タブークの戦
ヒジュラ暦9年、ラジャブ月
217.タブークの戦が与えた心理的影響と、その経緯:
敵の心に恐れを投げ入れ、またイスラームは燃えて消えてしまう炎や真夏の留まらない雲のようなものだと思い込んでいる者たちの目から覆いを取り去ることが出来たタブークの戦はマッカ征服と同等の出来事でした。またこの戦は当時、最も力強くまた偉大で、隣人のアラブから恐がられていた国家との摩擦も起こしました。かつて-ローマ皇帝の-ヒラクルがドゥヒヤ・アル=カルビーが携えて来たアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の書簡に関心を持っていたこと、また彼がアラブ半島に預言者が出現することを想定していたことをアブースフヤーンが語っています:「アブーカブシャ(預言者様の乳母、ハリーマの夫)の息子の存在が大きくり、黄色の部族の王(ローマ皇帝のこと)は彼を恐れた。私は彼が現れることを確信していたが、そのうちアッラーは私の中にイスラームを入れてくださった」。
かつてのアラブ人たちはローマ帝国を襲うことなど夢にも思っていなかったし、逆に彼らに襲われることをその家の中で恐れていました。それだけ自分たちを小さく評価していたのでした。またマディーナのムスリムたちは、有事の際には、ガッサーンが襲ってきたのではと考えるのでした。ガッサーンとは、ローマ皇帝カイサルに追従していたアラブ部族です。
ローマ帝国はその完璧なまでの力でヒラクルの指揮の下イラン軍を遠ざけ、そして彼らの土地に足を踏み入れ、そしてイラン側は惨めに負けました。ヒラクルはこの素晴らしき勝利に感謝しつつ勝者、成功した指揮官である王の行列の中、ヒムスからイリヤへと向かいました。これが起きたのはヒジュラ暦7年。ヒラクルはペルシャから奪還した十字架を手にし、花が撒かれ、彼のために敷かれた敷物の上を歩きました。この勝利から二年もたたないうちにアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はマディーナからローマ帝国を目指して出発したのです。
アッラーはアラブの心深くに影響を与えたこの戦によって、アブーバクルとウマルのカリフ時代にムスリムたちがシャーム地方に攻め入りやすくしてくださりました。
また、この戦が起きたきっかけとして、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のもとにローマ帝国がアラブを攻め入る準備をしているとの知らせが入ったことが言われています。歴史家のイブン・サアドとその師匠であるアル=ワーキディーは言っています:「ヒラクルがその仲間に1年間の給与を与え、ラハム、ジュザーム、アーミラ、ガッサーンなどのキリスト教化したアラブを連れて、その先頭がもうアル=バルカーゥに到着しているとの知らせがナバテアからアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に届いたのである」。
この伝承が正しかったとしても、正しくなかったとしても、この戦の本当の目的は隣接しているローマ帝国を恐がらせることでした。その国の害がイスラームの中心地とムスリムたち、そして生まれて間もないイスラーム宣教活動に及ぶことを懸念していたためです。また、もう一つの目的は、ムスリムたちがその土地にいる中で彼らを襲うこと、そしてムスリムたちを捕虜となる富と見なすことを禁じることです。もしムスリムたちがその通りであるなら、偉大なローマ帝国に進軍し、宣戦布告することなどなかったでしょう。このことは、タブークの戦について述べられた次の聖句の中にある叡智とも言えます:「信仰する者たちよ、おまえたちに近い不信仰者と戦え、彼らにおまえたちの過酷さを見出させよ。そしてアッラーは畏れ身を守る者たちと共におわしますと知れ。」(悔悟章123節)
そしてこの目的は実現しました。ローマ軍は進軍を進軍で迎えることも、軍事行動で迎えることもなく、ムスリム軍の挑戦を前に撤退するような形となりました。これを機にローマ帝国は、この新興力に対していろいろと計算し始めました。
大胆な戦というよりもこの危険な冒険の二つ目の叡智は、アラブ半島にいるまだイスラームに帰依していないアラブの諸部族とローマ帝国に服従しているキリスト教化したアラブの心に恐怖を投げ込むこと、彼らにイスラームという教えの重要性と、それが水面に浮かんでは消える水泡なのではなく、また豊かな未来がまっていることを真剣に考える機会を与えることです。そうすることで彼らが彼らの土地に現れたイスラームに帰依する道が開かれるかもしれないからです。次の、この戦に出ていった者たちに関する聖句が以上のことを示しています:「また彼らが不信仰者を立腹させる踏み跡を踏みしめ、敵から獲得するものがあれば、必ずやその度に、彼には善行が書きとどめられるからである。」(悔悟章120節)
またローマ帝国は、目的を果たせ切れなかったかつてのムウタの戦を思い出していました。両軍ともに撤退することに満足する形で戦は終わっていました。その瞬間から、アラブの心の中のローマ帝国に対する恐怖心は弱まっていたのです。
簡潔にまとめると、この戦は預言者伝とイスラーム宣教の歴史において大きな重要性を秘めた出来事であったということです。この戦をとおして、アラブとムスリムたちから遠い存在であったいくつもの目的が実現したのです。
(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P361~364)
ヒジュラ暦9年、ラジャブ月
217.タブークの戦が与えた心理的影響と、その経緯:
敵の心に恐れを投げ入れ、またイスラームは燃えて消えてしまう炎や真夏の留まらない雲のようなものだと思い込んでいる者たちの目から覆いを取り去ることが出来たタブークの戦はマッカ征服と同等の出来事でした。またこの戦は当時、最も力強くまた偉大で、隣人のアラブから恐がられていた国家との摩擦も起こしました。かつて-ローマ皇帝の-ヒラクルがドゥヒヤ・アル=カルビーが携えて来たアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)の書簡に関心を持っていたこと、また彼がアラブ半島に預言者が出現することを想定していたことをアブースフヤーンが語っています:「アブーカブシャ(預言者様の乳母、ハリーマの夫)の息子の存在が大きくり、黄色の部族の王(ローマ皇帝のこと)は彼を恐れた。私は彼が現れることを確信していたが、そのうちアッラーは私の中にイスラームを入れてくださった」。
かつてのアラブ人たちはローマ帝国を襲うことなど夢にも思っていなかったし、逆に彼らに襲われることをその家の中で恐れていました。それだけ自分たちを小さく評価していたのでした。またマディーナのムスリムたちは、有事の際には、ガッサーンが襲ってきたのではと考えるのでした。ガッサーンとは、ローマ皇帝カイサルに追従していたアラブ部族です。
ローマ帝国はその完璧なまでの力でヒラクルの指揮の下イラン軍を遠ざけ、そして彼らの土地に足を踏み入れ、そしてイラン側は惨めに負けました。ヒラクルはこの素晴らしき勝利に感謝しつつ勝者、成功した指揮官である王の行列の中、ヒムスからイリヤへと向かいました。これが起きたのはヒジュラ暦7年。ヒラクルはペルシャから奪還した十字架を手にし、花が撒かれ、彼のために敷かれた敷物の上を歩きました。この勝利から二年もたたないうちにアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)はマディーナからローマ帝国を目指して出発したのです。
アッラーはアラブの心深くに影響を与えたこの戦によって、アブーバクルとウマルのカリフ時代にムスリムたちがシャーム地方に攻め入りやすくしてくださりました。
また、この戦が起きたきっかけとして、アッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)のもとにローマ帝国がアラブを攻め入る準備をしているとの知らせが入ったことが言われています。歴史家のイブン・サアドとその師匠であるアル=ワーキディーは言っています:「ヒラクルがその仲間に1年間の給与を与え、ラハム、ジュザーム、アーミラ、ガッサーンなどのキリスト教化したアラブを連れて、その先頭がもうアル=バルカーゥに到着しているとの知らせがナバテアからアッラーの使徒(アッラーの祝福と平安あれ)に届いたのである」。
この伝承が正しかったとしても、正しくなかったとしても、この戦の本当の目的は隣接しているローマ帝国を恐がらせることでした。その国の害がイスラームの中心地とムスリムたち、そして生まれて間もないイスラーム宣教活動に及ぶことを懸念していたためです。また、もう一つの目的は、ムスリムたちがその土地にいる中で彼らを襲うこと、そしてムスリムたちを捕虜となる富と見なすことを禁じることです。もしムスリムたちがその通りであるなら、偉大なローマ帝国に進軍し、宣戦布告することなどなかったでしょう。このことは、タブークの戦について述べられた次の聖句の中にある叡智とも言えます:「信仰する者たちよ、おまえたちに近い不信仰者と戦え、彼らにおまえたちの過酷さを見出させよ。そしてアッラーは畏れ身を守る者たちと共におわしますと知れ。」(悔悟章123節)
そしてこの目的は実現しました。ローマ軍は進軍を進軍で迎えることも、軍事行動で迎えることもなく、ムスリム軍の挑戦を前に撤退するような形となりました。これを機にローマ帝国は、この新興力に対していろいろと計算し始めました。
大胆な戦というよりもこの危険な冒険の二つ目の叡智は、アラブ半島にいるまだイスラームに帰依していないアラブの諸部族とローマ帝国に服従しているキリスト教化したアラブの心に恐怖を投げ込むこと、彼らにイスラームという教えの重要性と、それが水面に浮かんでは消える水泡なのではなく、また豊かな未来がまっていることを真剣に考える機会を与えることです。そうすることで彼らが彼らの土地に現れたイスラームに帰依する道が開かれるかもしれないからです。次の、この戦に出ていった者たちに関する聖句が以上のことを示しています:「また彼らが不信仰者を立腹させる踏み跡を踏みしめ、敵から獲得するものがあれば、必ずやその度に、彼には善行が書きとどめられるからである。」(悔悟章120節)
またローマ帝国は、目的を果たせ切れなかったかつてのムウタの戦を思い出していました。両軍ともに撤退することに満足する形で戦は終わっていました。その瞬間から、アラブの心の中のローマ帝国に対する恐怖心は弱まっていたのです。
簡潔にまとめると、この戦は預言者伝とイスラーム宣教の歴史において大きな重要性を秘めた出来事であったということです。この戦をとおして、アラブとムスリムたちから遠い存在であったいくつもの目的が実現したのです。
(参考文献:①「預言者伝」、アブー・アルハサン・アリー・アルハサニー・アンナダウィー著、ダール・イブン・カスィール出版、P361~364)
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