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タウバの修正についてのメモ。

2010年05月08日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
タウバの修正についてのメモ。

今回は、アッラーへの旅の第一歩である「タウバ(悔悟)の修正」について。
タウバは「戻ること」を指す。
以下の3事項が一つになったとき、タウバは成立する。
①イルム(知)②ハール(状態)③アマル(行動)

自分がしもべであり、審判の日にアッラーの御前に立つ運命であり、それまでは短い人生を死ぬまで続ける。
この自分が人生で何をやってきたかの清算をその日に受ける。
しもべは人生の終わりには、一人でアッラーの御前に立たなければならないことを知っている。
その日、一対一だけであり、通訳者も誰も介さずにアッラーに尋問されるのだ。
そしてアッラーはその時仰せになる:

しもべよ、あの日あのときあの場所で、われがすべての戸を閉め、あなたを他のしもべたちの目から隠したときに、
おまえはわれが満足しないことをしたのではないか?
他の被造物がそれを見たとしたら、おまえは恥ずかしがったのではないか?
どうしておまえはわれを、おまえを見る者たちの中でもっとも低めてしまったのか?
しもべよ、われ以外に見られたら恥ずかしいと思うのに、
おまえはわれからは恥ずかしがらないのか?
しもべよ、われはおまえを無から創り、多くの恩恵を与えた。
そしておまえに「ラーイラーハイッラッラー(=イスラーム)」を与え、おまえの母はそれを元にして
お前を育て、立派に成人したではないか。
それなのにおまえはわれに逆らったのか?
おまえはわれの恩恵にどのように接したのか?
そしてどのように感謝したのか?
おまえはわれに近くにいれるように願ったか?

ムスリムは誰でもこのような結末を知っている。
これが、「イルム」である。

私たちが言うことはすべて記録されている。
これらを聞くと誰でも胸が締め付けられるが、
それはアッラーからの恩恵だ。

あなたは「現世の民」を見たか。
彼らのある人は高い地位に就き、ある記者は彼が言うことを書き取ったり、
彼の姿を写真に収める者もいる。
人々が驚嘆していて、皆が彼を注目しているのだ。
しかし、用が済むと、皆去ってしまう。
重要でなくなると、放置してしまう。
しかしあなたはアッラーのもとでとても大切な存在である。
だからこそ二名の天使をあなたに遣わし、
あなたが成人してから死ぬまでの間の行動を彼らはすべて記録する。
記録された書物は審判の日にアッラーの御前で広げられる。
この事実という「イルム」に、違う「イルム」が加えられる。
それは、清算後の、天国行き・地獄行きのこと。

魂が喉元に届いたときが、与えられた猶予期間の終わり。
これが自分に与えられた境遇であることを熟知すること。

以上の「イルム」を得たのちにあなたは、
「後悔の念」「羞恥の念」「辱め」
を感じないか?
昨日までアッラーに背いていたのに。
私の醜業をアッラーは御覧になり、すでに記録されてしまったのだ。
かれの御前に立つ時、そのことを尋ねられてしまうのだ。

ある男が師匠に、「アッラーは私の恥ずかしい罪を赦し給うでしょうか」と言った。
「悔悟し、行いを改めれば」と言われた男はたいそう喜んだが、またたずねた。
「しかしアッラーは、私がその行為に耽っていた姿を御覧になっていたわけですよね」
と言って師匠が「全くその通り」と答えた瞬間、
男は大声を出して、ショックのあまり、死んでしまった。

この男は自分とアッラーの関係の悪さを恥じたのだ。
また、「アッラーは罪深い私を覆ってくださった。醜悪な行いの最中もアッラーは
私を暴露し給うことなく、私を隠してくださった。それなのに自分は・・」
と感じたのだろう。

この話をもう少し分かりやすくすると。
子が親に逆らい続けていると、親は子に
「このまえあげたプレゼント没収するよ!」と言って、
子から物を取り返そうとするだろう。

しかしアッラーはそうではなく、さらにたくさんのものを私たちにくださる。
そして私たちを猶予してくださるのだ。

ある人が現れると、その人に対する好意や敬意から皆が挨拶し、
「私にドゥアーしてください」と言う人もいる。
本物のムスリムはこのように言われた時、
「恥ずかしい」「後悔」する。
何に対する「後悔」かというと、自分自身のアッラーに対する怠慢に、だ。
心の中で感じているこの後悔の念こそが、
「ハール」である。

後悔の念は、人間の心にある決意をさせる。
それは、「逆らうのをやめること」。
つまり絶対に罪に戻らないこと。
絶対今度はアッラーに背かないという決心。
この後悔の念が生まれ、イルムとハールと罪の放棄が伴えば、
タウバは成立する。

もし罪が、人の権利に絡んでいる場合は、
以上の3つに、「所有者への権利の返還」が追加される。
金を盗んだら返す。返す金がないなら、放免してもらう。
もしゆるしてもらえなかったら、問題だ。

罪は3種類に分かれる。
①赦されるもの:自分とアッラーの間の罪。
②赦されないもの:シルク(アッラーに何かを配すこと)
③放置されないもの:上で言った、他人の権利が絡んだ罪
③にはとても注意を払わないといけない。
自分の周りを見て、確認してみること。

イブン・マスウードのところに来たある男が、犯してしまった酷い罪を彼に打ち明け、
「私は赦されるのでしょうか」と言った。
それを聞いたイブン・マスウードは顔色を変え、男から背を向けて去ってしまった。
数歩歩いて後ろを振り返ってみると、男は何と泣いていた。
イブン・マスウードは男に向かい、言った。
「あなたが正直な心でアッラーに顔を向けたのなら、アッラーはもうあなたを赦してくださっただろう」

次のことを知りなさい。
アッラーは天国に80の門を設け給うた。
そのうちの一つは閉じることなくいつも開いているが、
それは「タウバの門」。

大罪にはいくつかあるが。
あなたが罪を犯した直後の感情はどんな感じか?
→罪を繰り返して犯すのは大罪であるという考え方がある
→罪を犯しても罪悪感がなく、恥ずかしいと思わないのは、大罪であるという考え方がある

例え話で説明すると:
子供が何かを壊したときに、「こら!何したんだ!」と呼びつけても、
「こわしただけじゃん!」と言って子供が逃げてしまったら、
あなたはさわに怒るのではないか?
物を壊したことに対してでなく、罪悪感のない態度が問題なのではないか?
人間が何か罪を犯しても罪悪感を持たないことが問題なのだ。
サーリク(アッラーにたどりつく道を志す者)はこうあるべきでない。
本物のサーリクは、とても小さい罪にも胸を痛める。

サラフのある人は、ブハーフ(合法のことがら)に対してもイスティグファール(罪の赦しを請う)
をしていた。またターア(崇拝行為)後にもそうしていた。
どういうことかというと、ターア達成後に、
「アッラーのおかげで自分はこれを達成できたのだ」という気持ちを
抱かなかったことに対するイスティグファールである。
またラービア・アルアダウィーヤは言った:
「私たちのイスティグファールは、イスティグファールを必要としています」
どういうことか?
「アスタグフィルッラー(私はアッラーに罪の許しを請います)」と言っても
心が同在していない。
こんな状態でアッラーに罪の赦しを請うなんて、恥ずかしい、
ということである。

以上が、タウバが示すさまざまな意味。

まず今夜から始めること。
タウバには終わりがない。
自分の間違いを知り、認め、それらすべてからタウバしよう。
タウバの意志をもって、2ラクア捧げよう。
この話を読んで満足するのではなく、
これは行動の始まりなのだ。

2ラクア捧げたのちに、今までの罪を思い出すこと。
そして死が近づいていること。
そして墓に入れられる情景をイメージすること。
そしてアッラーの御前に立つことを思い出すこと。
そこにはアッラーと自分しかいないこと。
そこでアッラーにお願いをするのだ。
主よ、あなたの御前に私がいます。弱く、罪深いしもべがいます。
私はあなたに帰ります。主よ、御赦しください。慈悲を垂れてください。

このようにアッラーに顔を向けること。
その瞬間に心に感じるものに注目しなさい。
この礼拝とドゥアーの後、
イスティグファールを習慣化すること。
毎晩できるようになれば、
「愛される者の境地」に到達できる。

إن الله يحب التوابين ويحب المتطهرين
ここのタッワービーン(ターイビーンより意味が強い)は、意味誇張の形をとっている。
そう、何度もタウバするしもべをアッラーは愛し給う、という意味。
タウバを途中でやめてしまっても、そこから再開したらいい。
しかしアッラーを弄んではいけない。
どういうことか?
「罪の後にタウバすればいいや」と考えることだ。
そして何度もあきらめずにアッラーに帰ること。

続く。

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