アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ホセイン・マンスール・ハッラージ-1

2024-05-02 03:29:42 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-30

◎垂直上昇への仕掛け-30

◎大逆転と倒立-9

◎私には斬首台の上でしか語れぬ、あのお方との秘密がある

 

ホセイン・マンスール・ハッラージは、9世紀のスーフィの聖者。私は神であると唱えたばかりに、イスラムの組織宗教側から斬首命令を受けた。ところがその斬首台の上で四肢を切り刻まれつつ語った言葉が、21世紀の今に大きく伝えられている。

私は神であると唱えた時点で、自分と神は逆転を遂げた。大逆転を公然と唱える聖者は多いものではない。そうすることは、危険だからである。

また組織宗教では、教派の如何を問わず、人間である信者が、私は神であると唱えた瞬間に、異端のそしりを受け、磔にあったりする。中東や欧州では、どの宗派であっても最終的には神人合一を目指すはずなのだが、教団側は、神人合一の一歩手前に留まることをベストとし、実際に神人合一になると排斥しがちである。

これは、後進の者が「私は神だ」とやると、教祖の権威を犯すことになるので、組織防衛の見地からそういうことをやるのだろうが、本来お粗末なことであると思う。

 

ハッラージは、刑死前夜、刑務所に300人いた囚人を超能力で枷を解き、扉を開け、全員逃がしてやったのだが、自分だけは牢内に留まった。その理由を問われて、「私には斬首台の上でしか語れぬ、あのお方との秘密がある」と応えている。

彼の処刑には10万人が集まり、早速彼に石を投げ始めたが、途中から知り合いの聖職者が泥を投げたのを見て嘆息して言うには、

『自分がしようとしていることを知らぬ者たちは許されるが、石を投げてはならぬことを知っている者のことは私には辛い。』(イスラーム神秘主義聖者列伝/ファリード・ウッディーン・ムハンマド・アッタール/国書刊行会P357から引用)

 

求道者の立ち居振る舞いは、かくの如く厳しさを求められる。曹洞禅の師家でも悟りなどないと主張し、未悟の修行者を混乱させる方がいたことを知った(「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々)。これでは悟りと修行は一つ(修証一如)と唱える方にはきついのではないか。

 

エックハルトも神との合一を表現したが、異端認定されないように苦労したらしい。

 

人間が神に逆転するということは、人間の側から見れば、狂人とされ相手にされない、異端と認定され迫害される、神人として尊敬されるの三種類があるが、この世界的近代西欧文明では、狂人とされるか異端とされるかがほとんどである。あの世界的村八分になったOSHOバグワンへの扱いは、その典型である。

コメント
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