アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

前半が生の世界で後半が死の世界

2024-05-19 05:36:47 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-2

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-2

 

タロットのアルカナを秘儀と訳している場合がある。大アルカナとは大秘儀であって、普通の人間が神になるプロセスと技法を示しているからには、まさに大秘儀である。

大秘儀とは密教的であるからして、その寓意の読み方は、一語につき3種類はあるもので二語並べば9種類になるとは、呂洞賓の示唆するところである。

大アルカナ22枚が悟りへの22段のパスであるとして、それの鍵を誰に問うかといえば、ホドロフスキーだろう。一つの技に打ち込めば、やがて神に至る。それは、剣道、柔道、合気道、古武道、茶道、舞踊、ダンス、音楽など武道、芸道をはじめとして、仕事を一心に精密にやり続ける事上磨錬においてすら神が開顕されることがあることに同じ。

ホドロフスキーは、まさにタロットを肌身離さず触り、タロットの一枚一枚を愛(め)で冥想し、何度も並べ返してみては、神意のインスピレーションを得てきたことが、文章の端々でわかる。

 

さて彼のカモワン版大アルカナ俯瞰は次のようなものであって、無番号の愚者と最終21番の世界を別格とし、残り20枚を前半と後半に二分割する。

『大アルカナの第1の列(IからX)は特定可能な状況にある人間あるいは動物を表している。ほとんどの場合、これらのカードの上端は中心人物(たち)の頭部の位置と一致している。

例外はアルカナVI「恋人」で、天の部分は 太陽と幼児のような小天使によって占められている。この列は歴史的ないしは社会的な意味を暗に含む絵を描いており、「光」と呼ぶこともできる。

 

大アルカナの2番目の列(XIからXX)では 人物と状況がより寓意的になり現実に即した特徴は少なくなっている。この列は「闇」と呼ぶこともできるだろう。なぜなら夢に近い精神的または 霊的な世界の内部で繰り広げられるようにも思われるからである。

天使や悪魔といった神話的な人物も登場する。さらにアルカナXVI「神の家」以降では空を満たしているのはエネルギーの顕現、天体、神の使者たちである。』

(タロットの宇宙/アレハンドロ・ホドロフスキー/国書刊行会P42-43から引用)

 

ホドロフスキーは、前半10枚を光、後半10枚を闇と言っているが、これは前半が生の世界で後半が死の世界だろう。そしてXXI世界が第六身体アートマンにして、無番号愚者たる第七身体ニルヴァーナを別格に置く。これぞ悟りへの22段のパスの風光である。

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わたし自身に我が身を犠牲に捧げて世界を逆転

2024-05-19 05:29:17 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-4

◎世界樹-2

◎世界樹に吊り下がっている人間の姿

 

イグドラシルには、世界が倒立しているニュアンスはない。そこで万神の主宰者オーディンが登場してくる。

 

オーディンの箴言から、

『箴言138.

わしは、風の吹きさらす樹に、九夜の間、槍に傷つき、オーディン、つまり、わし自身に我が身を犠牲に捧げて、たれもどんな根から生えているか知らぬ樹に吊り下がったことを覚えている。』

(エッダ-古代北欧歌謡集/谷口幸男訳/新潮社P38から引用)

 

九は数の窮極であり、「九夜」とは、長さを計れないほど長い時間または時間を超えた世界。時間を超えた世界であるから、もはや個性をも超えた世界を指す。

 

「槍に傷つき」とは、クンダリーニというエネルギー・コードに刺し貫かれていること。

 

「わし自身に我が身を犠牲に捧げて」というのは、自分というものがない絶対者(神、仏)のレベルに至っていること。絶対者においてレベルなどはないが、ここはわが身を捨てるのだ。

このあたりは、古神道の出口王仁三郎が、本来の自己である本守護神を奉斎させたのと同じ。

「誰もどんな根から生えているか知らぬ樹」とは、根っこが絶対者のこと。天である絶対者という根っこからあらゆる人間、動物、生物、無生物というエネルギー・コードの枝葉が伸びている。逆に人間の側から見れば、根っこに向かって上昇していくように見える。

このようにこの箴言は、クンダリーニ・ヨーガ型の冥想体験で、絶対者(オーディン)に到達して、その後絶対者の側から、エネルギー・コード(クンダリーニ)にぶら下がった人間の姿を「世界樹に吊り下がっている人間」の姿と見たものであることがわかる。

つまりこの箴言の視点は人間の視点からではないが、この風景はいつもおなじみのタロットカードの「吊るされた男」で見かける風景であった。

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種の世界と変動する現実世界

2024-05-19 03:06:21 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-10

◎アートマン-10

◎第六身体アートマンの様々なアスペクト-2

◎第六身体とアカシック・レコード

 

第六身体は、一つながりのものであり、アートマンである。ところが、一つの謎がある。

まずアカシック・レコードあるいは、アーカーシャ、これは、現在・過去・未来のすべてが詰まった情報集積体であり、メガ・データ・ベースでもある。さらにこれは、躍動する現実世界全体の集合体でもある。

現在・過去・未来、そして時間・空間・物質も一つながりであるがゆえに、未来が変えられるのと同時に、当然に過去も変えられる。

人は自分のする善行と悪行で、時々刻々世界の未来と過去を変えている。

これは、第六身体の変動する部分。

 

ところが第六身体アートマンには、時間のない世界、時間のない部分、永遠に変わらない部分がある。それが原型、プラトンの言うイデアの世界である。

世の中には何百万もの花があるが、すべてイデアの世界にある現象の「種」の世界に花イデアがあり、その花は、ひまわりとして咲き、チューリップとして咲き、薔薇として咲き、散る。

イデアの世界の花イデアは永遠不滅であり、一方現実世界のひまわりもチューリップも薔薇も、つぼみをつけ咲き、散り、変化し滅びる。

つまり、アカシック・レコードとは、カルマの集合体でもあるのだが、永遠不壊の部分と変化生滅する部分の二相を持つかのように見える。これが謎。

ところが、どうしても時間がある前提で世界を考えがちな我々に対して、ダンテス・ダイジは、『現在・過去・未来、そして時間・空間・物質はもとより一つながりのものである。それが人間の意識にとっては、時間・空間・物質が、現在・過去・未来のスクリーンに展開しているように見える』というように示唆しているように思う。(ダンテス・ダイジは“言葉”ではこのようには説明していないのではあるが。)

種が映写機であって、フィルムがカルマ、スクリーンの映像が現実にして幻影とも言える。

 

要するに素人目には、アートマン、この一つながりのものは、永遠不壊な部分と変動するカルマの集積体の部分という二重構造に見える。ところが、実際はそうではなく、カルマの集積体にしてあらゆる現実というのは、人間の頭で作り出した幻影にすぎないものであって、そこを諸行無常とか、空とか色即是空という。よって現実・カルマの側をプラトンは洞窟に現れた影とする。

結局アートマン、第六身体、このひとつながりのものは、最初から永遠不壊であっただけで、二相性はなく、変りはしなかったということなのだろうと思う。これが神界ということ。

このアートマンの見方は、人類だけでなく、犬猫の動物にも無生物にも宇宙人にも通用する類の見方ではあるが、そこまで透徹するのがひっくり返った世界というものなのだろう。

さらにこれに関連して前世記憶の問題もある。

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