イスラーム勉強会ブログ

主に勉強会で扱った内容をアップしています。

ムスリムの子ども教育3~家庭の土台の作り方(3)~

2018年07月18日 | 預言者の教育方法

あまねく慈愛深きアッラーの御名において

ムスリムの子ども教育3~家庭の土台の作り方(3)~

 

ハビーブ・アリー・ジェフリー師(アッラーのご加護あれ)子どもの教育(1:38:00~完、2:~7:20) bit.ly/1PPruiy

  

これまで、家庭の土台作りになるニーヤ(意思)とニカー(結婚契約)についてみてきました。今回はその続きです。

 

結婚式が終わって、結婚相手と一緒に最初の日を過ごすことになったら、まずは部屋に入る際に、サラームを伝える挨拶、「アッサラーム アライクム ワ ラフマトゥッラーヒ ワ バラカートゥフ」(あなたにアッラーのご慈悲と平安がありますように)と言って挨拶をします。サラームは、平安、安全です。初めて家族となる相手と過ごす際に、サラームで始めることで、これからの人生に、平安と安全をもたらしてくれます。サラームはとても大切です。そして、スンナの2ラカートの礼拝をし、結婚の際のドゥアーをします。

 

80.結婚する者のドゥアー「アッラーフンマ インニー アスアルカ ハイラハー ワ ハイラ マー ジャバルタハー アライヒ ワ アウーズビカ ミン シャッリハー ワ シャッリ マー ジャバルタハー アライヒ。」

日本語の意味「アッラーよ、私はそこにある良きものを求め、あなたがそのように創造されたところの良きものを求めます。そしてそこにある悪から、そしてあなたがそのように創造されたところの悪しきものからのご加護を求めます。」

 

81.床入り前のドアー「ビスミッラー。アッラーフンマジャンニブナッシャイターナ、ワジャンニビッシャイターナマー ラザクタナー。」

日本語の意味「アッラーの御名において。アッラーよ、私たちからシャイターンを退けて下さい。そして私たちに、授けて下さったものからシャイターンを退けて下さい。」『ムスリムの砦』p.141,142

 

最初に結婚相手と過ごす時、相手との関係を通して、自分とアッラーとの間の関係を築くことをまず考えましょう。昔の敬虔な方は、「アッラーのご満足を求めて妻に対して寛大にし、彼女の権利を守ること、アッラーの権利を守ることを固く心に決めた者には、アッラーは彼女の心に、2つのことを投げ入れます。ひとつは、夫への心からの愛情と優しさ、2つ目は、夫への尊敬と畏敬の念です。」と言いました。新しい家族となった結婚相手と過ごす最初の数日間の夫婦の関係は、これから先、人生を共にする二人の関係が現れます。子どもを迎え入れる準備がここから始まります。子どもの教育が、ここからすでに始まっていることをしっかり思い出しましょう。

 

現在、どれだけ多くのすでに亡くなったご夫婦が、墓の中で結婚当初の日々を思い出し、幸せを感じているでしょうか。アッラーのご満足を求めて、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)のスンナに従って結婚を進めることで、現世だけでなく、墓の中と来世でも幸せを感じる結婚になります。その幸せは現世の一瞬の出来事ではなく、その人の永遠の来世まで持って行くことができる幸せとなります。

 

しかし、男女の関係が多様化し、結婚の意味が変わって来た現代に、こういった婚約や結婚のスンナに従うことは、ムスリムでない親戚、家族や友達から驚かれたりして、様々な困難を伴うかもしれません。そのことについて、預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はこうおっしゃっています。

 

《誰でも私のスンナを蘇生(そせい)した者は、私を蘇生したのです。そして私を蘇生した者は、天国で私と共にいます。》ティルミズィー伝承

 

《私のウンマ(イスラーム共同体)が腐敗する時代に、私のスンナを堅く守る者には、殉教者と同じ報償があります。》タバラーニー伝承

 

《私のウンマ(イスラーム共同体)が腐敗する時代に、私のスンナを堅く守る者には、100人の殉教者と同じ報償があります。》アル=バイハキー伝承

 

結婚に関するスンナを私たちが他の人たちに伝え、守って行くことは、これほど大きなご褒美があります。

 

出産における心配ごと:

心配1)養育費

 

また、結婚に関する心配事のひとつに、お金のことがあります。結婚しても子どもを作ろうとしないご夫婦に理由を尋ねると「まずは自分たちの生計をしっかりしないと、、、」と言います。つまり、子どもの養育費のことを心配しているのです。しかし、イスラームでは、人が一生の間に手にするお金は、すでに母親のお腹の中にいる時に決められています。預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました。

 

《あなた方の誰でもそうだが、母親の体内で40日間でその組織が集められ、その後同様の日数で凝血となる。

それから同様にして肉塊となる。そして天使が遣わされてそれに魂を吹き込む。

それで天使は四つの言葉(を書くこと)を命ぜられる。それは胎児の生計と寿命と行為と幸不幸を書き留めて決定することである。》ムスリム伝承

 

ですから、子どもの養育費は父親ではなく、アッラーが担っておられます。アッラーに不可能なことがありますか?結婚して最初の頃、子どもの養育費を貯めるまで子どもを作らないと決め、収入と支出を計算して、妊娠と出産の計画を立てることによって、寛大なアッラーの糧を自分たちで狭めていることがあります。例えば、ある人は、最初の数年間は子どもの養育費がないから子どもを作らない、と決めます。しかしその決定は、アッラーは私たちにこれだけしか収入を与えてくれない、という確信で、アッラーが与えてくれないと確信すれば、もちろんアッラーは与えません。それは、アッラーに対する悪い見方だからです。つまりアッラーに対して悪い見方をすることによって、自ら収入が入らないようにし、自分で自分の首を絞めていることに気付いていないのです。アッラーの寛大さを自分たちで狭めることはありません。もちろん、出産にも育児にもお金がかかります。しかし、アッラーは、その子の養育費を両親に与えない限り、子どもも与えない、ということを思い出しましょう。

 

私たちは、収入を得るための「手段」を取ることと、その「手段」を頼りにすること、を混同してないように注意しなければなりません。手段を取ることは、アッラーがお許しになられていることですが、その手段を頼りにすることはアッラーが禁じていることです。マルヤム様(平安あれ)に「手段」なく糧をお与えになられたお方が、やはり「手段」なくマルヤム様(平安あれ)にイーサー様(平安あれ)をお与えになられました。

 

【ザカリーヤ一が、かの女を見舞って聖所に入る度に、かの女の前に、食物があるのを見た。かれは言った。「マルヤムよ、どうしてあなたにこれが(来たのか)。」かの女は(答えて)言った。「これはアッラーの御許から(与えられました)。」本当にアッラーは御自分の御心に適う者に限りなく与えられる。】クルアーン イムラーン家章3-37

 

【何かを望まれると、かれが「有れ。」と御命じになれば、即ち有る。】クルアーン ヤースィーン章36-82

 

全宇宙を無からお創りになられたお方が、私たちが「手段」を取らなければ、私たちに与えることができないでしょうか。アッラーは、イーサー様(平安あれ)を出産したばかりのマルヤム様(平安あれ)にこうお命じになられました。

 

【またナツメヤシの幹を、あなたの方に揺り動かせ。新鮮な熟したナツメヤシの実が落ちてこよう。】クルアーン マルヤム章19-25

 

女性がナツメヤシの太い幹を揺らすことなどできるでしょうか。頑強な男性でも実が落ちるほど揺らすことは不可能です。では、出産したばかりの女性にとって、どれほど不可能なことでしょうか。それではどうして、アッラーはマルヤム様(平安あれ)に揺らすことを命じたのでしょうか。もちろん、アッラーは彼女が揺らすことなく、ナツメヤシを彼女に与えることができるのに、です。これが、「手段を取ること」です。マルヤム様(平安あれ)が木を揺り動かそうとすることが、手段です。実が落ちてくることは、その行動とは直接関係ありません。なぜならば、そんな力で揺らそうとしたところで無理だからです。アッラーは私たちに、すべてのものは、「手段」によって起こっているわけではなく、「手段」はただアッラーのご命令に従うだけだ、ということを教えてくださっています。「手段」はアッラーのご命令に従うだけで、私たちは「手段」によってお金を手に入れるのではなく、アッラーのみがそれを与えてくださいます。

 

例えば、小さな子どもがお菓子屋さんで父親に、「飴食べたい!」と言うと、父親が、じゃあ、「1~10まで数を数えてごらん。」と言い、子どもが「1,2,3,4、、、、10!」と数えると、父親は店主のおじさんに合図し、子どもがおじさんから飴をもらって喜んでいる隙にお金を払いました。次の日、子どもはまた飴が食べたいと思い、同じお菓子屋さんに行き、昨日の店主を見つけると、大声で、「おじさん、1,2,3,4、、、、、」と数えはじめ、「、、、10!」と言いますが、おじさんは飴をくれません。この子がやったことは笑いを誘うでしょう。それはそのまま私たちが日ごろアッラーに対してやっていることです。アッラーは、仕事をすることを、糧を得る「手段」としました。決して、「仕事」が糧を与えるわけではありません。しかし、私たちは、糧を得たいと思ったら、「1,2,3,4、、、、」と数えるようになってしまいました。これが私たちの現状です。

 

子どもは店主に、「おじさん、ぼく10数えたよ、昨日みたいに飴ちょうだいよ。」と言います。店主は、「10を数えることが、飴の代金じゃないんだよ。お父さんの言うことを聞いたから、飴をもらえたんだよ。」と言います。アッラーに対しても、私たちは同じことをしています。アッラーが「手段」を取りなさい、と命じたから、私たちは「かしこまりました」と、「手段」を取り、仕事をしますが、その仕事が私たちにお金を与えるわけではないことを、心に刻む必要があります。「手段」がお金をくれるという妄想を消しましょう。「手段」の奴隷になって「手段」を頼りにするのではなく、アッラーに従い、頼ることです。そうすれば、もし「手段」が停滞したとしても、アッラーがそのお力によって、まったく「考えつかないところから、恵みを与え」てくださいます。

 

【かれが考えつかないところから、恵みを与えられる。アッラーを信頼する者には、かれは万全であられる。】クルアーン 離婚章3

 

昔のアッラーをよく知っている先生は、「自分の糧が、いつも考えつくところからしかやって来なければ、自分の信仰を調べなさい。」と言いました。アッラーは、【かれが考えつかないところから、恵みを与えられる。】とおっしゃっているにもかかわらず、自分の糧がいつも考え付くところからしか来ない、ということは、信仰になにか問題がある、ということです。自分の糧の中で、考え付かないところからやって来る糧があるべきだ、ということです。

 

私たちが手段でなく、手段を結果に結びつけてくださる御方にだけ頼ることができますように!


最新の画像もっと見る

コメントを投稿