なぜ、ムハンマド様(アッラーの祝福と平安あれ)の教えに従うよう呼びかけるのか、というと、イスラームが天啓宗教最後の教えであり、それ以前の教えは、最後の教えを信じるように呼びかけているためです。イスラームを信仰する上で重要な点として、ムスリムは、以前のすべての使徒・預言者たちを信仰しなければなりません。そのため、私たちは、以前の天啓宗教を否定しません。しかし、それらの宗教の中でも、イスラームを最後のものとして信じるよう命ぜられているので、イスラームへと誘うのです。

「الَّذِينَ آتَيْنَاهُمُ الْكِتَابَ مِن قَبْلِهِ هُم بِهِ يُؤْمِنُونَ」
「われがこれ以前に啓典を授けた者たちはよく信仰している。」(物語章52節)

「وَإِذَا يُتْلَىٰ عَلَيْهِمْ قَالُوا آمَنَّا بِهِ إِنَّهُ الْحَقُّ مِن رَّبِّنَا إِنَّا كُنَّا مِن قَبْلِهِ مُسْلِمِينَ أُولَـٰئِكَ يُؤْتَوْنَ أَجْرَهُم مَّرَّتَيْنِ」
「それがかれらに読誦されると,かれらは言う。「本当にこれは主から下された真理です。わたしたちはこれを信じます。わたしたちはこの(下る)以前からムスリムであったのです。」これらの者は2倍の報奨を与えられよう。」(物語章53~54節)

イスラーム以前の天啓宗教のユダヤ教徒やキリスト教徒がイスラームに帰依すると、2倍の報奨を得る理由は、彼らが以前に天啓宗教を信じ、さらに最後の宗教であるイスラームを信じるという、二つのことを信仰するからです。

私たちが、”イスラームを信じなさい”、と呼びかけるのは、アッラーが、”そうしなさい”と命じ給うているからです。すべてのアッラーからの教えというのは、常に改定されてきていて、イスラームはその最終版です。ですから、私たちは、最終版のイスラームを信じ、広めるのです。

では、2. 人間が作った宗教ではだめなのでしょうか。

まず、イスラームの特徴を簡潔に挙げます。

1. イスラームの起源が、創造主アッラーであること。これは、重要です。例えば、ある会社を訪問する時に、直接社長に会いに行けるケースの場合、部長や課長にわざわざ会いに行きません。創造主の教えに直接触れられるのなら、わざわざ被創造物の作った宗教に触れる必要はなく、ストレートに創造主の教えに行くのが適切です。

一方、人間の作った宗教の存在は、何を示しているでしょうか。人間は、本性として、アッラーを必要としていますが、一部の人たちには天啓宗教が伝わらず、己のアッラーへの必要を満たすために、自分たちで宗教を作り上げました。もし、彼らに天啓宗教が伝わっていれば、創造主の作り給うた宗教に納得して信仰していたはずであり、わざわざ自分たちで宗教を作る必要は生まれませんでした。なぜなら、人間は本性から、強力なものを得ると、それに劣るものを選ばないからです。強いものを得たら、それに劣るものをしません。そのため、創造主につながるものを得れば、それ以外は必要としないはずなのです。

2. イスラームが、人間の生活上必要なことをすべてカバーしている。

イスラームは、単に、善行を勧めるだけでなく、現世を繁栄させることや、来世を大切にすることも説く、包括的な教えです。

イスラームが包括的、というのは個人のことだけでなく、政治、経済、社会といったすべて、現世と来世を包括しています。

イスラームの教えの中には、下品なことを言う人を非難したり、現世の糧を稼がない人を非難したり、髪を整えない人を非難するものがあり、生活のことも教えているのがわかります。

3. 現実的な宗教である。

つまり、人間が与えられている本性を尊重している点です。欲を放置せず、しつけて正しい方向に向かせることを説きます。また、実行が難しい場合は例外事項がきちんとあります。水がなくウドゥーができない場合は、タヤンムムがあったり、立って礼拝できない場合は、座ってできたりします。そのため、イスラームは、地域や時代を問わない教えといえます。

4. どこから私はきたのか?これからどこへ行くのか?という質問にイスラームは答えてくれる。

この答えは、他の宗教には見当たりません。答えていても、理性的に受け入れられないものだったりします。しかし、イスラームは、詳細に教えてくれます。

イスラームには、ほかにもたくさんの特徴がありますが、時間の都合により、終了します。

質問:ラマダーン中にやる気が落ちてしまった。いろいろな崇拝行為に励みたいが、なかなかできない。

答え:自分を奮い立たせましょう。弱気になることはいたって普通で、アッラーがその人に奮闘努力の報奨を与える機会を与え給うているということですから、自分を奮い立たせて、報奨がより多くなるよう、努力しましょう。常にやる気が向上していれば、崇拝行為は恒常化して、サクサクこなすだけのルーティーンになってしまいます。しかし減るのは、アッラーの英知なのです。

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