アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

破竈堕(はそうだ)和尚

2024-05-16 12:41:15 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎竈の神が成仏する

(2015-04-30)

 

破竈堕和尚は、唐代中期の人、嵩岳(すうがく)の慧安国師の法嗣である。

破竈堕和尚は、嵩岳に隠棲していたが、嵩岳の近在のある霊廟に祟りをなす竈の神がいると聞きつけた。

ある日和尚は、侍者を連れてその霊廟に入り、杖でその竈を三回叩いて言った。「こら、この竈はただ泥と瓦でできているだけだ、お前はどこからきて、祟りをなすのだ。」

そしてまた竈を三回叩くと、たちまち竈が崩れ落ち、青い衣と高い冠をつけた人物が出現し、和尚を礼拝した。

 

和尚がお前は誰だと問うと、その人物は、「私はもともとこの竈の神で、長い間カルマの報いを受けていた。本日和尚の説法のおかげで、竈を脱し、天に生まれ変わることができた。そこでここに戻って謝意を表するものです。」

和尚は、「これはあなたの本有(ほんう)の性(本来の自己、アートマン、十牛図の牛)です。私の説法の力などではない」

竈の神は一度礼拝して、姿を消した。

以後和尚はこの故事を以って破竈堕和尚と呼ばれた。この話は除霊のことではない。

竈の神ですら、自分が本当は一個の神であることを悟る。いわんや人間をや、いわんや仏弟子をや。その悟りは他人から教わるものではない。

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第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの間のサマーディ-2

2024-05-16 03:38:11 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-7

◎アートマン-7

◎万象の種子がある世界からそれすらもない世界へ

 

「玉ようかん」は、風船に詰められたピンポン球サイズの和菓子で、爪楊枝で風船をつつくと風船が割れて中の羊羹が食べられるようになる。第六身体アートマンは、爪楊枝よろしく中心太陽に突入するが、その羊羹たる第七身体ニルヴァーナの属性を前段に引き続いてOSHOバグワンが述べる。

 

『だから第六身体において実体性(ポジティブ)が消え失せたら、あなたは第七身体に入ってゆく。第六の現実が第七の扉だ。実体性が存在しなければ―――どんな神話もどんな夢もなければ―――夢はやむ。そのときには、ただあるものが、真如がある。いまやなにも実在しないが、実在がある。ものごとはないが、源がある。木は存在しないが、種子はある。

 

知るに至った者たちは、このような心を種子のあるサマーディ―――サマーディ・サヴィージ―――と呼んできた。あらゆるものが消え失せ、あらゆるものが始原の源、宇宙の種子へと帰還する。木は存在しないが、種子はある。だが種子からも夢見はなお可能なため、種子でさえ破壊されねばならない。

 

第七身体においては、夢も現実も存在しない。夢見が可能な地点までは現実のなにかを見ることができる。もし夢の可能性がないとしたら、現実も幻想も存在しない。だから第七は中心だ。もう夢と現実はひとつになった。どんな違いも存在しない。無の夢を見ようが、無を知ろうが、無は同一のものにとどまる。

 

もし私があなたの夢を見るとしたら、それは幻想だ。もしあなたを見るなら、それは現実だ。だがあなたの不在の夢を見ようと、あるいはあなたの不在を見ようと、なんの違いもない。あなたがどんな不在の夢を見ても、その夢は不在そのものとしては同じだ。実体的(ポジティブ)なものに関してしか、本当の違いは存在しない。だから第六身体までは違いが存在する。第七身体においては無しか残らない。種子についてさえ、その不在がある。これがニルヴィージ・サマーディ、無種子三昧だ。もはや夢見の可能性は存在しない。』

(秘教の心理学/和尚/瞑想社P141-142から引用)

※実体性or実体的:それ自体によって存在し、また他の存在を必要とせずに存在する様。

 

これによると、扉だ、サマーディだと彼は殊更に強調するが、あまりボディたる第六身体のどこが扉なのかは明確ではない。ただ有種子三昧(サビカルパ・サマーディ)が起これば、無種子三昧(ニルビカルパ・サマーディ)に進まざるを得ないというモウメンタムはわかる。

ダンテス・ダイジの冥想十字マップでは、有種子三昧に相当する有相三昧と、無種子三昧に相当する無相三昧とを空間的進化の横ラインに置き、第六身体の知恵と第七身体ニルヴァーナを時間的進化の縦ラインに置いている。つまり単純に有種子三昧(サビカルパ・サマーディ)が第六身体アートマン、無種子三昧(ニルビカルパ・サマーディ)が第七身体ニルヴァーナだと考えるべきではないということなのだろう。

その体験とは言えない体験の中で、扉と部屋の中味が自ずとわかるということだろうか。

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