アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クンダリーニ・ヨーガの源流-3

2024-05-13 06:23:21 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎不死への上昇

(2014-11-06)

 

(承前)『心臓の脈官は百と一ある。その内のひとつは頭頂へと走っている。(アートマンは)それによって上方におもむき、(頭頂の孔(ブラフマランドラ)から身体を脱けだして)不死に到達する。他(の脈管)はあらゆる方向に出て行くためにある。

 

親指大の人間(プルシャ)、(万物の)内部にあるアートマンは、常に人々の心臓に座を占めている。それを自分の身体から不撓の心で引き出すべきである。ムンジャ草から髓を引き出すようにそれを輝くもの、不死のものと知るべきである。それを輝くもの、不死のものと知るべきである。

 

ナチケータスは死神によって説かれたこの知識と、ヨーガの全規定とを得て、ブラフマンに到達し、汚れを離れ、死を超越した者となった。

 

まさしく最高のアートマンについてこのように知る他の者も(死を超越した者となるのである。)。

 

オーム。われら(師匠と弟子)をともに嘉したまえ。われらをともに益したまえ。われらが共に精進せんことを。 学習したことがわれらに輝かしからんことを。われらが憎み合うことのなからんことを。

 

オーム。平安あれ、平安あれ、平安あれ。』

(世界の名著 バラモン経典/中央公論p150-151から引用)

 

アートマンは人によっては真我と訳すが、これは、個別性があるのかないのか誤解を招きかねない訳語であるように思う。有、「ただある」こそが、アートマンであって、個別性があっては本来のアートマンではない。つまり個別性が残る以上は、個別性の極北であるコーザル体であるときちんと表現すべきものをここでは、アートマンと呼んでいる。個別性の頂点であるコーザル体のこともアートマンと呼んでいるのだ。ウパニシャッドの時代には、アートマンに個別性があるかどうかはあまり問題にならなかったと見るべきだろう。

 

ここで個別性が不死たる中心太陽に到達する。この不死が中心太陽であることを初めて公開したのがダンテス・ダイジ。この時代にそれを公開する意義は、現代人の世界観では、個別性の極限を「不死」という生活実感の中でとらえるのではなく、肉体の死にも不死にもこだわらず、ビジュアルにこの世界を越えたいわば異次元の、自分というものをも捨てた先に有ることを鳥瞰的にとらえる必要があると見たのだろうか。

 

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによれば、コーザル体は心臓の位置に見え、アートマン(真我)も心臓内の洞窟に見える。この見え方を前提として、心臓からの脈管という表現があるように思う。そもそもアートマンに個別性はないのに、なぜか心臓の位置に、原子よりも更に小さい球体として霊視できるとしている。

 

おまけにスワミ・ヨーゲシヴァラナンダのコーザル体の説明では、コーザル体の一番外側はブラフマンの光球であると説明している。コーザル体は個別性があるが、その中に個別性のないかつ全く次元の異なるブラフマンを視認できるとは、妙な気がする。

 

このアートマンとブラフマンはコーザル体を見に行った時に見えるとするが、見る自分というのがあって、アートマンとは見る自分と見られるものとの区別のない状態なのに、「ただある」のアートマンが見えたり、ブラフマンが見えるとするのは、ひょっとしたら霊覚者、霊能者の見方を超えていないのではないかという疑念を禁じ得ない。

 

しかしここではアートマンが心臓にあると説明し、それを抽き出してきなさいと求道のルートを説明している。それが当時の人にとっては、最も受け入れやすい説明だったのだろうが、個別性の極みにある現代人にとっては、心臓をいくら解剖してもアートマンなど発見できないと反論するだろうから、アートマンと個別性の議論と、肉体と七つの身体の議論を整理して出していかないと、我等が無垢なる隣人に理解の糸口をつかんでいただくことすらできないだろう。

 

いずれにせよ、頭頂から自分が脱け出し、不死なる中心太陽に到達することがクンダリーニ・ヨーガの目標であることが、古代インド、ウパニシャッドの当時から王道とされていたことをここでは確認したい。

 

【チャクラと七つの身体-321】

◎アートマン-25

2.ウパニシャッド ◎クンダリーニ・ヨーガの源流-3

(ザ・ジャンプ・アウト375)

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クンダリーニ・ヨーガの源流-2

2024-05-13 06:17:58 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎仮死で「ただある」

(2014-11-05)

 

(承前)『五感の知覚も思考力も停止し、理性も活動しない時、それを人々は最高の帰趨という。

その確固とした感覚器官の保持を、人々はヨーガと理解する。そのとき人は心を散らさなくなる。なぜならばヨーガは(内的な力の)発現であり、(最高の帰趨への)没入であるから。

ことばによっても、思考力によっても、視覚によっても、それ(アートマン)は得られない。それは「ある」という以外には、どのようにして理解されよう。

 

ただ「ある」というようにのみ、それは理解されるべきである。両者(理解するものとされるもの)の同一である状態として。ただ「ある」というように理解されたとき、(両者の)同一である状態が明らかになる。

 

彼の心を拠りどころとするすべての欲望が追放されるとき、死すべきものは不死となり、この世においてブラフマンに到達する。

 

この世において心の結び目がすっかり解きほぐされるとき、死すべきものは不死となる。

 

以上が(このウパニシャッドの)教えである。』

(世界の名著 バラモン経典/中央公論社P150から引用)

 

五感も停止、思考も停止、理性も停止するとは、肉体機能が停止し、アストラル体に帰属する感情も動かず、メンタル体に帰属する想念も動かない状態と見ることができよう。ここでは冥想による仮死状態が前提とされていると見ることができよう。

 

まず「その確固とした感覚器官の保持」ともあるので、クンダリーニ・ヨーガ特有の聞き守る、見守るという冥想の基本がここで確認されている。

 

この時心の散乱がないということであるから、ダーラナー(総持)という心の一点集中を経て、冥想する対象と冥想する自分がつながりディアーナ(定)の状態となる。密教では、冥想(観想)対象として多数の尊格を用いるが、ウパニシャッドでは、その対象が何であるかは、最終段階ではあまり問題にする必要はないものであると見ていることがわかる。

 

最後に冥想する者と冥想する対象が一体となる、サマーディ(三昧)の状態となり、ただ「ある」だけとなる。

 

例によって「ただある」というアートマンに到達したら、論理的説明抜きで、次のブラフマンに行ってしまうかのようだ。

 

 

【チャクラと七つの身体-320】

◎アートマン-24

2.ウパニシャッド ◎クンダリーニ・ヨーガの源流-2

(ザ・ジャンプ・アウト374)

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クンダリーニ・ヨーガの源流-1

2024-05-13 06:09:57 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎ウパニシャッド「死神の秘教」

(2014-11-04)

 

カタ・ウパニシャッドの死神の秘教は、賢者ナチケータスが死神に死の秘密を明かしてもらうストーリー。ここでは、アートマンがあって、ブラフマンがあってというのが前提となっているので、これはクンダリーニ・ヨーガ的世界観、修行体系の中の話となる。

 

この章の冒頭に世界樹アシュヴァッタ樹が説明され、その根が上方にあり、枝が下方にあると説明される。根とは頭頂サハスラーラ・チャクラのことであり、他の6チャクラがそこから展開することを枝と謂う。アシュヴァッタ樹は永遠であり、不死である。

 

また全世界の比喩として、大きな恐怖、振りかざされた金剛杵(武勇神インドラの武器)も用いられる。金剛杵は、密教の秘儀のシンボルであり、真言密教、チベット密教の金剛杵のそもそもの出所はここにあることがわかる。みじめでちっぽけな自我の上に真っ向から振り下ろされようとする全世界がダイヤモンド・ハンマーであることを知る人は不死となる。

 

『感覚器官よりも思考力がすぐれ、思考力よりも純粋存在の方が高次である。純粋存在よりも大きいアートマンがまさり、大きいものよりも未開展のものが上位にある。

 

しかし未開展のものよりも、遍満し、まったく(その存在を示す)徴表を持たない精神原理(プルシャ)がすぐれている。彼(精神原理)を知って被造物は解放され、そして不死の状態に到達する。

 

彼の姿は目に見えず、だれも彼を目で見ることはない。彼は心によって、思惟によって、思考力によって表象される。このことを知る人は不死となる。』

(世界の名著 バラモン経典/中央公論社p149-150から引用)

 

純粋存在(サットヴァ)とは、コーザル体か。大きいアートマンよりも上位にある「未開展のもの」はブラフマン。

ブラフマンの更に上に「精神原理(プルシャ)」を置いている。「精神原理(プルシャ)」は、遍満し、まったく(その存在を示す)徴表を持たないという性質なので、アートマンのことと考えられる。ブラフマンよりもアートマンが上位かどうかという議論には意味がないように思うので、この書き方にはある意図を想像する。

 

【チャクラと七つの身体-319】

◎アートマン-23

2.ウパニシャッド ◎クンダリーニ・ヨーガの源流-1

(ザ・ジャンプ・アウト373)

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第六から第七へは、究極の死

2024-05-13 03:27:32 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-4

◎アートマン-4

◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-3

◎冥想の効用のない部分-3

◎語り得ることは何もない

 

第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性についてOSHOバグワンは、最も詳しく説明している。

 

『第六から第七へ入っていくことは、究極の死だ。これを知ったらあなたは驚くだろうが、アチャリアとは、古くは最後の死を教える者という意味だった。「教師(アチャリア)は死だ」という格言がある。 だから、ナチケタが死の神に至った時、彼はアチャリアに至った。死の神は死の事以外、何も教えられない。アチャリアとは、ただ、死滅、崩壊、消滅だけを説くことができる者への名称だ。

 

(中略)

 

第六から第七に入る時に、放棄は起こる。そこではあなたというものを投げ捨てる ― なぜならあなたには、それ以外に何もないのだから。あなたはまさに、自分の実存を捨て去る。

 

唯一、意味ある放棄は、第六から第七の次元に入ることだ。それ以前では放棄について語ろうと、すべて子供じみている。「これは私のものだ」と言う人は愚かだ。「私は自分の物をすべて捨てた」と言う人も愚かだ。彼は、依然として所有者だと主張しているのだから。ただ自分自身だけが、自分のものだ―――しかし、人々はこれを理解していない。

 

だからあなたは、第五から第六にかけて自分が誰かを知り、第六から第七へは、自分であるものを放棄できるようになる。

 

自分であるものを放棄した瞬間、もはや成就すべきものは何も残らず、放棄されるものも何もない。そして、どんな問いすらも残っていない。そこには限りなき静寂、永遠の沈黙がある。その後は、至福や平和があるとも言えない。真実や偽りがあるとも、光や闇があるとも言えない。語り得ることは何もない。これが第七の次元の世界だ。』

(奇跡の探求2-七身体の神秘/和尚/市民出版社P367-368から引用)

 

ナチケータの故事は、古代インドのカタ・ウパシャッドに出てくる。ナチケータが死神にいろいろ教わるが、結局個人なる自分が死んで、アートマンに至る。

 

次に「自分であるもの」とは第六身体アートマンのことだが、これは個人でなく、個人を含む宇宙全体、世界全体のこと。それを前提に、第六から第七へは、自分であるものを放棄する。これが秘儀中の秘儀。これを説明した文章にはなかなかお目にかかることはない。

 

更に第七身体には、限りなき静寂、永遠の沈黙だけがあって、至福も平和も真実も偽りもなく、光や闇すらない。

この点で、至福だ平和だ、真理だ偽りだ、光だ闇だを究極と位置づけている宗教は、考えてみる必要があるのだろうと思う。

OSHOバグワンは、究極ニルヴァーナのことを仮に限りなき静寂、永遠の沈黙と称しているだけのこと。だが、大衆宗教、世界宗教で、「究極とは、何だかよくわからないものです。」とやれば、収拾がつかず組織の統制はとれにくいものだろう。それでも、禅はそれをやり続けてきたということはある。

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