アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

生の側の10枚

2024-05-20 04:17:23 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-3

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-3

 

さらにホドロフスキーは、大アルカナ前半10枚では、その動作が上方に向いている一方、10枚はその動作が下方に向いていることに気がついている。

具体的には、前半10枚では、「大道芸人」(I)と「女帝」(III)は棒を、「皇帝」(IIII)、「教皇」(V)、「戦車」(VII)の王子は笏を持ち上げている、など。

また後半10枚では、「力」(XI)の女性は股間に頭を押しつける動物の口を抑えつけている。「吊られた男」(XII)は下方に頭を向けたままで吊るされている。「節制」(XIIII)の天使は液体あるいは流体を上の壺から下の壷へと 注いでいる、など。

 

この並びについて、ホドロフスキーは2枚ずつ眺めていくという炯眼を披露している。1と10は独立だが、2-3、4-5、6-7、8-9がペア。

 

まずは、前半10枚について。前半は生の世界だから、霊があるとか、人は死んだら生まれ変わるとか、人間には微細身(アストラル体、メンタル体など)があるなどとは言わない。前半10枚の冥想手法としては、黙照枯坐の只管打坐、仕事を精密にやり続ける事上磨錬、武道、芸道など。

 

1 魔術師(大道芸人)

 只管打坐では、修証一如と申して、修行も悟りも同じだ、つまり「悟っていない人も悟った人も同じだ」と主張する。これは、悟った人がそれを言うのは間違いないが、悟っていない人がそれを言うのは間違いである。

 これは、この魔術師が凡人であると同時に完全人(イブを分離する以前のアダム、アダムカドモン)、原人でもあることを意味するのと同じ意味である。

絵柄では、スシュムナー、イダー、ピンガラーの3本のナディ(気道)を示す三本足のテーブルの上にクンダリーニのエネルギー・コードたる蛇のしっぽが載っている。

最初に登場した人物は最後にはクンダリーニを極めることを示しているのだ。

 

2 女教皇(女司祭長)

 キリスト教は自称三位一体だが、実質二位一体とも言われる。これは、神が父であるが故に母なる神がないことを示す。つまりこの女教皇は失われた太母、聖母マリアなのだ。精神性における母性の表象。

 

3 女帝

 これは、女教皇が聖のトップであるのに対し世俗のトップ。誕生、出産、多産という肉体のレベルでの母性の表象

 

4 皇帝

 肉体、物質レベルでの世俗での王。南面する人。人は肉体なしでは悟れないということはある。

 

5 教皇(法王、司祭長)

 皇帝に対し、精神面での王。北面する人。

 皇帝と教皇の対面は、達磨の6世紀梁の武帝との対面や、大燈国師の花園上皇との対面のシーンのイメージ。

 

6 恋人達(恋愛、恋人)

 柔弱なる力、受容性、精神面での他者に親しむ力。燃え上がる生命力、エロス、魂の伴侶との引き合う力。人間の側の都合。だが大慈悲。

古事記で言えば、日に千五百人産み出すイザナギ神のポジティブパワー。

 

7 戦車(征服者)

 強硬な、無慈悲なる力。物質面での他者に影響を与える力。圧倒的破壊力。古事記で言えば、日に千人取り殺すイザナミ神のネガティブパワー。

 歴史学者アーノルド・トインビーは、インドの巨大山車ジャガーノートで轢き殺されると天国に行けるから、どんどん山車の前に人は身を投げるという具合に書いてあった。この戦車とはまさにジャガーノート。

ただし数年前にその祭りのNHK放送を2時間くらい目を皿のようにして見たが、巨大山車ジャガーノートの前面側面に見張りやら警備員が立っていて、結局誰も飛び込まなかった。

 

8正義

 正義、公正。顕教。善と悪とを立て分ける。善悪をきちんと区分するためには、日々善の側に立ち、積善陰徳を積み重ねて行かねばならない。それは悟った者の生きる姿である諸悪莫作衆善奉行(悪いことをしない、善いことをする)でもある。

※カモワンでは、VIIIは「力」でなく「正義」になっている。

 

9 隠者

 神秘的パワーにより人間を隠れてサポートする。密教。冥想。

顕教の大衆宗教であるカトリック、禅などで構築された社会には、必ず年に1回か2回、オルギア的乱痴気騒ぎや、嘘をつきまくってよい日など、日常の秩序からのガス抜きの日が設けられているものだ。

宗教の戒律を守り、ともすれば苦行のように見える抑圧の継続する日常には、その社会のどこかに神秘家スピリチュアリストがいて、抜け穴を見せてくれるものだ。

 

10 運命の輪(運命、運命の車)

 人は勤倹、敬虔に暮らしていけば、あるいはそうでない生き方をしてもカルマは消化され、次の人生に進んでいくか、大悟覚醒して輪廻転生を終了するかする。輪廻転生してロバに生まれ変わったり、ペットに生まれ変わったりという人もいるらしいし、動物から人に生まれ変わる人もいるらしい。またマンツーマン輪廻かどうかという議論もあるし、転生しないというカトリックの見方もある。

 

生の側の10枚の最後は、輪廻転生そのものだが、悟りの必要条件は、『人間を卒業する』、『あらゆる実感を経る』ことなので、ここにこれが置かれている。

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視点の転換と世界そのものの転換の違い

2024-05-20 04:07:58 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-5

◎世界樹-3

◎世界の転換

 

タロットカード「吊るされた男」では世界が逆さまに見えるだけである。要するに視点が変わっただけで、それだけのことである。

しかし、世界樹のシンボルで示唆するのは、世界観の転換という視点だけの変化ではない。世界そのものが転換するのである。樹冠と根の位置が逆転するとはそういうことである。

一般に、新しい世界に入ればそれが世界の転換だと人は思う。

臨死体験でよくあるケースで、真っ暗なトンネルを抜けたら、アストラル体世界に入り、天上に張りついてベッドに眠る自分の肉体を見下ろしていたというのがある。最初の体外離脱はショックなものだ。肉体宇宙からアストラル体宇宙に変わったが、見ている自分は変わっていない。よってこれは視点の転換にすぎない。

また、エーテル体宇宙も超えて、スウェーデンボルグやルドルフ・シュタイナーや出口王仁三郎や沖縄のユタや恐山のイタコのように様々な霊的生物に出会うアストラル宇宙に入ったとしても、居る世界は変わったが、見る自分に変わりなく、視点の転換ということでは同列である。

更には、第四身体たるメンタル体宇宙も超え、第五身体たるコーザル体宇宙に至っても、それぞれのボディの宇宙の超越ではあるが、残念ながら見ている自分は変わらないので、やはり視点の変更にすぎない。

霊界に入ったことが人間として大きな進歩だみたいにいう人がいるが、その驚異の実感には嘘はないのだろうが、それだけでは何も産まない。というのは世界は逆転しておらず、自分は自分のままで、みじめでちっぽけな自分は何も変わっていないからである。

つまりコーザル体宇宙までの、「居る世界の変更」では真の「逆転」は起こっていないのだ。タロットカードの木に吊るされた男のように世界は逆転して見えはしないのだ。

 

さて十牛図第七図は、忘牛存人。神、仏という全体性は取り込んだものの、いわばそれまでのあらゆる宇宙の延長であることに変わりはない。つまり逆転が起こったという風情ではない。だから慈遠禅師や廓庵禅師のコメントも、のんびりとした風情を漂わせている。理屈からすれば、世界と一つになって大逆転したこの段階で、大きな感動をありがとうと叫ぶべきところだが、そんなムードではない。

十牛図第七図はアートマンだが、第八図になって「なにもかもなし」、言葉では表現できないとなる。それもリアリティ。ここに二つ目のリアリティが現実となってやってきて、本質的な意味で世界が転換すると禅家は言いたいのだろうか。ここでは、視点は、第七図で一回、第八図で一回と二回変わっている。しかも、視点だけが変わるのではなく、本質的な意味で、世界そのものが変わる。

 

このようにいわゆる「世界の転換」にはいろいろなバリエーションがあるが、真の転換は、アストラル・トリップでも、霊覚を磨くことでも勿論ない。それは、ヘルメス文書の「諸力に自らを引き渡し、諸力となって神の内になる。」(ヘルメス文書/朝日出版社P75-76から引用)という表現のようにそこから一歩先にある。

自分が神を見るという視点は失われ、神が神として見るのである。

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時間が流れない現実認識

2024-05-20 03:30:10 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-11

◎アートマン-11

◎第六身体アートマンの様々なアスペクト-3

◎一つながりのもの、一気、アートマンでの逆転

 

この一つながりのもの、古代中国では一気というのだが、これには過去、現在、未来が含まれ、空間、時間、物質が含まれる。

我々は、時間が流れるというのが、当たり前とされる現実認識に生きているのだが、それは絶対的なものではない。

すべての現象、すべての人間、すべての生物、すべての無生物は、一気の中に含まれ、かつそこには、今ここしかない。

今ここ或いは一気は、あらゆる過去の結果であり、今ここはあらゆる未来の原因でもあるのだが、こういう現実感覚はなかなか頭の訓練材料としても題材は少ない。

一つは、蛇であって、自分の頭を咥えているウロボロス。

旧約聖書では、まずいきなり神が出て、なんと天地を創造し、光と闇を創り出し、七日間の創造ということで、いきなり二元で始まり、一気・いまここ・アートマンなどないかの如く始まる。これは怪しい。もっともOSHOバグワンは、第六身体は創造と破壊だと言ってはいる。

古事記では、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神が独神として最初に出現して、身を隠す。この段階では、一気も何もない。これは禅の十牛図では第八図のなにもかもなし。

だがさらに古事記では、独神が二柱続く。それが宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじ)と天常立神(あめのとこたちのかみ)。この二柱の神は葦牙(あしかび)のように萌え騰(あ)がれるものによってできたとされるので、これが一気に当たるのだろうと思う。

これは禅の十牛図では、忘牛存人。

 

ここでなんだかわかった気になるのだが、過去、現在、未来が含まれ、空間、時間、物質が含まれ、現在しかない現在が変動している。あるいは、今ここしかない万有が、過去も未来もなく戯れているというのは、なかなか想像しづらい。

映画マトリックスの最初の巻では、真のワールドと偽のワールドがあるのだが、見ている自分をなくさないので、一気=アートマンには肉迫できていない。

どうしてもyoutubeや映画のように人間は自分の人生を動画として観てしまう。だから危急時に一瞬で全人生を回顧するパノラマ現象があり、死後の閻魔大王の面前では人生回顧ドラマを見せられる。

高粱一炊の夢でも回顧シーンの尺は短いが、それは過去でなく将来のダイジェストだった。

その動画が出てくるライブラリーが一気=アートマンであることはわかるが、世界の認知が時間が止まってしまったままになるということも逆転、顛倒の諸相の一つなのだろう。

そしてその世界認知にあっては、すべてが見知らない。そして透徹した孤独。

そういう詩や述解を至るところで目にしてきた。

一つながりのもの、一気、アートマンでは、逆転するとは、そういうことなのだろう。

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