◎ジェイド・タブレット-外典-11-7
◎世界樹-5
◎影を造ることなく音もない
中国にも世界樹、生命の木、哲学の木がある。建木である。
淮南子・地形訓の崑崙山の段、『建木は都広に在り、衆帝の自(よ)って上下する所。日中無景(影)にして呼(さけ)べども響きなし。蓋し天地の中なり。』
(世界樹は、大地の中央にあって、神々はここを昇降する。太陽の南中する時刻のように影を造ることなく、音もない。これぞ天地の中心である。)
これは、キリスト教にも霊界物語でも見かける天の梯子のイメージ。アセンションで通って行くところ。しかし、更に意味深長なのは、日中無影にして、呼(さけ)べども響きなしのところ。目に見える風景が動かず、かつ音がない世界。
これは、時間が止まった世界のことである。時間を止めるというのは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスが好んで使った表現。時間を止めるとは想念が停止すること。そこではじめて世界の中央となる。今流行の『今ここ』とは、本来このレベルを指す。
世界樹は根と枝に別れる。人間に当てれば根が頭であり、枝の方が足となり、日常意識の立ち姿とは転倒している。世界樹の根は死の世界の側であり、樹冠側が生の世界。死の世界は生の世界より広い。
また山海経の海外東経にも建木の別名の扶桑についての記述がある。これは、扶桑には10個の太陽が沐浴するところであり、9個の太陽は下の枝にあり、一個の太陽が上の枝にいる。10個の太陽は10チャクラ。上の枝の太陽はサハスラーラ・チャクラ(ブラフマランドラ)にあたり、別格であることを示す。
沐浴は不思議である。錬金術書哲学者の薔薇園では、結合の前に沐浴し、道教の慧命経では、転法輪には、沐浴2回のルールがある。この沐浴とは位置を移動せず、単に位置が定まっているということか。