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欲求の意味についてのメモ

2010年05月03日 | あちこちからタズキヤ(自我浄化)
欲求の意味についてのメモ。

イラーダ(意志、欲求)の動詞はアラーダ(أراد)。クルアーンに何度も出てくる。
من يريد العاجلة عجلنا له
من أراد الآخرة
など。

ドゥンヤー(現世)追求は:卑しい行為であり、火獄へ到達させる道。
ドゥンヤーは:地球上にある人間が欲するものすべて。

ドゥンヤー追求が嫌われる由縁とは?
ドゥンヤー追求が嫌われる意味とは何か?
→①心の依存:無目的にこの世を生きること、衣食住のためだけに生きること。
  ②心が依存しているもので体が忙殺される:人間の食事、努力、睡眠なのどのすべてのために体が奉仕すること。

本来人間は、この世から何を必要としているのか。
→最低限生きるために必要なものは、食物と飲み物など生命の維持に必要なもの。
 他に、恥部を隠す服、寒さや暑さから隠れるための住居など。
どんな人間も、衣食住が最低限必要。
この3つから、人間の生活は進化、進歩していった。

食物を得るために、農業や狩りが発達し、住居の改善のために工業や製造が発達し、衣服の改善のために、織物などが発達した。
これらが発展し続けた結果が現代に見られるものすべて。

この3つは常に人間に思考させた。
思考するにつれ、人間間の関係の発達にもつながると同時に、相違が起き、(食物や家畜を原因に)争うようにもなった。
現代になってもこの状況は変わらない。
食料問題や水不足問題が該当する。
争いを鎮めるために、規則や法が生まれた。
以上を、「発展」と呼ぶ。

この発展は人間の精神に影響を与え、理性と心がそれで忙しくなった。
「どうすれば○○を手に入れられるか。」「どうすればぼられずに済むか。」と考える。
人間は時間のほとんどをこのような思考に費やすようになった。
そして、「嫌悪の心」が生まれた。
その原因は、妬み、自尊心、自惚れなど。
これらの心情は、人間の心が現世に深く絡んだ時に生まれた。

人間は当初、素朴な衣食住を求めたが、それらが改善され、充実してゆくに連れ、
生活を味わい、楽しむようになった。
食べ物の種類が増えれば、他人が持つ食べ物を欲しがるようにもなった。
元来は恥部を覆うのみであった衣服は、人間を区別するものになり、
遂には衣服を製造するようにもなった。
今では来ている服の種類でその人の地位が決まる。
住居も同様。

人間同士の争いの起源とは?
スケールを小さくして、一つの家族の争いである、夫婦問題、親子問題の原因は?
国家問題も、社会問題も、地域問題もすべて、その要因が結局のところ、
「人間の欲」に帰することが分かる。
じっくりと熟考すれば分かること。

だからこそ私たちは一緒に、「アッラーに到達するための道」について考えるべき。
一口の食べ物を体という預かり物ほ保護のために食べようと考える人と、そうでない人の違い。
私たちは欲を持って食べてもよいが、「アッラーが私たちのために準備し給うた」食べ物を頂く
ことに対する感謝と称讃の意を持つこと。

アリー(御満悦あれ)はかつて質問された:
あなた様は冷水または真水をお飲みになりますか。(当時の清貧者たちは禁欲の念から冷水を避けていた)
アリーは答えて:私は冷水を飲む。彼はどうしてでしょうか?と聞かれて、
それを飲むことで、心底から感謝が生まれるからだ、と言った。

暑い中、乾ききった状態での斎戒解除時に冷水を飲むことで、
あなたのアッラーへの感謝と称讃の気持ちはどのようなものになるか?
きっと、心から「アルハムドゥリッラー!」と言うのではないか。
真水であれば普通に「アルハムドゥリッラー」と言うだろう。
アッラーへの感謝の気持ちを生むために、飲食する大切さ。

同質の衣食住を持つ2種の人間について。
一人はアッラーに感謝して食べ、もう一人は欲を満たすために食べている。
この二人の違いとは。
①アッラーの満足を得たい②自分の欲を満たしたい
この2種の欲求の違い。
では人間はドゥンヤーを楽しむべきではないのか。
決してそうではない。
自分が創造された目的を忘れ、欲を満たすためだけに生きることに要注意。
その害とは?
それは、現在私たちが経験している腐敗の数々。
それらすべての原因は、「自分を満足させること」である。

人間がその自我の要求すべてに応じる危険とは?
①その要求は終わることがない上、どんどん不可能なこともを要求してくる
  金を集めることに満足すると、賄賂や騙しを使ってまでも金を集めようとするなど。
②その要求を満たしても、その幸せは一時的である
  自我の幸福は一瞬で終わる。①にあるように、常に違う要求をしては違う幸福を求めるから。

代わって来世を求める者たち:この者たちはドゥンヤーで良いものを食べ、良い家に住み、良い服を着るかもしれない。
いわゆる、ドゥンヤーを満喫している、ということであるが、
ただ彼らは「アルハムドゥリッラー(アッラーに称讃あれ)」と言う。
彼らの幸福は一時的でなく、現世でも来世でも続く。
彼らが「アルハムドゥリッラー」と言う度に報奨がたまり、
審判の日にその報いを受け取る。
アッラーはこのように仰せ給うだろう:
「あなたはわたしに感謝し、称讃した。その報奨と渡そう」と。
لإن شكرتم لأزيدنكم
クルアーンにもあるように、「あなた方が感謝すれば、われはあなた方に必ずや増加しよう」
とアッラーは仰せ給うた。
以上のように、ドゥンヤーを楽しむということ。

次に要注意なのは、
「自我を所有するのであり、自我に所有されないこと」である。
アッラーの御満足のために、自我に騙されないという十分な可能性があっても、
悪を避けること。自我に「ダメだ」と強く言い切れること。
自我は本当に裏切り者だから。

続く。
コメント (3)    この記事についてブログを書く
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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (古流一崇庵)
2010-05-04 21:34:57
マーシャーアッラー。勉強になります。
返信する
ここの箇所は激メモです。 (古流一崇庵)
2010-05-04 21:38:15
人間は当初、素朴な衣食住を求めたが、それらが改善され、充実してゆくに連れ、
生活を味わい、楽しむようになった。
食べ物の種類が増えれば、他人が持つ食べ物を欲しがるようにもなった。
元来は恥部を覆うのみであった衣服は、人間を区別するものになり、
遂には衣服を製造するようにもなった。
今では来ている服の種類でその人の地位が決まる。
住居も同様。

人間同士の争いの起源とは?
スケールを小さくして、一つの家族の争いである、夫婦問題、親子問題の原因は?
国家問題も、社会問題も、地域問題もすべて、その要因が結局のところ、
「人間の欲」に帰することが分かる。
じっくりと熟考すれば分かること。
返信する
Unknown (伊曼)
2010-05-04 23:29:38
コメントありがとうございます。
アルハビーブ・アリーのお話を聴いているのですが、感動の連続です。
返信する

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