◎ジェイド・タブレット-11-13
◎アートマン-13
◎第六身体アートマンの様々なアスペクト-5
◎真我、空、本尊、アートマン、一気
縁とは、関係性のこと。すべてのものごとは関係性の中にある、あるいは、あらゆるものは縁によって起こる。
二者が分断された世界では、そういうことを言う。だが、逆に客観と主観という区分が成立しなければ、存在するものなど何もない。
『自分は誰なのか。目を閉じれば独りあることの中で、すべての概念が落ちる。自分は何ものでもあり得ない。その時、空が起こる。すべての概念がなくなり、自分の存在だけが残る。』
(そして花々が降りそそぐ 和尚/講話 市民出版社 P27から引用)
真我と言ったり、空と言ったり、本尊と言ったり、アートマンと言ったり、一気と言ったり、宗派によって呼び名は異なるが、皆同じことを言っている。
だが現代科学の客観手法では、同じことを言っていることを証明する手立てはない。
空は、微細身ですらもない。
人に求められるのは、それを証明することではなく、空という名もなきものになること。
ここでは、閉眼冥想を言っているかのようだが、釈迦像が半眼であるように、釈迦も半眼で目を落とした。
人が一日でできることは限られている。人が自由になる時間は限定されている。冥想に充てる時間を捻出するのは厳しいが、ある程度眠る時間を削るのも仕方がない。行為のみが人を神へ導き解放するのだ。惰眠していては何も起きない。