アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ニルヴァーナ直前のサマーディ

2024-05-14 03:36:46 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-5

◎アートマン-5

◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-4

◎冥想の効用のない部分-4

◎各ボディ間サマーディ

 

第六身体アートマンから第七身体ニルヴァーナへ入っていくことは、究極の死であり、棄てることだと、OSHOバグワンは唱える。

さらに誰も言及していないことを彼は言っている。その間で起きるサマーディのことである。

 

なおサマーディには、見ている自分が残ったままのトランス的なサマーディと、見ている自分が存在しないタイプのサマーディがある。

 

『実のところ、サマーディにはいろいろなタイプがある。あるサマーディは、第四と第五身体の間で起こる。覚えておきなさい。サマーディは、ひとつの次元の中での出来事ではない。それはいつもふたつの次元の狭間、黄昏時に起こる。黄昏は昼に属すのか、夜に属すのかと尋ねるのももっともだが、黄昏は昼にも夜にも属さぬ、その狭間の出来事だ。サマーディも同じだ。

最初のサマーディは、第四と第五の次元の間で起こる。このサマーディは自己実現、アートマ・ギャンへと導く。あるサマーディは、第五と第六の次元の間で起き、今度はブラフマ・ギ ャン、宇宙的英知へと導く。第六と第七の次元の間で起こるサマーディは、涅槃へと導く。

だから一般的に、三つのサマーディが起こるのは、最後の三つのシャリール ――最後の三つの身体―の間だ。」』

(奇跡の探求2-七身体の神秘/和尚/市民出版社P414から引用)

 

OSHOバグワンは、サマーディ(三昧)とは、身体と身体の間で起きるもので、いわば(各身体を部屋とみれば)ドアのようなものであって、身体そのものではないとも説明している。(上掲書P416)

これは結構語るべからざるを語っている。

ほとんどの宗教や古伝承でもここまで踏み込んではいない。

人は死ねば三途の川を渡ると言い慣わされているのだが、三途の川は生と死の境目。どういう川かはほとんど説明されることがない。

だが、その渡河の最初から最後までを語っているのはチベット死者の書。狭間(はざま)を語っている。

OSHOバグワンもニルヴァーナへの渡河の道を暗示している。

同じようなニルヴァーナへの橋をイメージできるものとしてダンテス・ダイジが説明したものがある。

 

コメント
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