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心の強化プログラム【4】

2015年08月13日 | 心の強化プログラム
イードは、アラビア語で、”戻る”という意味があります。

イードに関して学者たちは言いました:イードに新調した服を着たり、お菓子を食べるのがイードではない。悔悟しなかった信徒にイードはなし。アッラーを恐れた者にこそ、イードがある。

イードという機会に、アッラーと自分の関係を見直して、来世に備えることができます。

イードの礼拝(シャーフィイー学派の場合):
ムスリムにはイードに特別な礼拝があります。2ラクアで成り立っています。日の出約30分後以降に行われます。ファーティハ章を読む前に7度のタクビール、そしてタクビールとタクビールの間に心の中でスブハーナッラー、アルハムドゥリッラー、ラーイラーハイッラッラー、ワッラーフアクバルを読むくらいの間を空けます。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、女性もイード礼拝に参加するようおっしゃいました。通常、マスジドでの礼拝は女性には求められませんが、イード礼拝は別です。

教友ウンム・アティイヤ様(アッラーの御満悦あれ)のハディースによると、成人前の女子、月経中の女性、都合により普段からあまり外出しない女性たちが、イード礼拝に出るよう命ぜられました。月経中の女性は、礼拝の場には入れませんが、イード礼拝後の説教を聞くようにと言われています。

イードの礼拝に多くの徳がなかったならば、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は普段、外出することのない女性に礼拝に出ることを命ぜられることはなかったでしょう。

また、イード礼拝会場に行けなかったとしても、家で、一人でできます。

タクビールをたくさんすることについて:
イード=ル=フィトルの場合:シャウワール月に入った時点で、タクビールを開始し、イード礼拝前まで続けます。
イード=ル=アドハーの場合、巡礼者たちがアラファから出て~タシュリークの日11、12、13日のマグリブ直前までタクビールを続けます。

お祝い時に、親戚友人を訪問したり、喜びを共有することはムスリム以外の慣習でもありますが、それをする前に、”アッラーのご満足を求める”というニーヤを持つことで、すべてが崇拝行為になります。これがムスリムの訪問の特徴です。

質問1:信仰者は、試練が多い中でなぜ幸福を感じられるのか。
答え:二つのポイント
アッラーを特別に知っている人たちは、普通の人に見えないものが見えます。
1信仰者にとって試練とはどういうものか。
2信仰者は試練に対してどのような信条を持っているか。

試練は相対的で、一つの意味ではありません。ある時期にはそれが試練と理解され、違う時期には恩恵、ある人にとっては試練、違う人には恩恵ということもあります。ルクマーンとその息子の話を例にしましょう。彼は英知のあるとして有名な人です。

ルクマーンの息子が、
「アッラーがもし、私たちに良いことだけを定め給うのなら、どうして悪いことが起こるのですか」と、たずねました。
父は、「あとで答えよう」、と言いました。

ある時、ルクマーンは息子と一緒に旅をしていたところ、息子が途中で骨につまづいて怪我をして、歩けなくなってしまい、旅を中断しなければならなくなりました。
息子は言いました。
「アッラーは、良いことしかもたらし給わないと父さんは言ったけれど、なぜ悪いことが起きたのですか。」
しばらく何日かして治った後、旅路について、目的地の村に着くと、そこには地震が起きて、地上にあったものがすべて地下に埋まっていました。
父は言いました。
「あのまま、旅を続けて、村に着いていたら、私たちは、地震にあって死んでしまったことだろう。表面的には、おまえの怪我は災難だったけれど、実際には恩恵だった。」

この話だけでなく、こういうことは、私たちの現実世界でもよくあることです。時間が経ってから、”これで良かったのだ”ということはたくさんあります。

そのことを直接的に表現している言葉がクルアーンにあります:
「 وَعَسَىٰ أَن تَكْرَهُوا شَيْئًا وَهُوَ خَيْرٌ لَّكُمْ ۖ وَعَسَىٰ أَن تُحِبُّوا شَيْئًا وَهُوَ شَرٌّ لَّكُمْ ۗ وَاللَّـهُ يَعْلَمُ وَأَنتُمْ لَا تَعْلَمُونَ」
「自分たちのために善いことを,あなたがたは嫌うかもしれない。また自分のために悪いことを,好むかもしれない。あなたがたは知らないが,アッラーは知っておられる。」(雌牛章216節)

洞窟章には、3つの物語が登場しますが、私たちが探っている意味がその中にあります。
船の持ち主の話、男の子殺しの話、崩れかかった壁をハディルが修復する話。

信仰者は、アッラーに対する信頼を持っていれば、常に幸福です。信仰者の試練というものは、常人の理解する試練と違うものです。

信仰者は、試練があるほど、アッラーに対する信頼が深まります。

預言者伝を見ると、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)が洞窟にアブーバクル様(彼にアッラーのご満悦あれ)と隠れていた時、アブーバクル様は、敵がこちらを見たら終わりだと言いましたが、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は、二人でいれば、アッラーは三人目と言って、微笑みながら、アブーバクルを安心させました。試練があっても、信頼があれば、安心感が生まれます。

信仰者が、試練の多さに関わらず感じている幸福がどこから来るかというと、アッラーに対する偉大な確信・信頼であり、それが彼の幸福の根本になっています。

試練をくださったアッラーを見ると、アッラーの偉大さを見、それからくるご褒美を考える、そのために幸福を感じるのです。

例:父親か母親が校長を務める学校に通う子どもは、学校で何かあっても校長が守ってくれるので、誰もおそれません。この世界の主であるアッラーは、信仰者の保護者です。”アッラーが常に一緒におられる、助けてくださる”という確信・信頼の例です。

2ムスリムの試練にたいする信条。
忍耐者の報奨に関するクルアーンの言葉:
「إِنَّمَا يُوَفَّى الصَّابِرُونَ أَجْرَهُم بِغَيْرِ حِسَابٍ」
「よく耐え忍ぶ者は本当に限りない報酬を受ける。」(ズマル章10節)

ムスリムは、”試練があっても忍耐すれば、計り知れない報奨がある”と確信しています。

”ご褒美がもらえる”という確信が幸福感をもたらします。

例え話:ある女の人が指を切ってしまいました。普通なら痛いでしょう。しかし、その人は笑ったので、周りの人が驚いて言いました。「頭が狂ったのか」、と。彼女は、指を切ったことで報奨が得られると思うと嬉しくて笑ったのです、と言いました。

結論:信仰者の試練に対する態度は、そうではない人たちの態度と違います。信仰者は、試練そのものを見ず、その向こうにあるもの、その後にあるものを見ます。これに耐えれば、報奨がたくさんある、と見ます。アッラーに対する強い確信・信頼のために幸福感を得ます。

参加者からの質問:ムスリム(イスラーム教徒)とムウミン(信仰者)の違いとは?
答え:ムスリムはムウミンが到達したところにまだ到達していない人のことをいいます。
同じ意味で使われることもあります。区別される場合は、ムウミンは信仰が強まった人のことをいいます。今日の話題で使われたのはムウミンです。試練自体が、人をムスリムかムウミンかに分けます。ムスリムは耐えられないが、ムウミンは耐えられる、という形で分けます。

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