◎ジェイド・タブレット-外典-10-2
◎崇高な〈日の老いたる者〉が、子どもとして生まれてくる
キリスト教においては、三位一体という大枠の中で、父なる神が息子における若返りという形で誕生するというイメージがある。神の子イエスとは、父なる神の『日の老いたる息子』なのだ。
以下にC.G.ユングの説明を挙げる。
『同じように錬金術でも老いたる王には救済者としての息子がひとりある。ないしは老王自身が救済者としての息子になる(ラピスは始めにおいても終わりにおいてもラピスである!)。さらに、王がよりよきものに改まる必要性という点では、中世のある考え方を考慮に入れなくてはならない。それは旧約聖書の怒れる神の新約聖書の愛の神への変容にかかわる考え方で、神は一角獣のように処女〔マリア〕の膝のなかで 〔胎内で〕怒りを鎮められ変貌したというのである。この種の考えはすでにフランシ スコ会の聖人ヨハネス・フィダンツァ・ボナヴェントゥラ(一二七四歿) にも現われているように思われる。その際注意すべきは、教会の比喩言語は父なる神を老人の姿で思い浮かべることを好み、父なる神が息子における若返りという形で誕生するというイメージを好むという事実である。
ノラのパウリヌスはある讃歌のなかで教会を神の母〔聖母〕のアナロジーとして讃美しているが、そこにはこういう詩句が見える。
けれどもこの妻は、なんぴとも触れなかったその肉体においてはいつまでも妹のままだ。
彼女が抱擁するのは霊である。彼女の愛する人は神なのだから。
この母から老人が、いまだ可愛らしい子どもの姿で生まれ・・・・・・
ここにいわれているのは、たとえば受洗者―――「新たな子どもへと生まれ変わる者」 renatus in novam infantiam―――のことであるが、しかし教会と神の母のアナロジーはまさに、父なる神自身が髭をたくわえた老人として、息子なる神が新たに生まれる子どもとして崇拝されたという点に存するのである。
「老人」senex と 「子ども」puer のこのような鮮やかな対置はおそらく一再ならず古代エジプトの神学の神の更新という元型と接触したことであろう。エフラエム・シュルスのつぎの詩句に見られるようにこの対立の本質同一性が、はっきりと前面に現れている場合には特にそのことをうかがわせる。「崇高さに満ちた〈日の老いたる者〉が、子どもとして、子宮のなかにやどっていた」 Antiquus dierum cum sua celsitate habitavit, ut infans, in utero. 「おお処女よ、汝の小さな子は老人である。いな、〈日の老いたる者〉であり、あらゆる時に先立って存在していたのだ」 Puerulus tuus senex est, o virgo, ipse est Antiquus dierum et omnia praecessit tempora.』
(結合の神秘Ⅱ/C.G.ユング/人文書院P34-35から引用)
※ラピス:賢者の石
これは、チベット密教の母の光明が、より錬磨洗練されて子の光明に進化することを連想させるイメージである。チベット密教では母から子、キリスト教では父から子。