◎ジェイド・タブレット-11-5
◎アートマン-5
◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-4
◎冥想の効用のない部分-4
◎各ボディ間サマーディ
第六身体アートマンから第七身体ニルヴァーナへ入っていくことは、究極の死であり、棄てることだと、OSHOバグワンは唱える。
さらに誰も言及していないことを彼は言っている。その間で起きるサマーディのことである。
なおサマーディには、見ている自分が残ったままのトランス的なサマーディと、見ている自分が存在しないタイプのサマーディがある。
『実のところ、サマーディにはいろいろなタイプがある。あるサマーディは、第四と第五身体の間で起こる。覚えておきなさい。サマーディは、ひとつの次元の中での出来事ではない。それはいつもふたつの次元の狭間、黄昏時に起こる。黄昏は昼に属すのか、夜に属すのかと尋ねるのももっともだが、黄昏は昼にも夜にも属さぬ、その狭間の出来事だ。サマーディも同じだ。
最初のサマーディは、第四と第五の次元の間で起こる。このサマーディは自己実現、アートマ・ギャンへと導く。あるサマーディは、第五と第六の次元の間で起き、今度はブラフマ・ギ ャン、宇宙的英知へと導く。第六と第七の次元の間で起こるサマーディは、涅槃へと導く。
だから一般的に、三つのサマーディが起こるのは、最後の三つのシャリール ――最後の三つの身体―の間だ。」』
(奇跡の探求2-七身体の神秘/和尚/市民出版社P414から引用)
OSHOバグワンは、サマーディ(三昧)とは、身体と身体の間で起きるもので、いわば(各身体を部屋とみれば)ドアのようなものであって、身体そのものではないとも説明している。(上掲書P416)
これは結構語るべからざるを語っている。
ほとんどの宗教や古伝承でもここまで踏み込んではいない。
人は死ねば三途の川を渡ると言い慣わされているのだが、三途の川は生と死の境目。どういう川かはほとんど説明されることがない。
だが、その渡河の最初から最後までを語っているのはチベット死者の書。狭間(はざま)を語っている。
OSHOバグワンもニルヴァーナへの渡河の道を暗示している。
同じようなニルヴァーナへの橋をイメージできるものとしてダンテス・ダイジが説明したものがある。