アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

12 吊された男

2024-05-22 04:25:18 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-5

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-5

◎世界が逆転

 

12 吊された男は、個人と世界が逆転して世界が主で個人が従、換言すれば、世界樹で言えば、根が世界で枝葉が個人。

 世界が逆転して見えるのは、個なる自分が世界全体、宇宙全体となった時だが、上下逆転と語るのは、逆立ちしていなかった時分の認識が残っているからであって、世界観が倒立した驚きが残っている時点とみる。

 

世界観の逆転には、一時的な場合と半永久な場合があって、半永久の方は「20世界」と「0愚者」があるので、ここは見神、見仏の方なのだろうと思う。見神見仏した人間を菩薩と言い、菩薩には52ランクが設けられており、あの空海ですら52ランク中の上から10番目、下から43番目の発光ランクとされる。見仏して、仏を知ったとしてもまだまだ上がある。同様に世界が倒立して見えたとしてもまだまだ求むべき目標は先なのだ。

 

世界には吊るされた男があふれている。

1.【ペテロ】

ペテロは、イエスの使徒の一人にして最初のローマ教皇。彼が十字架にかかる時、逆さ磔になったのは、イエスを憚って逆さにしたなどと言われるが、聖書外典ペテロ行伝では、この姿を『初めて誕生した人間の模写』だと表現し、十字架の縦木と横木の交わった場所に打たれた釘こそ回心・悔い改め(悟り)だとしている。

逆さはりつけで、右のものは左になり、左のものは右になり、上のものは下になり、下のものは上になる。これは、ヘルメス・トリスメギストスのエメラルド・タブレットを連想させる言い回し。

左右上下逆転の姿は、逆転という死からの再生を経て、それまで有用とされたものが無用となり、それまで無用とされていたものが有用となること。

 

2.【吊るされた男の死】

『奥義を完全に伝授された男は、その工程すべての知識を持っており、こうした秘儀を自分のものにするからには、死の報いがあることを知っている。

(タロットの大家から、沈黙の義務を象徴すると言われている、「吊るされた男」にかんするエリファス・レヴィの言葉)』

(世界予言全書/トニー・アラン/原書房P154から引用)

 

この文からすると、吊るされた男は、クンダリーニ・ヨーガの工程すべての知識を持っている男であって、死を経て、体験とは言えない体験をする。

 

その体験の後、9割方の人は死によってその人生を終わるが、まれに復活する者がいる。復活する者の中には、言葉を持たない者もおり、彼らからは精妙なバイブレーションは伝わるが、言葉による伝授はない。ただし復活した者の中には、言葉でもって大いに語る者もいる。その一人が出口王仁三郎である。

 

3.【北欧神話オーディンの箴言】

箴言138.

わしは、風の吹きさらす樹に、九日間の間、槍に傷つき、オーディン、つまりわし自身に我が身を犠牲に捧げて、誰もどんな根から生えているか知らぬ樹に吊り下がったことを覚えている。

 

九は数の窮極であり、「九日間」とは、長さを計れないほど長い時間または時間を超えた世界。

「槍に傷つき」とは、クンダリーニというエネルギー・コードに刺し貫かれていること。

「我が身を犠牲に捧げて」というのは、自分というものがない第六身体アートマンのレベルに至っていること。

「誰もどんな根から生えているか知らぬ樹」とは、根っこが絶対者(神、中心太陽、オーディン)のこと。絶対者という根っこからあらゆる人間、動物、生物というエネルギー・コードの枝葉が伸びている。逆に人間の側から見れば、根っこに向かって上昇していくように見える。

この箴言は、クンダリーニ・ヨーガ型の冥想体験で、絶対者(神、中心太陽、オーディン)に到達して、その後絶対者の側から、クンダリーニのエネルギー・コードにぶら下がった人間の姿を「世界樹に吊り下がっている人間」の姿と見たものであることがわかる。

 

さて12 吊された男と13死神はペア。男が吊るされるためには、男は死なねばならないから、この二つはペアになっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

建木=中国の世界樹

2024-05-22 04:01:13 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-7

◎世界樹-5

◎影を造ることなく音もない

 

中国にも世界樹、生命の木、哲学の木がある。建木である。

 

淮南子・地形訓の崑崙山の段、『建木は都広に在り、衆帝の自(よ)って上下する所。日中無景(影)にして呼(さけ)べども響きなし。蓋し天地の中なり。』

(世界樹は、大地の中央にあって、神々はここを昇降する。太陽の南中する時刻のように影を造ることなく、音もない。これぞ天地の中心である。)

 

これは、キリスト教にも霊界物語でも見かける天の梯子のイメージ。アセンションで通って行くところ。しかし、更に意味深長なのは、日中無影にして、呼(さけ)べども響きなしのところ。目に見える風景が動かず、かつ音がない世界。

 

これは、時間が止まった世界のことである。時間を止めるというのは、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスが好んで使った表現。時間を止めるとは想念が停止すること。そこではじめて世界の中央となる。今流行の『今ここ』とは、本来このレベルを指す。

世界樹は根と枝に別れる。人間に当てれば根が頭であり、枝の方が足となり、日常意識の立ち姿とは転倒している。世界樹の根は死の世界の側であり、樹冠側が生の世界。死の世界は生の世界より広い。

また山海経の海外東経にも建木の別名の扶桑についての記述がある。これは、扶桑には10個の太陽が沐浴するところであり、9個の太陽は下の枝にあり、一個の太陽が上の枝にいる。10個の太陽は10チャクラ。上の枝の太陽はサハスラーラ・チャクラ(ブラフマランドラ)にあたり、別格であることを示す。

沐浴は不思議である。錬金術書哲学者の薔薇園では、結合の前に沐浴し、道教の慧命経では、転法輪には、沐浴2回のルールがある。この沐浴とは位置を移動せず、単に位置が定まっているということか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

その時、空が起こる

2024-05-22 03:44:03 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-13

◎アートマン-13

◎第六身体アートマンの様々なアスペクト-5

◎真我、空、本尊、アートマン、一気

 

縁とは、関係性のこと。すべてのものごとは関係性の中にある、あるいは、あらゆるものは縁によって起こる。

二者が分断された世界では、そういうことを言う。だが、逆に客観と主観という区分が成立しなければ、存在するものなど何もない。

『自分は誰なのか。目を閉じれば独りあることの中で、すべての概念が落ちる。自分は何ものでもあり得ない。その時、空が起こる。すべての概念がなくなり、自分の存在だけが残る。』

(そして花々が降りそそぐ 和尚/講話 市民出版社 P27から引用)

 

真我と言ったり、空と言ったり、本尊と言ったり、アートマンと言ったり、一気と言ったり、宗派によって呼び名は異なるが、皆同じことを言っている。

だが現代科学の客観手法では、同じことを言っていることを証明する手立てはない。

空は、微細身ですらもない。

人に求められるのは、それを証明することではなく、空という名もなきものになること。

 

ここでは、閉眼冥想を言っているかのようだが、釈迦像が半眼であるように、釈迦も半眼で目を落とした。

人が一日でできることは限られている。人が自由になる時間は限定されている。冥想に充てる時間を捻出するのは厳しいが、ある程度眠る時間を削るのも仕方がない。行為のみが人を神へ導き解放するのだ。惰眠していては何も起きない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする