◎幸福と冥想
効果を求める冥想は邪道であると唱える場合、これから冥想を始めようと思う人にとって何が問題となるかと言えば、自分にとって幸福とは何かということになる。
実は、アヴァンギャルド精神世界の18年においても本当の幸福について悩んでいたのは、最初の数年であって、徐々に悩むことはなくなっていた。
人間にとって、幸福とは、富貴、栄耀栄華、長寿と健康などいろいろな相がある。そうやって迷う人のために紫微斗数でも四柱推命でも西洋ホロスコープでも人間の諸相を12宮や12室に区切って、財産、兄弟と旅、家庭、母、男女交際、子孫、健康と部下、配偶者、対人関係、死、遺産、高等教育、出世、友人等々の側面があることを見せるものだ。
だが冥想、meditationというものに取り組む場合、人生上の願望実現ということは捨て去る、あるいは、卒業せねばならない。そのことは、さまざま聖典や聖者のエピソードで語られているものだ。
だが世間一般の人は、いきなり世俗の願望実現はあきらめなさいなどと伝えても、まず納得できるものではないので、便法として冥想すれば天国に入る、地獄に落ちない、願望が叶うなどと言ってやるものだ。
どのような願望があるかは、お寺や神社のお守り売り場に行けばわかる。曰く、交通安全、家内安全、恭喜発財、学業成就など現世利益。だが、それって本当の幸福なのか。
また人間が健全な情感を育んでいくためには、幼少期に母の充分な愛が必要なものであって、そうやって子供は最初親に守られて、長じて段々と自我が形成されて親離れするのが順路である。
一方両親が早く亡くなるような生い立ちの場合、このような世俗的幸福の実現可能性のハードルはかなり高いものだ。また臆病な性格の人にとってはそういう境遇は特にきついものだ。
そして当面、自分は死なないとして、老いの問題と、死によってすべての人間関係、財産が失われるという問題が将来に立ちはだかっている。
つまり世俗的幸福一般は、不安定なものだということに気づくことが、不愉快ではあるが、遅かれ早かれやって来る。これは、面白からぬ現実だ。
そこを含めて、直面せよと聖者覚者は唱える。
冥想に取り組ませるため、そんな彼らでも誤解を恐れず感情的反発を避けるため、最高の幸福は、天国の人も老化するので、天国を超えたものである。それが涅槃、ニルヴァーナ、弥陀の慈悲の大海などと示す。
だが、実際の聖者たちの行動では、世俗の幸福は常に無視される。人生を卒業したのだから当然だが、俗人の目からは受け入れがたいものがある。
釈迦は、リッチな王子として生まれたのに、妻子を棄てて一人ジャングルでの冥想修行に入った。
呂洞賓は、科挙に合格して大政治家になって権勢を振るうことを願っていたが、高粱を煮る間にまどろんで、官途について栄達して、最後は没落するところまで、一生の最初から最後まで、夢で見た。そこで、科挙をあきらめ人生を卒業し、錬丹修行に入ることにした。
このように青少年には真の幸福と世俗的願望実現の違いについて、納得してくれるかどうかは別にして、こうした説明はしておくべきなのだろうと思う。
そして縁あって、聖人、覚者と初めて出会った時に「すべてを棄ててきたか?」と問われてびびらないで欲しいと思う。
冥想修行では、先入観念を棄てよ、固定観念を棄てよとよく言われるのだが、それはそういうことでもある。