アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

14 節制

2024-05-24 04:47:20 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-7

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-7

◎至高体験は自発的にやってくる

 

神人合一後は、聖胎長養。神仏の体験とはいえない体験は、それまでの日常感覚と行住坐臥に一致して反映させるには、あまりにもショックが大きい。そこで節制となる。

 

ただし、神人合一でなく、見仏見神見性などの一瞥体験をしたとしても悪人になる可能性があることは、至道無難が指摘しているところ。

 

聖胎長養は悟後の修行と言われるが、悟後の修行の必要性については、ケン・ウィルバーが次のように説明している。

『至高体験がたいてい短時間しか持続しないのに対して--数分から数時間--高原体験はより不変的かつ持続的であり、永続する適応に隣接している。

至高体験はたいてい自発的にやってくるので、それを持続させ、至高から高原に--短時間の変性状態から持続する特性に--変化させるためには長期にわたる実践が必要となる。

ほとんど誰にでも、どんな時でも、どんな年齢でも短時間の至高体験を得ることができるのに対して、私は高原体験の真正の事例において数年にわたる霊的実践を継続していない事例を知らない。』

(ワン・テイスト(1997年11月)/ケン・ウィルバー/コスモスライブラリーから引用)

 

ソーマ・ヨーガのドン・ファン・マトゥスもそれと思われることを言っている。

ドン・ファン・マトゥスは、思考停止において人間は特殊な意識状態で活動できるのだが、これを内的沈黙と呼んだ。これを世界を止めるとも呼ぶ。内的沈黙は蓄積されるのだが、そのような内的沈黙の活動がスタートするには、修行者は破壊点を必要とする。破壊点の後、神と共に生きる形に世界は再構成される印象がある。この「内的沈黙は蓄積される」とは、いかにも聖胎長養を思わせる言葉である。

 

絵柄は、濃厚な大悟覚醒というワインを水で薄めている図。治癒、和解、調整、節制のイメージと言えばわかったような気になるが、その時期の人物を外から見れば、何だかぶらぶらしているようにしか見えない。

 

たとえば京都大徳寺の宗峰妙超は、鍵束をガチャリと置く音で大悟した後、7年間鴨川の乞食の群れに身を投じ、乞食生活をやった。この悟後の乞食生活が、聖胎長養。

 

夢窓国師は、常州の臼庭(北茨城市)の小庵で、五月の末、庭前の木の下で一日坐禅をして、夜も更けたので、疲れて庵に上がって来た。

そこで壁のないところを壁と思って、ふと身をもたれかけたら倒れた。そこで大悟して、思わず失笑した。

臼庭には10月までいて、鎌倉に行き仏国国師に悟ったことを認められた。この5か月が聖胎長養だろう。

 

1652年3月、盤珪禅師は、長崎の道者超元禅師に参じていたが、坐禅中に豁然(かつねん)と大悟した。その後約一年ほどは、聖胎長養をしている。

 

節制、すなわち聖胎長養は、見神後どのようにその体験を定着化させるかという努力なのだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユダヤの生命の木

2024-05-24 04:41:30 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-9

◎世界樹-7

◎五つと五つが向かいあっている

 

中国の建木では、10個の太陽なので迷わず10チャクラのことと見た。古神道でも十種神宝(とくさのかむだから)という概念があり、説明を見ると10チャクラのことだろうと想像される。

 

さてユダヤの生命の木では、10球を用いる。10球だが、その説明を見ると10チャクラではないことがわかる。

 

というのは、セフィロト・生命の木は、2~6世紀に編纂された「創造の書」において初登場するのだが、「創造の書」では、セフィロトについてこんな風に書かれている。

 

『律(ミシュナ)1.2

  そこには無形の十のセフィロトおよび基礎となる二十二の文字がある。そのうち三つは母なる文字であり、七つは重複し、十二の文字は単音である。

 

律(ミシュナ)1.3

そこには無形の十のセフィロト〈それは十本の指の数である〉があり、五つと五つが向かいあっている。そして、中心には、舌(発声器官)のような、裸体(機関〉のような統合の契約が設置されている。』

(カバラ ユダヤ神秘思想の系譜/箱崎総一/青土社P92-93から引用)

 

これを見ると、一つ一つの球がセフィロトであって、10とは、5の陰陽であるから、10球セフィロトとは、六〇干支の十干に相当するものであることがわかる。ただし、十干は、木火土金水の五行を根本思想とするのに対し、西洋では基本の五大(地水火風空)が根本思想のはず。ところが、セフィロト解釈においては、5+5の基本についてはほとんど顧みられていない。

 

むしろ、10球のうち下から七つが7チャクラ照応という説(カバラーの世界/パール・エプスタイン/青土社p92-93)や、最上位の3球を一つと数え、最下位の2球を一つと数え残り5球を五つと数え合計7チャクラとする説(神秘のカバラー/ダイアン・フォーチュン/国書刊行会P88)などの、いかにもとってつけたような説が主流のようである。

ユダヤ教において、5+5の基本概念が劣勢であるということは、「失われた古代テクノロジー」の一つなのではないかとおもう。7チャクラ照応は、前掲ミシュナにあるとおり、本来22文字のほうに置いたのだろう。

このように宇宙樹としてのセフィロトは、宇宙全体の表現としては、7チャクラあるいは10チャクラで表現するのではなく、五大の延長としての10球を採用したと見るべきだろうと思う。

 

こうして五大は、言霊の基本たる五声に展開していく。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熟睡中に眠らなければ夢も見ない

2024-05-24 03:14:28 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-15

◎アートマン-15

◎第六身体アートマンの様々なアスペクト-7

◎信心銘でアートマンの後と先

 

信心銘から

『眼(まなこ)若し睡らざれば 諸夢 自ずから除く

心 若し異なざれば 万法一如なり

一如体玄なれば 兀爾(こつじ)として縁を忘ず

万法 斉しく観ずれば 帰復 自然なり』

 

※眼(まなこ)若し睡らざれば:

熟睡中に眠らない自分。ウパニシャッドの頻出テーマ。荘子大宗師篇にも寝ても夢見ないというのがある。ケン・ウィルバーが、自分では悟ったと思っていた時期に、熟睡中に眠っている自分を発見して愕然として、修行をし直した例もある。

 

※心 若し異なざれば:

臨済録に、『如何なるか是れ心心不異の処?」と弟子が問うと臨済が云く、「あなたがこれを問おうとしていることは、既に異であって、いけない。』というのがある。これに続く言葉である万法一如(ア―トマン)と心が異なってはならない。

 

※一如体玄なれば 兀爾(こつじ)として縁を忘ず:

万法一如(ア―トマン)は、この一つながりのものであって、万物も時間も空間も物質もあらゆる生物無生物の想念も感情も意思も含まれる今ここしかない今。これが玄(神秘)なのだが、ごつごつとした石くれのように取り付くしまがなく、非人間的な乾いたもの。

そこでは、あらゆる人間ドラマを起こす原因である縁すら忘れられている。

 

※万法 斉しく観ずれば 帰復 自然なり:男女、天地、有無、善悪、貧富、貴賤などあらゆる区別がなかったと、斉(ひと)しく観ずる。すると石ころの心から一歩出て、万物(自然)は自分であったことに気づく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする