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悔い戻る者たちの道しるべ【8】-(3)

2015年11月26日 | 悔い戻る者たちの道しるべ
先生:大切なポイントがあります。姦淫のために石打ちの刑に処せられる女性とはどういう人をいうと思いますか?

司会:「私は姦淫しました」と自発的に言う人でしょうか。

先生:皆さんは、未婚の姦淫者が受ける罰が100回の鞭打ちであることをご存知かと思います。しかし既婚の姦淫者の罰は、死に至らしめる石打ちの刑です。「姦淫者に刑が執行されるのはいつだろう?」と思う人がいるかもしれません。姦淫の現場を目撃した男の4人の証人がいる姦淫者は、人々の前で、ドアを閉じず姦淫しました。ドアを閉じていれば罰を免れていたのです。つまり石打ちの刑は既婚の姦淫者のものではなく、「既婚の破廉恥な姦淫者」、「人の見えるところで姦淫する者」のための罰なのです。

司会:しかし預言者伝には、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)を訪れて、「私は姦淫しました」と言った人がいます。

先生:これは、私が話したことと矛盾しません。人間は己の罪の告白をしなければならないという宗教的義務を負いません。しかし、かの先人たちが持っていた深い篤信が彼らに罪の自白をさせたのです。普通の信徒は罪を犯したら導師に伝える義務を負っているのか、というと、答えは「いいえ」です。罪を犯したら、アッラーが覆って下ったことを受け止めれば良いのです。しかし例外が幾つかあります。私は常に法規定と例外を区別します。己の罪を自白し、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)に死に至らしめる石打ちの刑の執行を願い出たというのは、例外なのです。

司会:それは、罪の暴露と捉えられませんか?

先生:いいえ。また違うものです。信徒は取り調べ抜きに罪を自白する義務はありません。なぜなら至高偉大なるアッラーの覆いを受け入れたからです。これはしもべたちのための慈悲です。アッラーが覆ってくださったのだと感じることは、アッラーが彼にチャンスを与え給うたということなのです。

このような話が伝承されています:盗みの現行犯らしき男がウマル様のところに来て次のように言いました:「アッラーに誓って、これは初めてなのです」ウマル様:「嘘をついたな。まことにアッラーは初め(の罪)を暴露し給わない。もしかしたら8回目ではないのか。」…アッラーの人間に対する御慈悲として、アッラーは人間にチャンスを与え給います。ですから、信仰者は罪から悔悟するとアッラーが覆ってくださったと感じるのです。

とある男がウマル様に会った時の話です。彼の姉妹が姦淫を犯してしまったため、鞭打ちの刑が執行されました。そして求婚者が現れたので、兄弟である男がウマル様に助言を求めて現れたということです:「信徒の長様、彼(求婚者)に彼女の過去を話すべきでしょうか?」ウマル様:「アッラーに誓って、もし彼に話したら、お前を殺してやろう!」…以上にように、アッラーは覆うことを好み給います。私にはアッラーが覆ってくださった自分の罪をさらけ出す義務はないのです。

アッ=スィッディーク様(アブーバクル様)がミルクをを飲んで、それが合法でないお金からのものだと知ると吐き出しました。さて、吐き出すという行為は法で定められたことなのでしょうか?いいえ。個人的判断です。

ウマル様が公然にヒジュラし、多神教徒たちを挑発しましたが、これは法で定められたことでしょうか。いいえ。法規定は、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)が内密にヒジュラした際に行ったことです。もし預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)がウマル様のようにヒジュラし、多神教徒たちを挑発していたら、危険への突入を義務化し、警戒することを禁止したはずです。そして彼の共同体は滅亡することになっていたでしょう。

預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は法施行者です。私はいつも法規定と個人の判断を区別します。時に個人の判断が非常に洗練されていることがありますが、それは決して法規定ではありません。

司会:姦淫し、己に極刑を望んだ女性と彼女の悔悟について預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:(彼女の悔悟は)マディーナの住人の悔悟に相当する。

先生:それは正しいですし、個人の見解と言えます。

私たちは、ムスリム全般を対象に話しています。間違いを犯しても、法的機関に報告する必要は誰にもありません。しかし法的機関に案件が寄せられた時は違います。極刑に値する行為が報告された場合、アッラーが定め給うた刑を執行する義務が生まれます。ただ、信徒はアッラーが覆ってくださっている以上、己の罪を法的機関に報告する必要はありません。

話は変わりますが、人は「赦し」というものを知りません!誰かが公衆の面前で罪を犯した後に悔悟しても、その人の評判は審判の日まで汚れたままです。そしてその罪の面影も審判の日まで残り続けます。勇敢さとは、弱っていた時に犯してしまった罪を覆い隠すことです。アッラーに悔悟した際には、アッラーは悔悟を受け入れてくださいます。そして私の評判は無傷のまま残ります。しかし前述した例である預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)時代の刑の執行を要求した女性に関しては、彼(アッラーの祝福と平安あれ)は彼女の悔悟を大きく評価しましたが、結果的に彼女がとった立場にすぎません。すでに私は個人の立場と法の立場の違いを解明しました。

ある時、二人の教友が「嘘つきのムサイラマ」の捕虜になってしまいました。ムサイラマは自分が預言者であると主張した人物です。彼は捕虜の一人に言いました:私がアッラーの使徒であるとを証言するか?言われた教友が答えます:私は何も聞かなかった。彼の頭は切られてしまいました。もう一人に言いました:私がアッラーの使徒であると証言するか?もう一人の教友は、彼がアッラーの使徒であることを証言しました。この二つの立場について預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)は何とおっしゃったのでしょうか?彼はおっしゃいました:第一の者は、アッラーの教えを大切にしたため、アッラーは彼を大切にし給うだろう。第二の者について、皆さんどう思いますか?彼はおっしゃいました:第二の者は、アッラーからの許可を使ったのである。アッラーは彼に彼が負えないことを課し給いませんでした。それゆえ自分の宗教が原因で殺されることから自分の頭を助けることが与えられる最低限のレベルですが、真実のために己を犠牲にすることは最高のレベルなのです。最低限レベルはやむを得ないけれど、最高レベルは自発的なものです。イスラームという宗教の偉大さをごらんになりましたか?(アッラーは)あなたが負えないことを課し給わないのです。

教えは犠牲を捧げる人たち、中庸を守る人たち、優れた人たち、意志を持っている人たちを覆います。私は罪を強要され、殺されることを脅される時、ある方法もしくはその他の方法で死を免れることができます。それによってアッラーに咎められることはありません。教友アンマール様(アッラーの御満悦あれ)が不信を表す言葉を放った時、預言者様(アッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました:気にすることはない。彼らがまた戻って(同じことをして)きたら、同じことをしなさい。

アッラーは仰せになりました:
【ただし強制された者で、彼の心が信仰に落ち着いているならば別である。】(蜜蜂章106節)

これこそ、アッラーの教えです。アッラーの教えはすべての被造物を覆うのです。

またある時、私がこの出来事にコメントした際、次のように言いました。自分の信条のために命を犠牲した第一の者はとても大きな報奨を得、第二の者は報奨を得ましたが、身の安泰を望んだため、少ないです。彼らの行為に応じた位があるのです。

私たちはこの回で罪は罪であることと、罪を公にすることは別個の罪であること、アッラーはあなたの罪を隠し給い、その望み給うた叡智によってあなたに悔悟のチャンスを与え給うたことから、自分の罪を法的機関に報告する必要はないことを強調したいのです。そして私たちのイスラームには醜行の拡散という名のものも、罪の自白もないことも。罪とはそこから悔悟するためのものです。ですから人々の間に広めないのです。

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